01
シュトレイバール領の防衛都市レイヴンにある冒険者ギルドは酒場も兼ねており、昼間から多くの冒険者が訪れ賑わいを見せていた。
シュトレイバール領の北方に広がる広大な森には魔が巣食う。その先の土地は魔族が跋扈し、人間は易々と立ち入れない。冒険者の多くは未知を求めて世界を巡るが、レイヴンを拠点にしている冒険者は魔の森を巡る。
魔とは、生命の源である魔素と世界の澱みである瘴気が結びついて生まれた異形である。姿は獣や植物に似て、魔獣や魔物とその分類は細かい。
魔族とは、それらの上位に位置する異形である。姿は獣や植物だけでなく、人に似た者も多い。内包する魔素は魔の比ではなく、言語を解す。やつらは怪しく、人とは異なる。
レイヴンの冒険者はそれらを狩り、素材を持ち帰る。瘴気は人間にとって猛毒であるが、やつらの素材は人間にとって希少な資源であった。
やつらは世界中のどこにでもいる。けれど魔の森から這い出してくる連中は他と一線を画す。瘴気の濃度も、魔素の純度も。それらを蹴散らし森に踏み込む冒険者は総じて高い実力を揃え、世界を巡る同業者の間でも名が知れている。
シュトレイバール領にはそういった腕の立つ者が多く集まる。
領主の血もあるのだろう。領地の主であるレイン侯爵家は古くから、魔を狩る祓魔の家系であった。建国の折、長く魔の侵攻を抑え壁の役割を果たしてきた功績が認められ、爵位を賜ったという。
今なお続く祓魔の領主は、治める土地にも同じ心根を持つ者を呼び寄せる。
そんな荒くれ者を一括で管理する冒険者ギルドには現在、珍しい客が訪れていた。むくつけき男たちの視線を独占し、凛々しい女たちの好奇心を総取りするのは、年若く可憐な乙女である。
編み込み結い上げた髪は銀、強気な吊り目は二対の満月を思わせる金。一本の剣のようにまっすぐに背筋を伸ばし立つ彼女は、麗しいドレスを身に纏っていた。
「ごめんくださいまし」
喧騒の中にあっても凛と通る声で彼女――アンジェリカは受付を呼ぶ。窓口にいたのは猫人族の青年で、彼はアンジェリカの顔を見るなりにっこり笑んだ。
「いらっしゃい、アンジェリカさん」
「こんにちは、メイナードさん。ご無沙汰ね」
アンジェリカもまた、慣れた様子で穏やかに微笑む。
彼女は冒険者である。登録をしたのは十歳の頃だ。母が病に罹って二年、目減りしていく金に慄いて、父の本気を見た。父は、母が完治するまで諦めない。アンジェリカがクローゼットを空っぽにして捻出した金を、父が医者にそっくり渡して薬を買ったとき、金に際限はないと悟った。
家令の制止の声を振り切って冒険者ギルドまで駆けたあの日、アンジェリカはレインの矜持を売ったのだ。
「今日はどうされました?」
「しばらく宿泊したいのだけれど、二階の部屋は余っているかしら?」
ギルド内の空気がシン、と静まり返る。メイナードも笑顔のまま顔を凍りつかせ、返事が喉の奥に張りついた。
アンジェリカ・レイン。領主バジェッタ・レインの実子で、侯爵家の長女である。貴族の娘が冒険者をやっている。それだけでも大事件であるのに、彼女はギルドの宿に泊まるという。
ワッ――と、天地が揺れるような音がした。聞き耳を立てていた冒険者たちが、一斉にアンジェリカを取り囲んだのである。
「どうしたアンジー何があった!?」
「宿泊するってあなた、家はどうしたの!?」
「いよいよ遠征に出ないとままならないほどひっ迫してるのか!?」
「ちょっとしかないけど金なら貸すぞ!? ちょっとしかないけど!」
アンジェリカ、と。案じる声が空気をかち割った。
わずか十歳で冒険者を志したアンジェリカを、多くの先人がやめるよう諭した。幼い娘が、それも貴族の令嬢が選ぶ道ではない。レイン侯爵家の家業を考えても、十歳の子どもにはまだ早い。時期尚早だと誰もが言って、アンジェリカはそのすべてを実力で退けた。
レイン侯爵家は祓魔の家系である。魔を祓い、魔族を狩り、そうして領地を守ってきた。それは侯爵家の義務であり、負うべき責任である。魔が発生すれば頼まれずとも祓うし、魔族が出没すれば真っ先に駆けつけ狩る。領地の安定のため、領民の安全のため。
金で依頼を叶える冒険者とは違うのだ。
ノブレス・オブリージュ。
アンジェリカはそれを、かなぐり捨てた。彼女は祓う魔を報酬で選ぶと言った。狩る魔族に、報酬という順位をつけた。レイン侯爵家の娘としての矜持を売って、彼女は冒険者になると言った。
形振り構っていられない。構っている間に、バジェッタは金を食い潰す。まだ幼い妹を食うに困らせるわけにはいかない。姉妹を案じ支えてくれる使用人たちを、路頭に迷わせるわけにはいかない。
金が要る。そして、幼いアンジェリカにできる金儲けは、祓魔の道以外にはなかった。
「我が家がひっ迫していることは事実ですけれど、これはわたくし個人の事情です。ご心配には及びません」
バジェッタ・レイン。
レイン侯爵家の歴史において、彼は間違いなく最強に据えられる男である。レインの戦神。森から這い出してくる魔は、その影すら領内へ侵入できない。いかに強大な魔族でも、彼の前では息のしかたを忘れる。
圧倒的な強さで立ちはだかり、絶対的な力で敵を排す。
猛り荒ぶる神の称号を冠され、バジェッタは大陸全土にその名を轟かせた。魔を退け、魔族を跪かせ、人間からは畏怖される。アンジェリカの父は、シュトレイバール領の主は、そういう男であった。
「心配するに決まってんだろ!」
「私たちの可愛いアンジェリカの事情は、つまり私たちの事情なのよ!」
「心配くらいしかできねぇんだから心配させろ!」
「何でも言えって言ってるのにお前は毎度毎度、全部抱え込んじゃうだろうが!」
アンジェリカには才があった。それは最強の名をほしいままにしていたバジェッタが、己を上回ると最強の座を譲るほどに。
彼女は魔を滅ぼす能力に長けていた。彼女は魔族を殺す才に満ちていた。彼女は全盛期のバジェッタを軽く凌駕するほど圧倒的な魔力を内包し、バジェッタを沈黙させるほど絶対的な魔法を行使した。
バジェッタの後継として教えを乞うた期間は短い。スフィアが病に臥せってからは完全に途絶えた。それでも、八歳の頃には既にそうで、二十歳になった今、彼女はその強さで何者も寄せ付けなくなっている。
千雨の戦乙女。
アンジェリカの名は知らずとも、彼女の通り名を知らない冒険者はレイヴンにはいない。遠征をしない彼女はレイヴンを出ることがないため大陸全土とはいかないが、少なくともこの町を訪れたことのある冒険者であれば一度は彼女の通り名を聞く。
世に強者は多かれど、最強と呼ばれるべきはただ一人。道を開けろ、傘を差せ。
「にゃおーん。まあまあ、みなさん落ち着いて」
嘆く冒険者たちを押しのけて、声をあげたのはメイナードである。他にも客はいるというのに、隣の受付窓口まで埋まって大変に邪魔だ。よりにもよって、体の大きな連中ばかりが集まっている。ひしめく筋肉が暑苦しい。
「アンジェリカさん、部屋は空いてますよ。何日のご予定ですか?」
「ひとまずは十日。ただ持ち合わせがないの。宿泊代を稼いでくる間、荷物を預かってくださらない? それから、着替える場所も借りたいわ」
荷物はさして重くない。けれど狩りに出かけるには邪魔である。
「でしたらお部屋に置いて行かれては? 着替えもどうぞそこで」
「支払いは前払いでしょう?」
「アンジェリカさんなら、いいですよ」
「あら、親切なのね。でもよろしいの? 踏み倒すかもしれなくってよ?」
「にゃっはっはっは! そうなったら泣き寝入りですね! ギルドマスターの靴磨きでもしますよ」
この町の誰が、彼女の意見をへし折れるのか。アンジェリカに非があったとて、強制すればへし折られるのは己の体だ。
「……あんまり優しくするものだから、ちょっと意地悪を言ってみただけです。きちんと支払います」
「もちろん、信用していますとも。にゃおーん」
「そういうことですから、みなさん自分のお財布を漁るのをやめてくださる?」
振り返り、後ろでごそごそと財布の中身を数える冒険者たちをじっとり睨む。
「あまり甘やかさないでくださいな。調子に乗ってしまうわ」
乗ったことなんてないくせに。ぼそぼそと囁かれる不満は聞こえなかったふりで、メイナードから部屋の鍵を受け取る。
アンジェリカに貸し出された部屋は、二階の一番奥だった。ベッドに鞄を置き、さっさと着替える。ドレスは明日にでも売ってしまおう。もう袖を通すことはない。
可憐なドレスから、機動性を重視した服へ着替えが済めば、そこにいるのはもう貴族の令嬢ではない。若き冒険者。アンジェリカのもう一つの顔である。
さっそく依頼を受けようと階下へ行くと、何やら騒がしい。ギルドというものはたいてい騒がしいものであるが、それにしては毛色の違う喧騒だった。
「緊急クエスト! 緊急クエスト!」
鴉が鳴いていた。魔の森を監視し、異常があれば知らせる大鴉。ギルドマスターのギルベルトが捕獲し、契約し、調教した魔の一種である。
緊急クエスト。甲高く告げる声から一転、鴉の嘴から低く落ち着いた男性の声が流れた。ギルベルトである。
「魔の森より正体不明の魔族の出現を確認。手の空いている冒険者は至急、調査に出発せよ。可能であれば捕獲、無理ならば討伐を――……」
語られた魔族の特徴の奇抜さに面食らうアンジェリカの横っ面をひっ叩いたのは、その出現場所であった。レイヴンの北門側の森だという。そこにはレイン侯爵家がある。
「アンジェリカさん! 到着早々すみませんが、よろしくお願いします」
メイナードが駆け寄ってきて、鈴鳴りを握らせた。返事をし損ねたアンジェリカなど気にもせず、彼は別の人間の元へ駆け同じように鈴鳴りを配っていく。不参加、とは言い出せない。
「おう、アンジェリカ。森のあの辺ならお前にとっちゃ庭だろ。任せたぜ」
「頼りにしてるよ」
準備を終え先に出て行く冒険者たちが、すれ違いざまに力強く肩を叩いていく。
「……はい。もちろん」
もう戻ることはないと思って出てきたのに、まさか日帰りすることになろうとは。いや実際に家へ帰るわけではないが。
何とも言えない気分になって、アンジェリカは手の中の鈴鳴りをぎゅっと握りしめた。