第11話 人生を変えたのは
第11話 人生を変えたのは
四月の朝だった。
新しいスーツはまだ少し硬く、袖を通すたび奈緒は落ち着かない気持ちになる。
鏡の前でネイビーのジャケットを整えながら、奈緒は小さく息を吐いた。
白いブラウス。
細いシルバーの腕時計。
低めの黒いパンプス。
一年前、夜泣きで髪もろくに乾かせず泣いていた自分とは、まるで別人みたいだった。
「ママまだー?」
陽菜の声が廊下から聞こえる。
「今行く」
奈緒は笑いながらリビングへ向かった。
陽菜は黄色い帽子を被り、小さなリュックを背負っている。頬はふっくら赤く、髪は母に結ってもらったのか綺麗に二つ結びになっていた。
「おはよ、奈緒」
母が味噌汁をよそいながら言う。
朝の食卓には焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のおひたし。炊き立ての白米の湯気が立ち上っている。
「今日からだっけ」
「うん。異動初日」
「海外事業部なんてすごいじゃない」
奈緒は少し照れくさそうに笑った。
「まだ実感ない」
会社は奈緒のTOEICスコアを評価し、海外事業部への異動を打診してきた。
英語メール対応。
海外クライアントとのオンライン会議。
通訳補助。
一年前なら想像もできなかった。
奈緒は味噌汁を飲む。
温かい。
その温度が身体にゆっくり染みていく。
食後、陽菜を保育園へ送る。
春の空は明るく、道端には小さな花が咲いていた。
「ママ、おしごと?」
「そうだよ」
「がんばってね!」
奈緒は思わず笑った。
「ありがとう」
保育園の前では、他の母親たちが慌ただしく子どもを送り出している。
泣く子。
笑う子。
眠そうな父親。
普通の朝だった。
でも奈緒には、それが少し眩しかった。
一方その頃、智也は実家の薄暗い部屋で布団を被っていた。
「ちょっとお兄ちゃん!」
結衣の怒鳴り声が響く。
「また洗濯してないの!?」
「後でやるって」
「後で後でっていつも!」
部屋にはコンビニ弁当の空き容器が散乱していた。
カーテンは閉めっぱなし。
昼なのに暗い。
渡米から帰国して一年。
智也はまだ定職に就けていなかった。
結衣も実家へ戻っていたが、以前のような“海外成功者”の雰囲気は完全に消えていた。
「ていうかさ」
智也が苛立ったように言う。
「お前が海外行こうとか言わなきゃ」
「は!? お兄ちゃんもノリノリだったじゃん!」
「でもお前が煽ったんだろ!」
「人のせいにしないでよ!」
兄妹の怒鳴り声が部屋に響く。
以前は“運命共同体”みたいだった二人は、今では互いの失敗を映す鏡みたいになっていた。
結衣がスマホを見ながら吐き捨てる。
「奈緒さん、昇進したんだって」
智也の顔が強張る。
「……は?」
「海外事業部」
沈黙。
智也はゆっくり顔を覆った。
「マジかよ……」
その頃、奈緒は会社の会議室にいた。
ガラス張りのオフィス。
ノートパソコン。
コーヒーの香り。
画面の向こうでは海外クライアントが英語で話している。
『Nice to meet you.』
奈緒は自然に返した。
「Nice to meet you too.」
言葉が出る。
ちゃんと聞き取れる。
一年前、夜中に泣きながら聞いていたリスニング音声を思い出した。
あの時間は無駄じゃなかった。
会議が終わると、隣の先輩社員が笑った。
「高瀬さん、発音綺麗ですね」
「ありがとうございます」
「助かりました」
奈緒は小さく頭を下げた。
嬉しかった。
誰かに“可能性”を語られるのではなく、自分の積み重ねを評価されることが。
帰宅は夕方になった。
保育園へ迎えに行くと、陽菜が走ってくる。
「ママー!」
奈緒はしゃがみ込み、娘を抱きしめた。
小さい。
温かい。
この一年、何度この重みに救われただろう。
「今日ね、おえかきしたの!」
「ほんと?」
「みて!」
クレヨンで描かれた丸だらけの絵。
奈緒は笑った。
「上手」
帰り道、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
スーパーから漂う揚げ物の匂い。
自転車のベル。
保育園帰りの子どもたちの声。
どこにでもある、日本の夕方。
でも奈緒は思う。
あの日、智也は“ここでは人生が変わらない”と思った。
だから遠くへ逃げた。
けれど本当に人生を変えるのは、もっと地味で、もっと退屈なことだった。
毎日起きること。
ご飯を作ること。
子どもを育てること。
勉強を続けること。
投げ出さないこと。
家へ着くと、母がカレーを温めてくれていた。
「おかえり」
「ただいま」
陽菜が椅子へよじ登る。
奈緒はエプロンをつけながら窓の外を見た。
春の夜風がカーテンを揺らしている。
人生を変えるのに、遠くへ逃げる必要なんてなかった。
必要だったのは、毎日を投げ出さないことだけだった。
奈緒は静かに笑い、娘の皿にハンバーグを乗せた。




