第81話 オルデ発レミア行き
第81話です。
霧に霞む港に、別れの汽笛が響く。
古い桟橋の先で、波だけが寄せていた。
旅立つ者は荷を背負い、残る者は手を振る。
ただ一人、言葉にできない問いを抱えたまま。
梱包が終わったのは夕刻だ。
最後の荷を渡した従業員が倉庫を出ていき、棚が空になる。あれだけ遺物の詰まっていた棚が、今は何もない。埃の輪郭だけが、かつて何かがそこにあったことを伝えていた。
タクミはその棚を少し見てから、視線を外す。
◇
その夜も、いつもの晩餐だ。
ロイドが魚を担いで戻ってくる。炉に火が入り、すぐに何かが焦げる。誰かが叫び、誰かがため息をつく。ガウルだけが静かだった。
タクミはそれを眺めながら、酒を少し飲む。
何かを言うべきかと思ったが、何も言わなかった。
◇
翌朝、オルデン商会の一階。
タイフが帳面を開いていた。顔を上げ、タクミを見て、軽く頭を下げる。
「タクミ様、おはようございます」
「ああ、おはよう、タイフ」
タクミは軽く手を挙げ、そのまま応接用のソファへ腰を下ろす。
革張りの座面が沈む。
少し間を置いて、口を開く。
「……そろそろ行こうと思う」
タイフは一瞬だけ目を細めた。
「レミアへ、でございますね」
「ああ」
「……承知いたしました」
静かな声音だ。
だが、その返答にはどこか惜しむような響きが混じっていた。
タイフは姿勢を正す。
「船の手配は、既にお済みでしょうか」
「いや、まだなんだ」
「左様でございましたか」
タイフは静かに頷いた。
「トヌメテリオ大陸、レミアまで——便にもよりますが、おおよそ二十日から二十五日ほどの船旅にございます」
「そんなにか」
「外洋を越えますので」
タイフは指を折りながら続ける。
「最下級の船室で、お一人大金貨一枚から二枚ほど。貨物室に近い雑魚寝部屋にございます」
「……なるほど」
「通常客室になりますと、大金貨三枚から四枚。上級向けになりますと、白金貨一枚から二枚ほどでございます」
そこで一度言葉を切った。
「いずれも、お一人あたりの料金にございます」
タクミは少し黙った。
頭の中で人数を数える。
自分、ルナ、リシェル、ロイド。
それにガウル。
「……高いな」
「遠洋航路にございますので」
タイフの返答は淡々としている。
海を越えるという行為そのものが、高額なのだろう。
タクミは軽く息を吐いた。
「普通の客室で頼む。……あと、動物も乗れるよな?」
「ガウル様にございますね」
「ああ」
「問題ございません。キャリア・ハウンドであれば、乗船可能かと」
「そうか。なら問題ないな」
タイフはパン、と二度手を鳴らした。
すぐに奥から従業員が現れる。
「お呼びでしょうか」
「二日以内に出るレミア行き定期船を。通常客室四名分、それとキャリア・ハウンド一頭分の乗船枠を確保してください」
「かしこまりました」
従業員は一礼し、足早に奥へ下がっていった。
「それと」
タイフが穏やかな声で続けた。
「サンダーレイブンの羽の売上ですが——すでに入金が完了しております」
「ああ、委託販売だったな」
「左様にございます」
タイフは机上の帳簿へ視線を落とした。
「取り分三分の二。白金貨二十枚を、本日付でタクミ様の口座へ入れさせていただきました」
「……もう入金されたのか」
タイフは静かに頁をめくる。
「加えて、遺物鑑定の依頼料も合わせて振り込み済みにございます」
タクミは小さく息を吐いた。
どこか現実感が薄い。
「……分かった。ありがとう」
「いえ」
タイフはわずかに目を細めた。
タクミは小さく息を吐く。
「それにしても……凄い値段で売れたな」
「ええ。帝室がその価格で購入した、という事実そのものに価値がございます。今後、それ以下では出回りにくくなるかと」
「……まじか」
タクミは思わず天井を見た。
「まだ十枚以上あるぞ……」
タイフは、その言葉に小さく苦笑した。
◇
「そうだ、もう一つ」
「はい、いかがなさいましたか」
「旧市街に、大教会はまだあるか」
タイフがわずかに目を上げた。
「ございますが——どうかなさいましたか」
「ザイードが持っている教典、元はあそこのものらしいんだ。返しに行こうと思って」
「……なるほど」
タイフは静かに頷いた。
「旧市街の中央付近にございます。詳しい場所は、ザイード殿がご存じかと」
「ああ。聞いてみる」
◇
しばらくして、従業員が戻ってきた。
「ちょうど二日後に出航する便が取れました。普通客室を五名様分で押さえておりますので、ガウル様も問題なく乗船可能にございます」
「そうか。ありがとう」
タクミが頷くと、タイフが静かに口を開いた。
「——一点、申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「我が商会の商船が、三カ月に一度、レミア方面へ出ております。本来であれば、そちらへ同行いただく形で格安の渡航も可能だったのですが……次の便まで、まだ日がございまして」
「そこまで世話になれないよ」
タクミは苦笑しながら言った。
タイフは一瞬だけ黙り、静かに頷く。
「……承知いたしました」
だが、そのままわずかに目を細めた。
「ですが、タクミ様。この縁は、これで終わりではございません。近く、わたくしも帝都へ参ります。帝都のオルデン商会へお立ち寄りいただければ——またお目にかかれるかと」
「わかった。用事が済んだら寄るよ」
「お待ちしております」
タイフは深く一礼する。
タクミも短く頭を下げた。
◇
その夜、タクミはザイードを呼び止めた。
「少しいいか」
「はい?」
「あの本のことなんだが……」
ザイードがきょとんとした顔をする。
「あの、教会の教典ですか?」
「譲ってくれないか。大教会に返しに行こうと思ってな」
「……ああ、なるほど」
ザイードは納得したように頷いた。
「それなら全然構いません」
そう言って部屋の棚へ向かい、布に包まれた本を取り出す。
両手で抱えて戻ってくると、そのままタクミへ差し出した。
「どうぞ」
受け取る。
「読めないものを持っていても仕方ないですし」
それから、小さく声を落とす。
「……罰が当たるのも嫌ですから。お願いします」
タクミは布の上から一度だけ表紙を押さえ、静かに脇へ置いた。
◇
翌日の朝、タクミは一人で旧市街へ向かった。
「どこ行くの?」
ルナが眠そうな顔で聞く。
「旧市街。教典を返しにな」
「一人で?」
「ああ。すぐ戻る」
ルナは少しだけタクミを見たが、それ以上は聞かなかった。
タクミは軽く手を挙げ、外へ出る。
◇
旧市街の路地は細く、石畳は古い。
路地をいくつも折れた先に、大教会の正門が見える。
人影はなく、門は静まり返っている。
庭も静かだ。
止まったままの噴水。石畳の隙間から伸びる草。風に運ばれる落ち葉。
昼前の光が、古い庭へ斜めに落ちている。
庭の隅に、淡く光る石がある。
腰ほどの高さの灰色の石。
近づくと、表面に文字が刻まれているのが見えた。規則的な間隔で、深く、丁寧に。
碑石だ。
タクミはそう思った。
絶対公理の書は読めた。エルナンドの追記も読めた。
退行の中にいる自分なら、これも読めると思っていた。
タクミは石の前にしゃがみ込む。
読めなかった。
サラディンの知識でも、碑石の文字は読み解けない。
タクミはしばらく黙って石を見る。
やめようと思った。
考えるのを。
追うのを。
もう、十分だ。
立ち上がり、タクミは教会の中へ入った。
薄暗い礼拝堂に、蝋燭がいくつか灯っている。
人の姿はない。
タクミは祭壇の前まで歩き、静かに膝をつく。
祈り方など知らなかった。
それでも目を閉じ、頭を垂れる。
何を願ったのか、自分でも分からない。
蝋燭が一本、小さく揺れた。
しばらくして、タクミは静かに立ち上がる。
最後に一礼し、礼拝堂を後にした。
◇
出航の朝、港には薄い霧が出ていた。
白く霞んだ海の向こうに、帆柱だけがぼんやりと浮かんでいる。
荷運びの怒鳴り声。軋む縄。遠くで鳴く鷗。
二番埠頭には、タイフとザイードの姿があった。そのすぐ脇に、傷跡のある四十がらみの男と、その後ろに漁師たちが数人。
「……見送りまで来たのか」
タクミが言うと、タイフは小さく笑った。
「商人は縁を大事にするものでございます」
「なるほどな」
ザイードが頭を下げる。
「短い間でしたけど、お世話になりました」
「ああ、こちらこそ世話になった」
「……ありがとうございました」
ロイドがその背中をばんばん叩いた。
「湿っぽいなぁ! また会えるだろ!」
「い、痛いですって!」
「ははっ!」
傷跡の男が、ロイドの前に来た。
「行くのか」
「おう。世話になったな、おっさん」
男は少しの間ロイドを見ていた。それから、短く頷いた。
「またオルデに来たら、乗せてやる」
「絶対来るぜ!」
漁師たちが口々に何かを言った。声が重なって、言葉にならない。ただ、その顔はどれも笑っていた。
その横で、ルナが呆れたように息を吐く。
「朝からうるさいわ……」
「港ってのはこういうもんだ!」
リシェルは小さく笑い、タイフへ静かに一礼した。
「色々と、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、お力添えいただき感謝しております」
ガウルは埠頭の先で、じっと海を見ていた。
霧の向こうから、低く汽笛が響く。
乗船の時間だ。
タクミは桟橋へ向かいかけ――ふと振り返る。
タイフが、静かに頭を下げた。
「——帝都で、お待ちしております」
「ああ」
短く答える。
それ以上は言わなかった。
霧の中、船へ続く板が軋む。
タクミはそのまま前を向き、ゆっくりと歩き出した。
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第81話「オルデ発レミア行き」でした。
汽笛はもう遠く、記憶のなかでだけ響く。
問いを抱えた旅人は、もう海の上。
残された者たちは、それぞれの日々に戻る。
手を振ったことだけが、確かな縁の証だった。
次回、第82話「真理を追う者たち」





