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砂漠転生  作者: たまりん
第4章 オルデ編 ― 迷宮都市への旅路 ―
74/74

第74話 帝国直轄領オルデ


 第74話です。


 潮の匂いに、魚と塩が混じり合う。

 水路が街を縫い、朝の陽が水面を渡る。

 たったひとりで砂漠を越えた者を、海が出迎えた。

 遠く水平線が、物語の続きを囁いている。



 門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 潮の匂いが、どっと押し寄せてきた。


 塩と魚、そして潮に混じる海草の匂い。


 重く湿った空気が肌にまとわりつく。それでも不思議と不快ではない。ラシェンテの乾いた風とは違う。あちらが大地の息吹なら、ここは海の鼓動だ。生きている港の――生きている街の匂いだった。


 タクミは御者台から身を乗り出した。


 石畳の道が、緩やかな坂になって港へ向かって下っている。その両脇に、白壁の建物が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。水路が街路を縫い、橋のたびに人が立ち止まって話をしている。広場の噴水が朝の光を弾いて、白い飛沫を上げていた。


 遠くに、マストが見えた。


 何本も。


 港の向こうは海で、その先は空との境目が霞んでいた。


 砂漠から始まった旅が、ようやくここへ辿り着いた。


 感動というほど大げさなものではない。ただ、静かに、確かに、何かが胸の奥に落ち着いた。長い道のりの果てに、ようやく次の扉の前に立ったという、それだけの実感だった。


「オルデは直轄領らしいが、ラシェンテとは違うのか?」


 タクミの問いに、タイフは静かに頷いた。


「左様にございます。直轄領とは、皇帝陛下が直々にお治めになる御領地。徴税も軍備も裁断も、すべては帝都のご意向がそのまま通ります。地方貴族の裁量は、ほとんどございません」


「ラシェンテは?」


「委任領にございます。統治を"お任せいただいている"土地。侯爵家は広き裁量を持ちますが、それは権利ではなく、あくまでご信任。信を失えば、即座にお取り上げとなりましょう」


 なるほど、とタクミは小さく息を吐いた。


 主権は国民にある――それが当然の国で育った。選挙があり、議会があり、権力は分かたれている。だがこの帝国では、すべてが皇帝へと収斂(しゅうれん)する。権限も、責任も、最上位へ。


 その明快さに、タクミは奇妙な興味を覚えた。曖昧な折衷(せっしゅう)も、多数決の妥協もない。


「お考え事にございますか?」


「いや……面白いと思ってな。仕組みが、はっきりしてて」


 タイフはわずかに目を細めた。


「はっきりしているということは、逃げ場もまた、ございません。帝国とは、そういう国にございます」


 ◇


 オルデン商会本家は、遠くからでもわかった。


 貴族区画の一角に、他の建物より明らかに高い石造りの建物が立っている。濃い灰色の壁に、アーチ型の窓。正面には水路が通り、橋を渡らなければ扉に辿り着けない造りになっていた。橋の欄干に並ぶ獅子の頭像が、一行を無言で迎えた。


 馬車が止まる。


 タクミが御者台から降りると、建物の扉がすでに開いていた。中から出てきたのは、白髪を丁寧に撫でつけた細身の老人だった。


 アシュラフ・ラディーム。


 商会長は、タイフを見て、静かに目を細めた。


「……戻ってきたか」


「ただいま戻りました、叔父上」


 タイフが深く頭を下げた。


 老人の視線が、ゆっくりとタクミたちへ向く。鋭い眼光だったが、敵意はなかった。品定めでもない。ただ、確かめるような目だった。


「護衛の方々か」


「左様にございます。タクミ様、並びにそのご一行です」


 アシュラフは一歩前に出て、タクミの前に立った。


「遠路、ご苦労だった。タイフが世話になった」


「いえ」


 タクミが答えると、老人は小さく頷いた。それだけだった。多くを言わない人だとわかった。


 ◇


 依頼の精算は、商会の一階で行われた。


 帳簿係の若者が数字を確認し、タイフが署名し、報酬の入った革袋がタクミの手に渡った。ずしりとした重みがあった。


「約定通りにございます」


 タイフが頭を下げた。


「思ったより安全だったな」


「ええ。探訪者の目が常に届く街道にございます。野盗さえ払えば、大事に及ぶことはまずございません」


 一拍置き、声を落とす。


「報酬が高いことは承知の上にございます。されど――それだけの恩を、私はタクミ様より賜っておりますゆえ」


「そうか。なんか悪いな」


「お気遣いには及びません。これは私の意思にございます」


 さらに声を落とす。


「ただ……銀嶺の風の皆様とは取り決めが異なりますゆえ。何卒、この件はご内密に願えますでしょうか」


「それは揉めるやつだな」


「ええ。無用の軋轢は、商いにおいて最も避けるべき事柄にございます」


 タクミは苦笑し、肩をすくめた。


「わかった。黙っとくよ」


「ご配慮、痛み入ります」


 タイフはそう言って深く一礼してから、改まった様子で続けた。


「別件にて、ひとつお伺いしたきことがございます」


「なんだ?」


「タクミ様よりお預かりしております、あの遺物の日記にございます。あれは王国後期のサラトニア語にて記されております」


 一拍置いた。その間が、問いの重さを測るようだった。


「――タクミ様は、あの文を"お読みになれる"という理解で相違ございませんか?」


「ああ、読めるぞ。俺の住んでいた田舎には遺物にやたら詳しい物好きがいたんだ。そいつに叩き込まれたからな」


 もっともらしい顔で言う。嘘は簡潔に限る。


「やはり――」


 タイフの目が静かに細まった。


「タクミ様に、ひとつご提案がございます。当オルデン商会は、旧サラトニア王国期の遺物における正式卸売業者にございます。つきましては、商会に収蔵しております遺物の"鑑定"を、お手伝いいただけませぬでしょうか」


 背筋を正し、続ける。


「無論、給金は相応に弾ませていただきます。旅の途上にあることも重々承知しておりますゆえ、いつお辞めになられても差し支えございません」


「ああ、いいぞ」


 マグナルや亜神――その痕跡が、どこかに眠っているかもしれない。


 それに何より、この世界そのものがまだ未知だ。知れるなら、知りたい。それだけだった。


「左様でございますか!」


 思わず声が弾む。


「お恥ずかしながら、好事家にしか売れぬような品が山とございまして……真に扱いに困っておりました。タクミ様のお力をお借りできるなら、これ以上の僥倖はございません」


 ふと視線をルナへ向ける。


「それと、ルナ様もご同席いただければ幸いにございます。ルナ様のお兄君、アレクシス様は帝都にて遺物論文で名高き御方にございますゆえ」


「ええ、構わないわ。けど私はアレクお兄様のような専門的な知識は持っていないけれど、それでもいいかしら?」


「無論にございます」


 タイフは即座に頷く。


「遺物学術において名高きラシェンテ家の御息女が、鑑定の場に名を連ねられる――それ自体に大きな価値がございます。学術と商いは、時に"信用"こそが重みとなりますゆえ」


「それはありがたいが、俺たちはまだ宿も取っていないぞ?」


「それでしたら、遺物倉庫の二階をご利用になってはいかがでしょうか。居住用として整えておりますゆえ、広さも設備も十分にございます。現在は一名のみが使用しておりますので、支障はございません」


 一拍置き、淡々と続ける。


「ご滞在いただけるのであれば、身の回りを整える使用人をお付けすることも可能にございます。いかがなさいますか?」


「おお、倉庫の二階か」


 タクミは少し笑う。


「隠れ家みたいでいいな。ガウルも入れるならそこにしようか」


「では、夕刻にもう一度商会までお越しくださいませ。遺物倉庫まで、私自らご案内申し上げます」


「何から何まで悪いな。ありがとう、タイフ」


「いえ――それは本来、私が申し上げるべき言葉にございます」


 タイフは胸に手を当て、深く息を吸った。


「タクミ様と出会ってより、私の運命はあれよあれよという間に良き方へと転じております。これほどの僥倖、他にございません……」


 声が震える。目元が潤み、今にも崩れそうだった。


「……わ、わかった。とにかく、ちょっと街を見てから夕方また来るよ」


 それ以上続けさせないように、半ば遮るように言い、タクミは踵を返した。


 背後で、かすかに鼻をすする音がした。


 ◇


 建物の外には銀嶺の風が待っていた。


 ディランが手を差し出してきた。タクミはその手を握る。


「腕が立つ。一緒に仕事ができて良かった」


「こちらこそ」


「また機会があれば」


「ああ」


 カイルが、ガウルに向かって恐る恐る手を伸ばした。


「……ガウル、さようなら。お別れの挨拶、させてもらえますか」


 ガウルは鼻をひとつ鳴らした。動かなかった。


 カイルは、そっと白銀の毛並みに触れた。


 指先が沈む。


「……柔らかい。それに、毛並みに汚れが一切ない。シエラの言った通りだ」


 陽を受けた銀が、静かに光を返していた。


 シエラは最後に、ガウルの耳の後ろをもう一度だけ撫でた。ガウルは目を細めた。


「またね、ガウル」


 ガウルは何も言わない。ただ、シエラが離れていくまで、その場に静かに立っていた。


 三人の背中が、石畳の向こうへ消えていく。潮風がその後ろ姿を、ゆっくりと街の色の中へ溶かしていった。


 タクミはそれを見送ってから、仲間たちを振り返った。


「飯、行くか」


「やったぜ! オルデは魚が旨いんだぜ、兄貴!」


 ロイドが途端に目を輝かせる。


「せり市の近くに屋台があるわ。あそこなら外席も広いし、ガウルも大丈夫よ」


 ルナはそう言って、ガウルの首元を優しく撫でた。白銀の毛並みが、陽を受けて淡く光る。


「……良かったですね。ガウル」


 控えめに呟きながら、リシェルもそっとガウルに手を伸ばす。


 大きな狼は静かに目を細め、喉の奥で低く満足げな音を鳴らした。


 潮の匂いが、また一度、強く吹いた。


 タクミは空を見上げた。


 陽はまだ高い。


 だが遠い水平線の向こうに、ほんのわずかな色の変化があった。


 一日は、確かに進んでいる。



 砂漠転生をお読みいただき誠にありがとうございます。


 第74話 「帝国直轄領オルデ」でした。


 港の夕映えが、石壁を淡く染めていく。

 遺物の眠る倉庫で、新たな日々が始まる。

 誰も読めなかった文字が、意味を取り戻す刻。

 遠い過去と明日が、この場所で交差する。


 次回、第75話「鑑定士ザイード・ラグナール」


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リシェルとガウル
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