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エピローグ 春の続き

エピローグ 春の続き


 六月だった。


 雨上がりの朝は少し蒸し暑く、駅前のアスファルトが濡れて光っていた。


 奈緒は片手で陽菜の手を握り、もう片方の肩に通勤バッグを掛けて歩いていた。


「ママ、みずたまり!」


 陽菜が長靴で水たまりを踏む。


 ぱしゃっ、と小さな水音。


「こら、スカート濡れるよ」


 奈緒は笑いながら娘を引き寄せた。


 保育園へ向かう道には紫陽花が咲いている。青や紫の花びらが朝露を含み、柔らかく揺れていた。


 一年前の自分なら、この道を歩きながら泣いていたかもしれない。


 置いていかれたと思っていた。


 人生が終わったと思っていた。


 でも今は違う。


「ママ、おしごと?」


「うん、お仕事」


「えいご?」


 奈緒は少し驚いて笑った。


「そう、英語」


「えいご、ぺらぺら?」


「まだまだ」


 陽菜はよくわからないまま楽しそうに笑う。


 保育園へ送り届けたあと、奈緒は会社へ向かった。


 電車は混んでいたが、以前ほど苦ではない。


 窓に映る自分を見る。


 薄いベージュのブラウスに紺色のパンツ。髪はひとつにまとめ、耳には小さなシルバーのピアス。


 ちゃんと働く大人の顔になったな、と少し思う。


 会社へ着くと、海外事業部は朝から慌ただしかった。


「高瀬さん、十時からシンガポール案件お願いします!」


「はい」


「資料英訳終わってます?」


「送ってあります」


 パソコン画面には英語メールが並ぶ。


 以前なら怖かった英語が、今は“仕事の道具”になっていた。


 昼休み、奈緒は社員食堂でカレーを食べていた。


 スパイスの匂い。トレーの音。周囲の話し声。


「高瀬さんって帰国子女でしたっけ?」


 後輩が聞く。


「違うよ」


「えっ、英語めちゃくちゃ自然だから」


 奈緒は苦笑した。


「夜泣きの横で覚えた英語だからね」


「え?」


「なんでもない」


 奈緒は水を飲んだ。


 窓の外には灰色の雲が広がっている。


 ふと、一年前のことを思い出す。


 シアトルの写真。


 “人生変えてきます”という投稿。


 あの時は、本当に自分だけが取り残された気がした。


 でも結局、人生はSNSみたいに綺麗じゃなかった。


 夢だけじゃ変わらない。


 誰かに“特別”と言われても変わらない。


 変わるのは、毎日を積み重ねた人だけだ。


 夕方、会社を出る頃には雨が降り始めていた。


 奈緒は駅前のスーパーへ寄る。


 今日の夕飯はハンバーグにしようと思った。


 陽菜が好きだから。


 合い挽き肉。

 玉ねぎ。

 牛乳。

 パン粉。


 カゴへ入れていく。


 その時、背後から聞き覚えのある声がした。


「……奈緒」


 振り返ると、智也だった。


 奈緒は少し驚いた。


 以前より痩せている。


 黒いTシャツに安いパーカー。髪も伸びっぱなしだが、前より少しだけ顔色はまともだった。


「久しぶり」


「うん……」


 気まずい沈黙。


 スーパーのBGMだけが流れている。


「陽菜、元気?」


「元気」


「そっか」


 智也は視線を落とした。


「俺、最近コンビニの夜勤始めた」


「そう」


「ちゃんと働こうと思って」


 奈緒は頷いた。


「いいと思う」


 智也は少し笑った。


「前の俺、ほんと終わってたよな」


 奈緒は返事をしなかった。


 でも否定もしなかった。


「最近さ」


 智也がぽつりと言う。


「やっとわかったんだよね」


「何が?」


「人生って、急に変わるもんじゃないって」


 奈緒は静かに智也を見た。


 その目に、以前みたいな“何者かになりたい焦り”はもうなかった。


 ただ疲れた普通の男の顔をしていた。


「英語、まだ勉強してる?」


 智也が聞く。


「仕事で毎日使ってる」


「そっか」


 智也は少し笑った。


「奈緒の方が、本当に海外向いてたんだな」


 奈緒は小さく息を吐いた。


「向いてたっていうか」


「うん?」


「逃げなかっただけかも」


 智也は何も言えなかった。


 奈緒は会釈し、レジへ向かった。


 外へ出ると、雨は少し弱くなっていた。


 濡れた道路に街灯が映っている。


 奈緒はビニール傘を開きながら空を見上げた。


 人生は、ドラマみたいに一瞬では変わらない。


 毎日少しずつ。


 泣きながらでも。


 眠くても。


 逃げたくても。


 それでも続けた人だけが、少しずつ遠くへ行ける。


 家へ帰ると、陽菜が走ってきた。


「ママおかえり!」


「ただいま」


 奈緒はしゃがみ込み、娘を抱きしめる。


 温かい。


 それだけで十分だった。


 台所では母が味噌汁を温めている。


 湯気の向こうに、いつもの夜がある。


 奈緒はエプロンをつけながら、静かに笑った。


 遠くへ行かなくても。


 人生は、ちゃんと変えられるのだ。




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