第75話 鑑定士ザイード・ラグナール
第75話です。
潮風が運ぶ塩と魚の匂い、これが港の空気だ。
オルデに根を下ろし、新たな拠点が生まれた。
本と遺物に埋もれた男、ザイード・ラグナール。
偏屈な鑑定士との出会いが、静かに幕を開けた。
せり市は、賑わっていた。
港に近い広場を中心に、魚売りの声と潮の匂いが混じり合っている。朝のうちに水揚げされた魚が台に並べられ、仲買人たちが値を叫び、従業員が荷を運ぶ。その喧騒のまわりを、屋台が取り囲むように連なっていた。
焼き魚の煙が、風に乗って流れてくる。
「あれだ、あそこだ、兄貴!」
ロイドが指差した先に、外席の広い屋台があった。海に面した側が開けており、港の景色を眺めながら食べられる造りになっている。
一行が席に着くと、給仕の女がさっと寄ってきた。ガウルを一瞥し、目を丸くしたが、何も言わなかった。さすが港町だ、とタクミは思った。珍しいものを見慣れているのだろう。
頼んだのは、焼き魚と揚げ魚、それから名物だという煮込みだった。
揚げ魚は衣が薄く、かりりとした歯触りの中から白身がほろりとほぐれた。塩だけで食べる。それで十分だった。
煮込みは、白葡萄酒の香りが立つ浅い鍋で運ばれてきた。
銀鱗魚と潮貝。海葡萄草が緑を添え、黄実の果汁が最後に回しかけてある。食べると、塩気と酸味が交互に来て、それから魚の出汁が舌の奥に残った。
「おお、うまいな」
思わず呟いた。
「でしょ?」
ルナが満足げに微笑む。
「オルデに来たら絶対これを食べるって決めているの。お兄様も好きで二人でよく食べたわ」
「……アレクシス様もご存知なんですか」
リシェルが目を細める。
「ええ。帝都へ向かうたびに必ずここを通るから、思い出がたくさんあるの。懐かしいわね」
ガウルの前には、串焼きの肉と焼き魚が並べられていた。
リシェルが串を外し、ひと口大にほぐしながら皿に置いていく。
「……はい、ガウル。熱くないか確かめましたよ」
ガウルはゆっくりと皿へ顔を寄せ、一口食んだ。咀嚼する。
「……おいしいですか?」
リシェルが、そっと問いかける。
ガウルは顔を上げ、リシェルを一度見た。それからまた皿へ向かった。
「旨いってさ」
タクミが言うと、リシェルは嬉しそうに頬を染めた。
「……よかった」
タクミは煮込みを最後まで掬った。うまいとは思う。確かに思う。だが不思議と、腹の底に実感が届かない。満ちた感覚がどこか遠い。それでも皿は空にした。
陽が傾きはじめた頃、一行は腰を上げた。
「いやぁ、旨かったな」
「次は朝に来たいぜ。せり市はもっと新鮮な魚が並ぶんだぜ!」
ロイドが満足げに腹をさすっている。
タクミはそれを横目に、何も言わなかった。
◇
夕刻、一行はオルデン商会へ戻った。
一階のロビーに、タイフが立っていた。
「お待ちしておりました」
「悪いな、忙しくないのか?」
タクミが聞くと、タイフは静かに首を振った。
「当主の交代まで、いましばらく日にちがございます。それまでは、私の手もそれなりに空いております。ご心配には及びません」
「そうか」
「それより、ご案内いたしましょう。遺物倉庫へ」
タイフを先頭に、商会を出た。
大通りを外れ、埠頭の方へ向かう。道が細くなる。石畳から板張りになる。潮の匂いが、また濃くなった。
見えてきたのは、倉庫群だった。
タクミは少し足を止めた。
壮観だった。
木造の建物が、縦にも横にも連なっている。一棟一棟がそれなりに大きく、それがいくつも並んでいる。夕刻になっても、荷を持った従業員がひっきりなしに出入りしている。すれ違うたびに、タイフは控えめに手を上げた。それを受けるように、相手は丁寧に頭を垂れる。そのやりとりが、何度も続いた。
「ここは全部オルデン商会の?」
「この区画のほとんどは、さようにございます。代々の蓄積にございます」
「……すごいな」
「過分なお言葉にございます」
一番海に近い倉庫の前で、タイフが立ち止まった。
「こちらにございます」
木製の大扉が、開け放たれていた。
中に入ると、広かった。
天井が高い。柱が何本も立ち、その間に棚が並んでいる。棚の上には、布に包まれた品々や、木箱に収められた品々が整然と置かれていた。遺物だろう。いくつかは布がずれて中が見えており、金属光沢のある欠片や、奇妙な形の器が覗いていた。
「ここが遺物倉庫か。中は全部遺物なのか?」
「さようにございます。オルデン商会が保有する遺物の主要な収蔵場所にございます。一般の荷は別の棟でございます」
倉庫の左側に、階段があった。
タイフに案内されるまま、登っていく。
二階は、別の空気だった。
まず広い休憩スペースが広がっていた。ソファが向かい合うように置かれ、低い卓が中央にある。窓から夕の光が差し込んで、床に長い影を作っていた。
「応接にもお使いいただけます」
タイフがそう言ってから、奥へと歩き出した。
廊下になっていた。
両側に扉が並んでいる。等間隔に、木製の扉が続いていた。
「こちらをどうぞ」
タイフが一枚を開けた。
中を見る。
飾り気はなかった。ベッドがひとつ、木製の机が窓際に置かれ、木枠の窓からは埠頭の先が見えた。簡素だが、清潔だった。カーテンの白が、夕の光を透かしていた。
「おお、いいな。それに倉庫の二階で隠れ家みたいだな」
タクミは素直にそう思った。
旅籠の喧騒もなく、貴族区画の気張った重さもない。倉庫の二階。ひっそりとした、隠れ家のような場所だった。
「気に入っていただけましたか」
「ああ」
タイフが安堵したように頷いた。
更に廊下を進むと、突き当たりがまた広いスペースになっていた。
両側に棚。
片側には遺物らしき品々が並んでいた。陶片、金属の輪、文字の刻まれた石板。
反対側は本棚だった。
びっしりと冊子が並んでいる。分厚いもの、薄いもの、羊皮紙の束を紐で括っただけのもの。雑多に収まっていた。
その棚の前に、木製テーブルがあった。
座っていた。
若い男だった。
二十代の半ばくらいだろうか。くすんだ赤みがかった茶色の髪が、少し乱れている。外套は着ているが、着崩れていた。テーブルの上には本が何冊か広げられており、その間に遺物らしき器が置かれ、男はそれを手のひらで転がしながら、ページと交互に目を移していた。
完全に、没入していた。
タイフが歩み寄り、声をかけた。
「ザイード殿」
反応がない。
男は器を持ち上げ、裏返し、また本に目を落とした。
「ザイード殿」
やはり反応がない。
タイフが、小さく咳払いをした。
「ザイード・ラグナール殿」
男がびくっと顔を上げた。
「……あ。タイフさん」
目が合う。タイフの顔を見て、数秒、間があった。
「今ちょっと手が離せないんで、要件は短めで」
「先ほどご連絡いたしました件で参りました」
「連絡……ああ」
ザイードが視線をぐるりと動かした。タクミたちに気がつく。
一行を、順繰りに見る。ガウルで一瞬止まった。それからルナ、タクミの順に視線が戻る。
「誰ですか、この人たち」
「新しい鑑定士の方々にございます。ご挨拶をお願いできますか」
ザイードは、少し間を置いた。
それから、やや渋々といった様子で立ち上がった。
背はタクミとさほど変わらない。細身だが、それなりに体はある。目は暗い琥珀色で、今はまだ眠そうな光をしていた。
「……ザイード・ラグナールです。遺物鑑定士をしています」
形式的な挨拶だった。愛想はなかった。
「タクミだ。よろしく」
「ルナ・ラシェンテよ。よろしくお願いするわ」
「……リシェルと申します。よ、よろしくお願いします」
「ロイドっす!」
ガウルがザイードをじっと見ていた。ザイードはガウルを正面から見返した。しばらく、その目を見ていた。何かを測るような、短い間だった。それから静かに視線を外した。
タクミに目が戻ったとき、ザイードの視線が変わった。
外套を見ていた。
じっと、見ていた。
「それ」
ザイードが口を開いた。声が、さっきより少し低くなっていた。
「その外套。本物ですか」
タクミは少し考えてから、外套を脱いでザイードへ差し出した。
ザイードは両手で受け取った。丁寧に広げ、表を確かめ、それから内側へ視線を移した。
魔法陣が、うっすらと浮かんでいる。
ザイードの顔が変わった。眠そうだった琥珀色の目が、一気に鮮明になった。
しばらく、黙っていた。
魔法陣の一点を指先でなぞり、また別の箇所へ。呼吸が、微かに浅くなっていた。
「これ」
声が、低くなった。指先が、魔法陣の横へ移る。小さな刻印を、食い入るように見ていた。
「ゴント工房……王国後期の、本物だ」
顔を上げた。
「国宝じゃないですか」
「らしいな」
「らしい、じゃなくて」
ザイードが顔を上げた。その目に、初めて感情らしいものが宿っていた。
「本当に理解していますか。これが何かを。帝国博物館が血眼になって探しているレベルの、本物の遺物ですよ」
「知ってる」
「なんで一般人が持ってるんですか」
「いろいろあってな」
ザイードはしばらくタクミを見ていた。それから外套を、惜しむようにタクミへ返した。
「ルナ・ラシェンテ、と言いましたか」
今度はルナへ視線を移す。
法衣の胸元に刻まれた紋章を、じっと見ていた。
中央に根を深く下ろした巨木。その幹を巻くように、翼を広げたワイバーン。竜の尾は根元を巻き、頭は頂きを見上げている。
「……大樹教の正章」
呟くような声だった。
「その法衣、本物ですか」
「本物よ」
ルナが答える。ザイードはルナの法衣をしばらく眺めた。脱いで渡す素振りのないことを確認してから、小さく頷いた。
「アレクシス・ラシェンテの、妹さんですか」
「ええ、そうよ」
「論文、読んだことがあります。後期サラトニア王国の遺物における魔法陣変異についての考察。あれは良かった」
「お兄様のこと、ご存知なの?」
「名前だけは」
ザイードは短く答えてから、また自分のテーブルへ視線を戻した。
そこで、ふと気がついたように眉を寄せた。
「新しい鑑定士、って言いましたよね、タイフさん」
「さようにございます」
「つまり……ここに泊まるんですか、この人たち」
「遺物倉庫の居住区をお使いいただく予定にございます」
ザイードはしばらく黙った。
「……わかりました」
それだけ言って、また本に目を落とした。
歓迎でも拒絶でもない。ただ、受け入れた。それだけだった。
タクミはその横顔を少し眺めてから、タイフへ向き直った。
「気に入ったよタイフ。ここにする」
「では正式にご滞在の手配を進めます。使用人は明朝より一名お付けいたします。宿泊代はいただきません」
「悪いな」
「いえ、とんでもございません」
タイフは小さく首を振った。
「むしろ……こちらが無理を申し上げている立場にございます。遺物の山は積もるばかりで、私どもには手に負えないものも少なくなく……タクミ様のお力をお借りできるのであれば、これ以上のことはございません」
軽く頭を下げた。出会った頃の、あの華麗な一礼とは少し違う。もっと気安い、それでいて誠実な仕草だった。
「どうか、よろしくお願いいたします」
◇
部屋割りはあっけなく決まった。
廊下に並ぶ扉を順番に確認し、それぞれが気に入った部屋を選ぶ。それだけのことだった。
問題は、ガウルだった。
「ガウルは俺の部屋な」
タクミが自然に言うと、即座に反発が来た。
「ちょっと待って」
ルナが眉を上げる。
「なんで決まりなのよ」
「……わ、私もご一緒したいです」
リシェルが、控えめに手を挙げた。
「……しょうがないな。ガウルの行きたい部屋に行かせるか」
「ガウルに選ばせるってこと?」
「そういうことになるな」
三人の視線が、ガウルに集まった。
ガウルは一同をゆっくりと見回した。
タクミ。ルナ。リシェル。
それからまた、タクミ。
やがて、何かを決めたように、静かにそこへ座った。
ルナの部屋の前だった。
「ガウル!」
ルナの顔がぱっと明るくなった。
「……次は、私の部屋に来てくれますよね、ガウル」
リシェルがガウルに向かって、縋るように呟いた。
「……順番で回る。異論はないな」
タクミがそう言うと、ルナとリシェルが顔を見合わせた。
「それならまあ……いいわね」
「……はい」
「初日はガウルをルナの部屋に置く。以上だ」
「“置く”はやめてくれないかしら」
「……ガウルは物ではありませんよ」
二人に挟まれて、タクミは苦笑した。
ガウルは涼しい顔をしていた。
タクミはそっと、ガウルへ視線を向けた。
人気者だな、と思った。
少し、嬉しかった。
◇
夜は静かに来た。
タクミは自分に割り当てた部屋に戻り、外套を椅子の背にかけた。窓を開けると、潮の匂いがすっと入ってきた。
埠頭の灯りが、水面に揺れていた。
遠くに、船のシルエットが見える。マストが何本も、暗い空に線を引いていた。
砂漠を出て、ここまで来た。
次の扉の前に立った、とタクミは思った。
亜神やマグナルの痕跡が、この街のどこかに眠っているかもしれない。あの倉庫に並んだ遺物のひとつに、何かが残っているかもしれない。
わからない。
ただ、調べる場所が増えた。それだけは確かだった。
窓から離れ、ベッドに腰を下ろす。
隣の部屋から、微かにガウルの低い息遣いが聞こえた気がした。ルナの部屋だ。気のせいかもしれない。
タクミは天井を見上げ、目を閉じた。
潮の音が、遠くで続いていた。
砂漠転生をお読みいただき誠にありがとうございます。
第75話「鑑定士ザイード・ラグナール」でした。
海都オルデの倉庫に、錨を下ろした一行。
ゴント工房の刻印に目を輝かせた鑑定士ザイード
ガウルは今夜、ルナの部屋で静かに目を細める。
夜明けの埠頭には、ロイドの知らない世界が広がる。
次回、第76話「ロイド、海へ」





