第82話 真理を追う者たち
第82話です。
誇り高き白銀の毛並みを揺らし。
船は暗い海をただ進み続ける。
立ち込める霧と術式の熱の中で。
新たな邂逅が静かに幕を開けた。
出航してから、五日が経った。
◇
最初に船を見たとき、言葉が出なかった。
三本のマストが霧の中に突き立っている。帆は畳まれているのに、その柱だけで空の一部を塞いでいる。船体は三層。磨き込まれた木材が朝の光を鈍く照り返し、金属部分が濡れて光っている。
乗り込むとき、タクミは思わず船体に手を触れた。
木の感触。そして足の裏から伝わる、低く、絶え間ない振動。
日本にいた頃、フェリーに乗ったことがある。鉄と電気でできた、あの白い船とは、まるで別物だ。
出航の直前、腹に響く唸りが港に満ちた。汽笛に似ているが、もっと深い。甲板の板が震え、手すりを握った手にその振動が伝わってくる。
船が動き出す。水を割る音。帆が風をつかまえる音。
タクミはしばらく船尾の欄干を握ったまま、遠ざかるオルデの港を見ていた。霧の中でタイフの姿が小さくなり、やがて消えた。
◇
浮かれていたのは、初日だけだ。
甲板を端から端まで歩いた。船首側では貴族や豪商たちが外套をはためかせて海を眺め、中央甲板では水夫たちが帆索を怒鳴りながら扱い、船尾側では士官たちが低い声で言葉を交わしている。揺れが一番少ないのは船尾だ。
船内を巡った後、自室へ戻る。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
窓がない。蝋燭の火だけがある。
二日目から、時間が伸び始めた。
◇
船首甲板には、毎日人が集まっていた。
中心にいるのは、いつもガウルだ。
白銀の巨体は身を伏せたまま、どこまでも続く蒼を眺めている。潮風が毛並みを揺らしても動じる様子はない。ただ静かに、波のうねりを追う。
その傍らで、ルナとリシェルもまた海を眺めていた。
「ガウルは海が好きみたいね」
「……どうなのでしょう」
リシェルは小さく首を傾げた。
「……でも、ずっと見ていますね」
「そうね。飽きないのかしら」
「……ガウルは、おとなしくていい子ですね」
そう言って、リシェルは白銀の毛並みに櫛を通した。
ガウルは抵抗することなく身を任せる。やがて喉の奥から満足そうな低い息を漏らし、ゆっくりと目を細めた。
潮風が吹き抜ける。白銀の毛並みが陽光を受けて揺れた。
その周囲に、貴族たちの輪ができていた。豪商らしき男がにこやかにルナへ近づく。
「あのキャリア・ハウンド、お譲りいただくことは——」
「できません」
「白金貨十枚では」
「できません」
「……二十枚」
「値段の問題ではないの。この子は売り物じゃないわ」
ルナが振り向いた。目が笑っていない。男は肩をすくめて引いていった。
ルナ・フォン・ラシェンテ。公爵家の縁談を蹴った娘。壇上で男に口づけした女。国宝級遺物を発見した探訪者。保守派の貴族たちは陰で囁く——感情で家を危険に晒した、と。
だが同じ口で、どこか羨ましそうな顔をする者がいた。格式に縛られて生きてきた人間にとって、あの女の奔放さは、腹立たしいほどに眩しい。
タクミはそれを遠くから眺めて、小さく笑った。
どこへ行っても、ああなるんだな。
◇
ロイドは毎日、中央甲板にいた。
「よう、おっさん! 今日も来てやったぜ!」
「またおまえか。仕事の邪魔だけはするなよ」
三日も経つ頃には、すっかり顔馴染みになっていた。
豪快な笑い声が響き、遠慮のない軽口が飛び交う。気がつけばロイドは水夫たちの輪の中にいて、まるで昔からこの船に乗っていたかのようだ。
水夫たちと気が合うのは、ある意味当然か。
◇
五日目の午後。
タクミは船尾甲板の手すりに肘をついて、水平線を眺めていた。
波の音だけがある。空には薄い雲。海の色は灰がかった青だ。
武器の携帯は甲板では禁じられている。鍛錬している者もいない。自室には窓がない。だから甲板に出て、海を見る。
(あと二十日か……)
溜め息が、風に流れた。
「退屈そうですね」
声がした。
振り向くと、男が立っていた。
細身で背はやや高く、亜麻色の髪が潮風にゆるやかに流れている。
切れ長の目は半ば伏せられており、薄い灰緑色の瞳がこちらを静かに見ていた。ふとした拍子に人混みへ溶けてしまいそうな、不思議な存在感の薄さがある。
修道服に近い格好をしている。だが妙に板についていない。どこか借り物めいた印象だ。
後ろに、同じような格好の男が二人。少し離れて立っている。
「まあな」
「あなたは遺物がお好きなのですね」
視線が、タクミの外套へ向いた。
「ん?」
「わざわざ模造品を作ってまで着込んでいるとなると——相当お好きなのでは、と」
内側で、何かがわずかに緊張した。
(……模造品、だと)
「ああ、サラトニア王国にはロマンがあるからな。好きで作ったんだよ」
嘘だ。この外套が国宝級の代物だとわかった今、本当のことを言う理由はない。
「ラエルと申します。以後、お見知りおきを」
「タクミだ。よろしく」
「変わったお名前ですね。ご出身は?」
「ラシェンテ近郊の田舎だよ。——あんたは神官か何かか?」
「いえ」
少しだけ間があった。
「深檻教という教団の者です」
(……宗教団体か)
タクミは内心で一歩引いた。
(あまり関わらない方が良さそうだな)
強引に話を変える。
「話は変わるけど、一つ聞いていいか」
「何でしょうか」
「この船、どうやって動いてるんだ。帆だけじゃない感じがするんだが」
ラエルは少し目を細めた。
「鳴動機と呼ばれる機関です。船底中央の炉心に術式が刻まれており、その術式が局所的に熱を生む理を書き換え続けることで、推進器を回します」
「魔法で熱を?」
「ただし、理の書き換えは放っておけば自然に戻ろうとします。それを維持し続けるのが炉番の仕事です。交代で炉心に張り付き、書き換えが戻る前に上書きし続ける。炉番が尽きれば、機関は止まります」
タクミは足の裏の振動を、改めて意識した。今この瞬間も、船底のどこかで誰かが術式を書き続けている。出航の朝の、腹に響いたあの唸りは——炉心に初めて火が入った瞬間だったのか。
「見られたりするのか、それ」
「関係者以外は立ち入り禁止です」
「そうか……」
少しの間、波の音だけがあった。
「まだ暇が続きそうですね」
「あと二十日あるからな」
「でしたら——三日に一度、中央甲板で賭け試合が開かれています」
「賭け試合?」
「ええ。水夫たちの娯楽です。参加してもいいですし、賭けるだけでも構いません」
「何をやるんだ」
「徒手空拳の立ち合いです。怪我をしない程度に加減はされています」
「殴り合いか……」
タクミは少し考えた。
「痛いのは嫌だから、賭ける側で参加するよ」
「そうですか」
ラエルは静かに頷いた。
それ以上は、何も言わない。
少しの間、二人で並んで海を見た。波の音だけが続く。
「では、また」
踵を返す。後ろの二人が静かについていく。
その背中を見送りながら、タクミはなんとなく、何かを見透かされたような気がしていた。外套のことではない。もっと別の何かを。
何を、とは言えない。
ただそういう感触だけが、潮風の中に残った。
◇
夜。
黒パン。豆の煮込み。干し肉と干し魚。薄いスープ。飲み物は薄く割った果実酒だ。
五日目にして、水が思った以上に少ないことに気づいた。瓢箪水筒を持っていて良かった。
自室に戻ると、ガウルが待っていた。今夜はタクミの部屋の番らしい。ルナとリシェルの間で、なんらかの取り決めがあるようだ。
タクミはバックパックから干し肉を取り出し、ガウルの前に差し出した。
「干し肉ばっかりで悪いな。レミアに着いたらうまいものくわせてやるからな」
ガウルは鼻先をタクミの手にそっと当てる。
その夜、久しぶりにガウルを枕にして横になった。温かい。規則正しい呼吸が、背中に伝わってくる。
少しだけ、古代樹林の夜を思い出した。
目を閉じると、波の音が近くなった。
機関の振動が、ごく低く伝わってくる。
船は前へ進み続けた。
暗い海の上を、ただ静かに。
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第82話「真理を追う者たち」でした。
退屈を溶かす荒くれたちの歓声が響く。
痛みを嫌う青年は、傍観者を選んだ。
熱に浮かされた群衆が銀貨を掲げる中。
見知らぬ教団の男だけが、静かに笑う。
次回、第83話「中央甲板の賭け試合」





