第77話 リシェルとガウル
第77話です。
白銀の狼と少女が荷車を引いて往く。
ガウルの優しさにリシェルは気づいた。
夜には肉と魚を囲んで笑いあう。
そして誰も読めぬ一冊の書物が残る。
あれから、数日が経った。
倉庫の一階は、少しずつ、確実に整理されていく。
タクミが手に取り、文字を読み、用途を告げる。ルナとリシェルとザイードがそれを書き留め、鑑定済みの札を貼る。その単純な反復が、棚の一列ずつを静かに埋めていく。倉庫の三分の二はすでに終わっていた。
ロイドは変わらず毎朝港へ出て、夕刻には魚を抱えて戻ってくる。
倉庫の外の一角には、ゴミの山が積まれていた。
鑑定の結果、遺物ですらないと判明したものだ。錆びた金属片、割れた陶器、虫に食われた布切れ。価値を持たない残骸が、荷車一台分に積み上がっている。
タクミとザイードが、その前に立っていた。
「廃棄物倉庫に持っていく必要がありますね」
「そうだな。どこにある」
「東区間の奥です。第十四倉庫」
二人は短くやり取りしながら、荷車へとゴミを積み込んでいく。
倉庫の扉の横で、ガウルが丸くなっている。
白銀の毛並みは午前の光を受けて淡く光り、巨体は地面に沈むように伏せられている。目は細く、呼吸も静かだった。そこだけ時間の流れが緩んでいるようだった。
その隣に、リシェルが座っていた。
手には、鑑定済みの櫛。象牙に似た白い材質に、細かな紋様が刻まれている。
「ガウル、動かないでくださいね」
リシェルはそう言って、静かに背へ櫛を通した。
白銀の毛が、音もなく流れていく。
ガウルは動かない。目だけがわずかに動いてリシェルを見て、それからまた細くなる。
「……気持ちいいですか」
返事はない。ただ喉の奥で、低い音が一度だけ鳴った。
リシェルは小さく息を吐くように笑った。
「……よかった」
やがてタクミとザイードが荷車を押して戻ってきた。荷は重く、車輪がわずかに軋む。
「ガウル」
タクミが呼ぶと、ガウルはゆっくり顔を上げた。
「悪いんだが、これを廃棄物倉庫まで運んでくれないか」
「……それなら、私が一緒に行きます」
リシェルが自然に言葉を添える。
「帰りに食料倉庫で肉と野菜を買ってきてほしい。傷むから二、三日分でいい」
タクミは財布をリシェルへ渡した。
「案内を頼む」
「……わかりました」
ガウルはすぐには動かず、一度だけ大きく体を伸ばした。眠りから抜け出すように筋肉が張り、次の瞬間には静かに立ち上がる。
タクミの前に来て、膝元へ鼻先を寄せる。
確かめるように、一度だけ。
それだけだった。
荷車へ向かい、牽引部分を咥える。白い牙が木をしっかりと噛む。
ザイードが目を瞬かせた。
「言葉、わかってますよね、これ」
「ああ、ガウルは賢いからな」
タクミは短く返す。
「リシェルさん」
ザイードは視線を移す。
「第十四倉庫は東区間の奥です。迷ったら人に聞けばいい。第八食料倉庫は入口付近なので、すぐにわかります」
「……わかりました。ありがとうございます」
リシェルが頷いた。
タクミとザイードは倉庫へ戻っていく。
◇
がらがら、と音がした。
荷車が動き始める。
ガウルは牽引を咥えたまま、静かに歩く。リシェルがその横に並ぶ。
荷は重いはずだった。
だがガウルの歩みは揺れない。息も乱れない。ただ一定の速度で、確実に前へ進んでいく。
リシェルは隣を歩きながら、そっと横顔を見た。
この子は、どれだけ強いのだろう。
一つ、倉庫を過ぎる。また一つ。
従業員たちが足を止める。白銀の巨体と少女が荷車を引く光景に、誰もが一瞬視線を奪われる。リシェルは軽く会釈しながら通り過ぎた。
「……見られていますね、ガウル」
ガウルは前を見たまま、何も答えない。
やがて東区間の標識が見えた。
第十四倉庫へ向かう途中、ひときわ大きな倉庫群が現れる。
「……あれが第八倉庫ですね。帰りに寄りましょう」
ガウルの耳が、わずかに動いた。
リシェルは近くの従業員に声をかける。
「すみません、第十四倉庫はどちらでしょうか」
「ああ、ここをまっすぐだ」
指示に従い、さらに進む。
一つ、また一つと倉庫を過ぎていく。
やがて第十四倉庫の扉が見えた。
「……あれですね」
リシェルが先に立って中へ入る。
中には従業員が一人いた。リシェル、そしてガウルを見て、わずかに目を見開く。
「ゴミならあそこに置いてくれ」
短い指示だった。
「……わかりました」
奥へ進む。
ガウルは牽引を咥えたまま荷台を持ち上げるように角度を変え、ゴミを一気に落とした。
鈍い音が響く。
残りをリシェルが手で整え、静かに降ろす。
「……よくできましたね、ガウル」
外に出ると、リシェルは自然にその頭を撫でた。
白銀の毛が指の間を滑る。
ガウルは一度止まり、荷台へ視線を向ける。
「……乗れ、ということですか」
リシェルは少し迷い、荷台へ腰を下ろした。
がらがら、と音がする。
荷車が動き出す。
さきほどよりも、わずかに遅い。
リシェルはそれに気づく。
気を遣っているのだ、と。
「……ガウルは優しいですね」
白銀の背は、ただ前へ進み続ける。
一つ、また一つと倉庫を過ぎる。
視線が集まっても、リシェルはもう気にしなかった。
第八倉庫の前で止まる。
「……ありがとうございます。ガウル」
リシェルは荷台を降りた。
◇
第八倉庫の中は、熱を帯びたような活気があった。
肉と野菜を選び、荷台へ積む。
帰り道。
「……魚ばかりだと飽きますからね」
リシェルはガウルに話しかける。
「今夜は肉も野菜もありますよ」
ガウルは小さく頭を動かした。確かに頷きに見えた。
遺物倉庫が見えてくる。
タクミ、ルナ、ザイードが外に出ていた。
「おかえり」
タクミが言い、ガウルの頭を撫でる。
「よしよし、おまえは賢いな」
ルナが荷を受け取り、リシェルも手伝う。
ザイードは少し離れた場所からガウルを見ていた。
「キャリア・ハウンドって、個体数が少ないんですよ。高額ですし、飼えるのは基本的に貴族くらいです」
タクミに向けた声だった。
「それに……あれ、言葉を理解してますよね。かなり興味深い個体です」
言い終えると、ザイードは視線を外す。
ガウルは牽引を放し、倉庫の前へ移動して丸くなった。
◇
夕刻。
ロイドが戻ってくる。
魚だけでなく、肉が焼かれ、野菜が焼かれる。
炉の煙が上がり、石畳に並んで座る。
笑い声が混ざり、潮の匂いの中で夜が落ちていった。
◇
片付けの最中、ザイードが一冊の本を抱えてタクミの前に立った。
「タクミさん、これを見てほしいんです」
タクミは木箱に腰を下ろしたまま、顔を上げた。
「本か」
「旧市街の大教会から見つかったものです」
ザイードの声は、どこか押さえられている。数日で、タクミの見識の深さは嫌というほど思い知らされている。その男が、まだ見ぬ本をどう読むのか。期待と、名状しがたい緊張が、ザイードの指先をわずかに強ばらせていた。
「誰も読めないんです。これまでに何人もの鑑定士が挑みましたが、誰ひとりとして」
タクミは黙って、差し出された本を受け取った。
表紙にタイトルはない。ただ、使い込まれた革の質感だけがある。それなりの厚さがあった。ずっしりと手のひらに重い。
タクミはゆっくりと頁を開く。
そこに並んでいたのは、見たこともない文字だった。
幾何学的でありながら、どこか有機的で、暗闇の中で蠢く根のように頁を這っている。通常の言語体系では到底読めるはずのないものだ。
だが。
頁を開いた瞬間、サラディンの知識が静かに波紋のように広がっていくのがわかった。まるで、もともとそこにあった記憶が、水底から浮かび上がるように。
文字が、意味に変わる。
タクミは目を細め、ただ静かに文字を追いはじめた。
『——絶対公理—— 魂理三禁を内包し、この世界を世界たらしめる動かざる箇条及び補遺——
——碑石について——
この世界の各所——忘れ去られた神殿の奥、干上がった河の底、人の踏み入らぬ森の最深部、あるいはすでに超越の儀を経て誰も住まぬ廃都の広場——には、誰が据えたとも知れぬ碑石が点在している。
碑石の文字は、深層の理に一度でも触れた者——すなわち、すでに退行の対象となっている者のみが読むことを許される。
理に触れたことのない者が見れば、そこにはただの無地の石面があるばかりだ。
この碑石を読めるということ、その一事がすでに読者の上に退行の刻印が押されている証左である。
誰が刻んだかはわからない。
碑石を削った鑿の痕も、運んだ者の足跡も、すべて退行のうちに消え失せた。
ただ碑石そのものだけが削られることなく残り続ける。
碑石がなぜ退行を免れるのか——碑石自身はその理由を記さない。
一説には世界そのものが自らを記述した深層の理の結晶であって、退行の及ばぬ位相にあるためといい、また一説には碑石こそが退行の根源であるともいう。真偽は定かではない。
碑石は世界各地に散在し、すべてを見て回ることは誰にもできない。
ゆえに人は碑石の文面を部分的にしか知りえない。
以下は、これまでに理に触れた者たちが各地の碑石より収集し筆写しえた文面の集成である。
碑石を読みえた者もまたすでに退行の渦中にあり、その筆写の正しさを公理の外側に立って検証することは誰にもできない』
指が、頁の上で止まっている。
なにかはわからない。わからないが、胸が締め付けられるような感覚がした。
そして、その中に混じっていた。
見覚えのないはずの文字列の中に、ひとつだけ。
――「超越の儀」。
タクミが、確かに意味を知っている言葉だった。
世界のどこかに、誰が据えたとも知れぬ碑石がある。
それを読める者は、すでに退行の対象だ。
タクミは、自分がその文字を読めてしまったことに、言葉にできない寒気を感じていた。
それでも——指は止まらなかった。
頁を繰る音だけが、静寂の中でやけにはっきりと響いていた。
そしてザイードは、この数日で積み上がった確信を、いま確かなものとして突きつけられていた。
この男は、ただの遺物鑑定士ではない。
夜の帳がすっかり下りた倉庫の裏手で、炉の残り火がかすかに揺れている。
タクミは顔を上げなかった。
ただ、静かに頁を繰り続けた。
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第77話 「リシェルとガウル」でした。
頁を繰る指が夜の静寂に震えた。
誰も読めぬ文字が水底から浮かび上がる。
碑石と退行を語る禁忌の公理を前に、
タクミはただ次の頁へと手を伸ばす。
次回、第78話「絶対公理の書①」





