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第7話 夢を見る兄妹

第7話 夢を見る兄妹


 一月の終わりだった。


 実家の庭に薄く雪が積もっている。朝の空気は凍るように冷たく、吐く息が白かった。


 奈緒は厚手のグレーのニットを着込み、陽菜に小さなダウンジャケットを着せていた。


「はい、ばんざーい」


 陽菜はきゃっきゃと笑いながら両腕を上げる。


 その無邪気な声だけが、この家の冬を少し明るくしていた。


 居間では母が石油ストーブの上で湯を沸かしている。しゅんしゅんという音と一緒に、焼き餅の香ばしい匂いが広がっていた。


「奈緒、お雑煮食べる?」


「食べる」


 母は丸餅を椀へ入れながら言った。


「今日模試でしょ」


「うん」


「緊張してる?」


 奈緒は少し笑った。


「まあまあ」


 実家へ戻ってから二ヶ月が経っていた。


 生活は相変わらず慌ただしい。


 陽菜は夜中に何度も起きるし、離乳食は投げるし、洗濯は終わらない。


 それでも奈緒は毎日英語を続けていた。


 朝十分。


 昼寝中二十分。


 夜一時間。


 細切れでも積み重ねる。


 最初は苦痛だったリスニングも、最近は少しずつ聞こえるようになってきた。


 一方アメリカでは、智也と結衣がスマホを片手に笑顔を作っていた。


「お兄ちゃん、もっと笑って!」


「疲れてんだけど」


「SNS用なんだからちゃんとしてよ」


 結衣はスマホを掲げる。


 背景には洒落たカフェ。


 大きな窓。


 ラテアート。


 木目調のテーブル。


 一見すれば“理想の海外生活”だった。


 だが写真を撮り終えた瞬間、結衣は顔をしかめた。


「一番安いのにしたの?」


「金ねえんだから仕方ないだろ」


 智也は紙コップのコーヒーを啜った。


 ぬるい。


 シェアハウスの家賃支払いで、二人ともほとんど貯金が消えていた。


 結衣は最近、日本人向けレストランでアルバイトを始めていた。観光ビザに近い状態での労働は危険だったが、そうでもしなければ食べていけない。


「今日も面接?」


「うん」


「大丈夫だって。お兄ちゃん頭いいし」


 智也は曖昧に笑った。


 その笑顔は、以前よりずっと弱々しかった。


 午後。


 奈緒は陽菜を母に預け、近所の貸し会議室でTOEIC模試を受けていた。


 暖房の効いた部屋。


 乾燥した空気。


 シャープペンが紙を擦る音。


 奈緒はネイビーのタートルネックに黒いパンツという地味な格好だった。髪も後ろでひとつに結んでいる。


 周囲には大学生らしき若者や、スーツ姿の会社員がいた。


 みんな真剣な顔をしている。


 奈緒は深呼吸した。


 問題冊子を開く。


『Part3』


 英語音声が流れ始める。


 以前なら頭が真っ白になっていた。


 でも今は違う。


 単語が聞こえる。


 会話の流れが追える。


 奈緒は集中した。


 一方その頃、智也はダウンタウンの雑居ビルで面接を受けていた。


『Can you speak English fluently?』


 外国人面接官が尋ねる。


 智也は固まった。


「……リトル」


『How long have you been studying English?』


「えっと……」


 頭が真っ白になる。


 結衣に言われるまま“海外なら変われる”と思って来た。


 だが現実は違った。


 英語が話せない。


 経歴も弱い。


 スキルもない。


 日本では“まだ可能性がある人”でいられた。


 でもここでは、ただの何もできない三十四歳だった。


『Sorry, we are looking for experienced workers.』


 面接官は事務的に言った。


 終わりだった。


 外へ出ると、冷たい雨が降っていた。


 智也は濡れた歩道を見下ろす。


 巨大な英語看板。


 早口で話す外国人たち。


 車のクラクション。


 全部、自分とは関係ない世界みたいだった。


 夜。


 シェアハウスへ戻ると、結衣がスマホを見ながら苛立っていた。


「なんで既読つかないの」


「誰?」


「レストランのシフト」


 結衣は髪をかき上げた。


 以前の余裕は消えている。


 部屋にはインスタント麺の匂いがこもっていた。


「今日どうだった?」


 智也は黙った。


「……落ちた」


「また?」


 その一言で空気が変わった。


「しょうがないじゃん」


「しょうがなくないでしょ!」


 結衣が声を荒げた。


「お兄ちゃんもっと勉強してよ!」


「してるよ!」


「全然足りないって!」


 沈黙。


 狭い部屋の中で、暖房の音だけが響く。


 智也はぼそりと言った。


「……日本帰りたい」


 結衣が顔を上げる。


「は?」


「疲れた」


「何言ってんの?」


「思ってたのと違う」


「今さら?」


 結衣の目が険しくなる。


「お兄ちゃんが人生変えたいって言ったんじゃん!」


 智也は何も言えなかった。


 その頃、奈緒は模試結果を見ていた。


 八百十点。


「……え」


 思わず声が漏れる。


 八百点を超えた。


 本当に。


 奈緒はしばらく画面を見つめていた。


 胸の奥が熱い。


 嬉しかった。


 泣きそうなくらい。


 帰宅すると、母が鍋を作っていた。


 白菜と豚肉の匂いが湯気と一緒に広がる。


「どうだった?」


 奈緒はスマホを見せた。


 母が目を丸くする。


「すごいじゃない」


「……うん」


 陽菜が鍋の湯気を見て笑っている。


 奈緒は娘を抱き上げた。


 柔らかい。


 温かい。


 その重みを感じながら、奈緒はふと思う。


 夢を見るだけなら簡単だ。


 “海外で成功する自分”を想像するだけなら。


 でも現実を生きるのは難しい。


 毎日眠くて、疲れて、泣きたくて、それでも続ける。


 奈緒は陽菜の頬に顔を寄せた。


 その夜、結衣のSNSには新しい写真が上がっていた。


『夢は叶う✨』


 夜景を背に笑う兄妹。


 けれど智也の目だけ、少し死んでいた。




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