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彼の気遣い

「ま、色々情けない所があるけどね、ノアは。でも一緒にいると面白いよ、アンナもきっと気にいるよ!」


「そ、そうだね。面白いって言っても、寝てるところに唐辛子を入れちゃだめだよ」


「はいはーい」


 口をとがらせてそう答えたアレンに少し笑うと、彼は何も言わずすっと消えていってしまった。私は驚きで固まってしまう。アレンが人間じゃないと分かっていても、急に出てきたり消えたりするのは心臓に悪い。しばらく経てば慣れるのだろうか。


「……今まで魔法なんて一つも触れたことがなかった私にとって刺激が強すぎる……」


 よろよろとふらつきながら一人で呟き、私は廊下を進んでいった。


 ある扉を開けてみると、そこは私が使っていいと言われたバスルームだった。中を見てみると、シャワーや浴槽もあって少しテンションが上がる。


「ここを家賃もなしに自由で使っていいなんて……やっぱりどう考えても贅沢だしいい話だ」


 浴槽の隣まで入り、ほぼ使われていないであろう白いそれを見下ろした。あとで一度掃除しておこうかな。多分、ノアの魔法はここまで掃除をしていないと思う。


 わくわくしながら振り返ったとき、気が付いた。


「……鏡じゃない……」


 洗面台の正面にあるはずの鏡は、何やら真っ黒な絵の具を塗りたくった絵が一枚貼ってあるように見えた。まるで穴が開いていて、そこから異世界に飛んでいけるみたい。


 恐る恐るそれを覗き込んでみる。すると、その闇色の中に私の顔がぽっかり映り込んだのだ。


「え、なにこれ?」


 見たこともないものだ。鏡ではないし、どういう仕組みで顔を映しているんだろう。だって今さっきまで真っ黒だったのに。


 迷いつつ少し指を触れてみると、冷たくつるんとした感触が分かる。触った感じは、鏡そのものだった。


「……もしかして、魔法?」


 私が鏡も苦手だと言ったから?


 鏡が駄目になってから、あまりしっかり自分の顔を見れていなかった。こうして見るとだいぶ痩せたし、あまり顔色もよくない。これでは、ノアのことを指摘出来ないな。


 ただ、鏡の中の自分は思ったより元気そうだった。何より、どこかわくわくしているような表情をしている。


「精霊に言われてやってくれたのかな? それとも……」


 彼は悪人じゃない、と言ったアレンの言葉を思い出す。


 いろいろあった。大切な人をなくして、唯一のとりえもなくして、もうどう生きて行けばいいのかわからなかった。でも今、私は特殊な環境だけれど料理が出来て働けている。


 心の傷が全て癒えるには時間はかかるだろうけれど、少なくとも父から受け継いだ料理を失わずにいられよかったと心から思う。


「ここに来られてよかった」


 誰かに美味しい物を振舞って楽しんでもらえる。今の私にとってそれは、生きがいとも呼べるものなのだ。


 そっと目の前の闇色の鏡を撫でると、ひんやりとした感触が伝わってくる。同時に母のドレッサーが目に浮かび、好きだった幼馴染の顔が浮かんだ。


……今頃、彼はどうしてるだろう。


 行き先は告げていないから、私がトルンセルに来ている事なんて知るはずがない。私がいなくなって、何を思っているんだろう。あの子と結婚するつもりなんだろうか。

 

 最悪の夜から、一度も顔を見ていない。幼い頃からずっと隣にいた大事な人。


「……忘れよう。ここで私は、生まれ変わらなきゃ」


 一人前の料理人とは言えないけれど、それでも誰かに美味しい物を振舞って給料を頂く。まずはこの形で自立して、再び立ち上がるんだ。


 いまだに思い出すと胸がぎゅっと苦しくなるけれど、私はそれを必死に押し込み、何度も鏡を撫でていた。






 その日は屋敷の中を見て回り、掃除が行き届いていないところを綺麗にして一日が終わってしまった。


 掃除は労働内容に含まれていない。でも、私も暮らす場所となれば掃除をするのは生活の一部になる。バスルームを一度全部綺麗にしたり、リビングではノアの魔法では掃除しきれなかった細かな部分に手を入れたりしていた。


 ノアは一度もおりてこなかった。アレンもあれ以降見かけなかったので、夜はナイフを使わない簡単なものを作って一人で食べ、ゆっくり自室で過ごして早くに寝付いた。信じられないことばかり起きた一日に、だいぶ疲れていたようだ。


 翌朝を迎え、早くに起床した私はすぐにキッチンへと向かい、朝食を準備するためにコンロの前に立った。ここで働き出して一番最初の仕事だ。


「あ、どうしよう……アレンー? いるー?」


 声を上げてみるが、返事はない。いないのか、もしかしたら寝ているのかも。いや、精霊って寝るんだろうか?


 ノアはまだおりてきていないので、仕方なく包丁を使わないメニューに決める。朝食なら、包丁がなくてもなんとかなる。パウルに好評だったパンケーキでも焼こうか、それとも他のパンを作ろうか。


 結局パンにベーコンや卵、野菜を挟むサンドイッチとスープに決めて、パンから焼き始める。パンはやはり、焼きたてに敵うものはない。


 時間を掛けながらパンを作り、オーブンに入れてしばらく経つといい香りがふわりと漂ってきて、私の鼻もひくひくと動いた。鼻歌を歌いだしそうになりながら焼きあがったパンを取り出し、粗熱を取る。


 さて、あとはベーコンと卵を焼いて……とフライパンに夢中になっていると、部屋の中に何かの気配を感じた。


「アレン?」


 振り返ってみるが誰もいない。背後で私が焼いているベーコンが音を立てているだけだ。おかしいなと思い首を傾げた時、置いてあったパンが減っていることに気が付いた。


「あ! パンが!」


 さては、精霊?


 もしや彼らもこの匂いの魅力に気が付いたのだろうか。多めに焼いてあるので食べられても問題はないが、ノアの分まで無くなってしまっては困る。


 私は慌ててノアの分をお皿に分け、姿が見えない者たちに声を掛けた。


「このお皿に乗ってる分はノアのだから食べちゃだめだよ。あとは大丈夫」


 そして再びフライパンに集中した。具材をパンに挟み完成したところで満足しまた振り返ると、焼いたパンはすっかり無くなってしまっていたので驚いた。ほんの少しの間に、あの量が無くなってしまうなんて。


「……これからも気を付けよう。あんな風にノアの分は分けておかないと、全部食べられかねない……」


 まさか目に見えない者たちにも料理を振舞うことになるのは予想外すぎるが、まずかったら食べないはずだし、美味しかったってことでいいんだよね。そう思って私は一人微笑んだ。


 出来上がった朝食を並べたはいいものの、肝心のノアが下りてこない。さすがに起こしに行ってもいいだろうか? せっかくなので出来たてを食べてもらいたい。


 私は階段の側まで歩み寄り、そっと上を見上げた。そして上に向かって声を上げてみる。


「ノア! 朝です、朝食が出来ましたよ!」


 かなり大きな声で言ったつもりだったのだが、返事はない。頭をポリポリと掻いて考える。


 これは部屋の中まで起こしに行った方がいいのかな? でもさすがに男性の部屋の中に入るのは気が引ける……ノックすれば起きてくれるだろうか。


 とりあえずノックをしてみよう、と思って階段に足を掛けたとき、突然自分の背後から男性の声がした。


「うわー! 何この香り、すっごくいい匂い!」


「きゃっ!」


 見知らぬ人間の声に驚き、短い悲鳴を上げてしまう。ここ最近、私はこんな風に驚いてばかりだ。


 振り返ると、廊下に初めて見る男性が立っていた。


 茶色の短髪に、クリっとした目と涙ぼくろが印象的な可愛らしい男性だった。年はあまり自分と変わらないように見える。黒いローブのようなものを着ていて、人懐こい顔でにこりと私に笑いかけた。

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