井ノ 中ノ 蛙 大海ヲ知ラズ
【小倉百人一首】
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。
by Wikipedia
僕がこの百枚の束と向き合うのは実に5年ぶりとなる。
中学の授業で現れたこの物体に、僕の心はたちまち離れた。
独特の手法で読まれる文の魅力に嫌気がさし。
その高い文学性と重厚な物語にどっぷりと拒絶した。
結果、クラス内で【かるた手裏剣】なる禁じ手を編み出し、当時の成績は壊滅的だった事を覚えている。
しかし!
僕は再びこの百枚と向き合う!
否!向き合わなければならない!
それは己の名誉と倒すべき敵の為。
今回ばかりは真剣に取り組む!
幸いな事に、僕はこの百枚の束を知り尽くした人物を知っている。
“宮崎 香菜里”僕の彼女だ。
そんな彼女に、先日コーチの依頼をした所。
『準備があるから明日まで待って欲しい』
と言われ、今に至る。
もはや彼女がセコンドに付いたと言う事は勝ったも同然!
もはや意劔に万に一つの勝ち目は無い!
あえて言おう!カスであると!!
そんな夢物語が見事に打ち砕かれたのは、昼休みの時間だった……
『相内君、どうして百人一首を覚えたいの?』
毎度お馴染みの図書室。
優雅なランチタイムの最中、宮崎さんが忌々しい小皿を用意しながら僕に尋ねる。
『ちょっとどうしても勝負したい相手が居てね!』
今日の宮崎さんのお弁当は何かな?
僕のは宮崎さん大好物アスパラガスのベーコン巻き。
上手くいけばこの食卓から小皿を撤去出来るかもしれない……
そんな希望を込めて作った一品だ。
『そう。
拓馬君はその人と勝負したいだけなの?それとも勝ちたいの?』
『勿論勝つつもりさ。
やる以上は絶対に負けられない』
『良い心がけね』
賞賛の声を漏らしながら、気品溢れる朱色の箱に手をかける宮崎さん。
その雅な手付きに酔いしれる僕。
だが、この後彼女が放った一言により。
アスパラガスのベーコン巻きはおろか、ランチタイムそのものが開始する間も無く終わりを告げる。
『ちなみに相手はどなたかしら?
私が知ってる方?』
『ん?意劔 賢一』
『………相内君、着いて来て』
『え?でもまだご飯』
『良いから着いて来て頂戴』
お弁当箱をそのままに、荷物を持ち図書室を後にする彼女。
その後ろで何も分からず着いていく僕。
僕は甘かった。
そっと忍ばせた卵焼き以上に僕は甘かった……
〜文学乙女〜
〜井ノ 中ノ 蛙 大海ヲ 知ラズ〜
着いたのは我が校“茶道部”の部室。
来賓者をもてなすという意味で、部室の全てが畳張りの珍しい場所。
……もっとも、わざわざ“茶室”を来賓室にする理由はご想像にお任せしたい。
とある一人の在校生によって、スシ!スキヤキ!バンザイ!!な方が、我が校には多数来るのだ……
『失礼するわ』
『あれ?宮崎さん?どうしたの??』
どうしてこんな所に僕を?と思う間も無く宮崎さんは畳へと歩を進める。
『昼休みの時間を邪魔してごめんなさい。
ちょっと2畳ほどスペースを貸して欲しいの、良いかしら?』
どうやら茶道部が昼のお茶会をしていたらしく、日本の文化と学生服という、いい意味でアンバランスな景色がそこにあった。
『え?ええ、でも……』
戸惑う相手の了承も得ず座り込み、鞄の中から随分と重々しい箱を取り出す宮崎さん。
一体何をするつもりなのだろうか?
『相内君、座って』
『へ?うん』
『そこの貴女、少し手伝ってもらえるかしら?』
『私ですか?』
有無を言わさず周りの人を巻き込み、その箱を開ける。
中身は…… 【小倉百人一首】だ……
『相内君、この中から一枚でも取れたら貴方の勝ちよ。
もし勝てたら“貴方の言う事を何でも一つ聞いてあげる”わ』
『え?』
箱から一枚一枚丁寧に札を出しながら、彼女はそんな事を言い出した。
『何でもするわ、何でもね。
とにかく一枚でも取れたら貴方の勝ち、分かったかしら?』
『分かった』
『貴女はこの上の句を呼んで頂戴。
ゆっくり丁寧に読んでくれれば良いわ』
『分かりました!』
何だか分からないがスゴイ事になったぞ……
それに、とんでもない条件が出された。
“何でも一つ言う事を聞く”
それは古今東西、絶対に賭けに出してはいけない物。
“人生の中で使ってはいけないワードベスト5”に入る危険な代物だ。
しかも、その達成条件がこの数十枚の紙切れの内、たった一つを取れば良いという簡単な事。
フッ 面白い……
実に面白いぞ宮崎さん!
貴女には幻の料理人になって貰います!
『準備は良いかしら?』
そう言いながら、長い黒髪を束ね後ろで結ぶ宮崎さん。
ポニーテール……だと?
なんだこの破壊力は!!
【美人+ポニーテール=至高】
の話は聞いていたけれど、まさかここまでとは……
決めた。
その髪型で調理を行ってもらう。
これは決定事項だ、揺るぎない。
貴女には、食べてもらうはずのアスパラベーコン巻きを、上目遣いで僕にあーんして頂きます!!
『いつでも良いよ!』
『では、貴女、上の句をお願い』
『は、はい、では。 【す】』
パッシーーーン!!!!
妙な緊迫感が溢れるこの部屋に、似つかわしく無い“破裂音”
何だ? 何が起こってる?
『読み手の方、止まってるわ』
『すみません!では、【あり】』
パッッッシーーーーーン!!!
え?何?
何が起きてるの??
『次』
『【めぐり】』
パッシーーーン!
これは…… 何?
電光石火とはまさにこの事。
茶道部の人が言葉を発する度に、宮崎さんが凄まじい早さで札を取る。
いや……これは取ってるんじゃない……
“払ってる”
『次よ』
『あ、【あま】』
バッシーーーンッ!!
こんなの僕が知ってる百人一首じゃない……
『次』
『【おぐら】』
パシッ!!!!
その余りに強烈な出来事によって心が折られた僕は。
最大のチャンスである最後の一枚も見逃してしまう。
何事ですか?コレは……
『ありがとう、ごめんなさいね。
こんな事に付き合わせて』
『いえ!宮崎さんすごいです!カッコ良かったです!!』
『本当!素敵!!』
『見ててドキドキした!』
いつの間にか茶道部全員がギャラリーとなり。
生まれたばかりの子鹿をボコボコにしたライオンを讃えている。
『……相内君?』
『ハイ』
『どう?これが百人一首よ。
貴方はただの、かるた遊びと思ってるかもしれないけれど、これは格闘技なのよ』
『スイマセン、甘ク 考エテ マシタ』
『今のは【ちらし取り】と言われる初歩的な物で。
正式な競技では無いの。
しかも札を置いたのは私という圧倒的に有利な状況だから、そんなに凹む事は無いわ』
『ソ、ソウデスカ』
『でもね…… 意劔君は私より強いわよ』
『!!』
その言葉に目が覚める。
そうだ…… 僕は何をやってるんだ……
“ポニーテールであーん”が欲しくてやってるんじゃない!
僕はあの男に勝つ為にやってるんじゃないか!!!
『……宮崎さん』
『何かしら?』
『意劔ってどれぐらい強いの?』
『そうね…… 彼が札を取られた所を、私は一度も見た事が無いわ』
化け物じゃねぇか!!
なんだそれ!人間か!?
『ちなみに、今の僕が意劔に勝つ確立ってどれぐらい?』
『ゼロよ。
横綱とガリガリの小学生が相撲するレベルね』
一枚一枚丁寧に箱へ札を戻しながら、サラリと可能性すら無いと言う。
救いは無いんですか?
『これからみっちり特訓したらどうなるかな?』
『それでも無理ね。
いくら小学生が中学生になろうとも相手は横綱よ?
勝てる戦いと勝てない戦いぐらい分かると思うけれど』
『それでも僕は頑張るよ!』
『諦めて。
勝てない戦をするのは無謀と言う物よ』
『それでも僕は諦めたくない!!』
辞めろ、諦めろと言われる度に、アイツの顔がチラついて離れない。
それに、宮崎さんの口からアイツを讃える言葉が出る事が何よりも嫌なのだ!
『ご、ごめん、大きな声を出しちゃって』
『良いのよ、相内君がそこまで本気なら私も全力を尽くすわ。
半端な気持ちなら断るけれど、そこまで気持ちが強いなら諦めろなんて言えないわ』
『ありがとう……』
そこから【宮崎香菜里、監修。 僕を鍛える百人一首トレーニング】が始まった。
ちなみにあの後、宮崎さんは茶道部に菓子折りを持って行ったらしく。
その際にサインを求められたと言っていた。
達筆で書かれたそのサインは茶道部の額縁に飾られる事になったらしい。
宮崎さんのマルチな才能はともかく。
この日を境に、僕の日常は地獄に変わる。
フフ……
この世の中……
バカな真似ほど……
狂気の沙汰ほど面白い……!!
まずは朝。
僕の朝は素振りから始まる。
一日千回。 感謝の素振り。
朝と夜に500回づつ分けて行うその作業は。
呼吸を整え、一礼、狙い、構えて、叩く
一連の動作を一回こなすのに最初は5〜6秒。
千回素振り終えるまでに当初は右腕がズタズタになった。
素振り終えれば湿布してアイシング。
次の日もまた素振りを繰り返す日々。
姉ちゃんには
『どうしたの!?まさか学校で虐められてるの!?』
と心配されたが、理由を話したら死ぬ程笑われた。
そう言いながらも、帰りに百人一首を買って来てくれるあたりに優しさを感じる。
授業中は記憶の時間。
教科書を読むフリをして、百人一首を覚える。
余りにもやり込み過ぎて、全ての文字が5・7・5・7・7に見えて来た。
宮崎さん曰く【和歌病】らしい。
ゲームをやり過ぎた後、HPゲージが見えるのと同じ事だねきっと。
昼休みと放課後は、茶道部の部室にて実戦トレーニング。
競技ルールに則った【かるた競技】にて宮崎さんにボッコボコにされる。
そして帰宅後、また素振り。
音楽プレイヤーとして活躍していた携帯も、お経の様に上の句を読む機械に早変わり。
そんな小倉百人一首漬けの日々が続いた結果。
『もろともに あはれとおもい やまざくら はなよりほかに しるひともなし』
『宮崎さん、彼はいったいどうしたのかい?』
『彼は今特訓中です。
邪魔をしないであげて下さい』
『はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに』
『いや私は良いんだが、あれはかなり深刻な顔をしていますよ?』
『人の心配よりご自分の心配をなさっては? はい飛車取りです』
『あばばばば おべべべべべべ ぴるぴるぴー ほひょひょひょひょひょひょひょ むげげぴろぴろ』
『ああ!!しまった!!』
僕の脳は限界を迎えていた。
大会までもう三日も無い日の放課後。
もはやお馴染みとなった茶道部の部室で事件が起きた。
『相内君、準備は良いかしら?』
『大丈夫、僕に任せて、下さいね、今日こそは僕、取ってみせます』
『では読みますよ〜 【さ】』
パン!!!!
身体が勝手に動いたんだ。
何も意識なんてしてない。
これだ!って思った時には既に、腕が動いていた……
『と、取れたぁ……』
『おめでとう相内君!!』
『やったね!』
『頑張ってたもんね!!』
無事に立つ事の出来た子鹿に対し。
ギャラリーは喜びの声を上げる。
しかし獅子は。
『……相内君?』
『はい?』
『今は試合中よ? 次』
容赦が無かった。
結果を言えば、今日もボコボコ。
しかし、なんと二枚の札は取れた。
この二枚は、普通の人からすればたかが二枚だが。
僕からすれば偉大なる二枚だ……
『宮崎さん僕……』
『ええ、相内君』
この進歩に喜んでるのは僕だけでは無い様だ。
あの宮崎さんも微笑みかけてくれている!
ああ、ここまで頑張って来て良かった!!
『これはマズイわ』
『ですよねー』
いやね、流石の僕もそんなに馬鹿じゃないですよ。
大会三日前で取れたの二枚ってこれは誰がどう見ても勝てないよ。
小学生がフットワークを覚えた所で、横綱の張り手の前では無駄も同然。
確かに努力は身に付いたけれど、圧倒的なまでに経験値が足りない。
簡潔的に言えば、僕は意劔に“勝てない”のだ。
『どうしよう……』
『こうなったら作戦を変えるわよ相内君』
『作戦?』
宮崎さんの作戦は
【死守する一枚作戦】
意劔という男から札を取れた者は居ない。
つまり、もしそこで僕が札を取る事が出来れば。彼のこれまでの歴史に傷を付ける行為として一矢報いる事となる。
言わば“試合に負けて、勝負に勝つ”戦法だ。
本末転倒な気がするけれど、他に道は無い。
今の僕が意劔に刃向かえる方法はこれしか無い。
『競技ルールで使われる札は50枚。
だから、相内君が覚えた札が一つなら確立2分の1。
ある意味運だけど、何も無いよりマシでしょ?』
『分かった!じゃあその精度と、覚える札の数を増やすのが僕のやるべき事だね?』
『そういう事ね。
ハッキリ言って、最初から試合を投げる戦法だし。
百人一首そのものを否定する様な戦い方だから私は嫌いなのだけど。
意劔君は真っ向から戦って勝てる相手では無いわ』
そう言われた時。
少し引っかかるのを感じた……
『宮崎さんごめん……』
『どうしたの?』
『僕、この作戦辞めとくよ……
そこまでして宮崎さんの力を借りたく無いからさ』
考えてみればそうだ。
小倉百人一首とは、和歌を楽しみ、競い合う物。
僕は今、それを利用し他者の尊厳に泥を塗ろうとしている。
それって宮崎さんの様な人からしたら、とても失礼なんじゃないかと思って来たのだ。
『相内君、貴方は勘違いしてるわ。
しかも物凄い馬鹿みたいな勘違い』
意気消沈の僕に対し。
更なる追い打ちをかけるかの様に見えた宮崎さん。
でも本当に彼女の言うとおり、僕は馬鹿だったのだ。
『私が好きなのは、大会でも、試合でも、意劔君でも、百人一首でも無いわ』
彼女は紛れも無く。
『私が好きなのは相内拓馬よ』
僕の彼女なのだ。