第27話 砂下の捕食者
白き静寂を切り裂きて影が跳ねる。
さらさらと流る砂の中から牙を剥く。
八百年の時を潜り抜けし未知の怪魚と。
男は荒野の果てで対峙の時を迎える。
ザッ。
ザッ。
軍靴が、純白の粒子を優しく、しかし力強く踏みしめていく。その乾いた音が、どこまでも広がる空の果てへと吸い込まれていった。
高い空。太陽はわずかにその位置を傾け、白一色だった大地に、ようやく淡い、長い影を落としはじめている。
外套のフードの奥で、タクミはゆっくりと深く息を吐いた。重ね着した法衣が熱を逃がし、体温を適正に保っている。それでもなお、この世界は焼けつくように明るく、白銀の鏡のように光を跳ね返していた。
歩く。
ただ、歩く。
白い砂。空。地平線。
何日も見てきた景色。見慣れたはずのその単調さは、静かに、しかし確実にタクミの神経を削っていく。
ザッ。
ザッ。
その時だった。
「……ん?」
タクミの足が止まる。視線が、まるで意志を持ったかのように足元へ落ちた。
純白の砂。
――揺れていた。
さざ波のように。ゆっくりと、吐息を繰り返すように。
風はない。それなのに、足元だけが、大地そのものが生き物のように脈打っている。
「なんだ? ワームか……?」
タクミは一歩下がる。背筋に、冷たいものが走った。
次の瞬間。
――バンッ!!
爆音。白い粒が弾丸のように四散し、視界を奪う。
その奔流の中心から、真っ黒な影が弾き出された。
「うわっ、さ、魚……!?」
そこには、巨大な魚がいた。
砂を裂き、まるで水の中を泳ぐかのように空を切る。全長は二メートルほど。背ビレは鋭い刃のように立ち上がり、尾ビレが空気を叩くたびに、乾いた打撃音が鳴り響いた。
開かれた口の中には、幾重にも並ぶ鋭い牙。
「……なんだこいつは」
反射的に身を引く。だが、視線は決して逸らさない。
タクミは頭の奥へ意識を向けた。サラディンの知識を、総動員して。
(……サラディン、こいつを教えろ)
脳裏に、莫大な情報が流れる。
……だが、返ってきたのは沈黙。空白だった。
「おい……」
タクミは眉をひそめる。
「あいつ、ここまで来たことなんてないだろ……! 」
魚の魔物が白砂の上に落ちる。白い粒を巻き上げながら、苦しげに身体をくねらせ、再び潜ろうと砂を掘る。
「ガチで、あそこに八百年もの間、引きこもってたのかよ……!」
思わず苦笑が零れる。そんな、信じがたい現実に。
その瞬間だった。魚が、最後の一跳ねを見せた。
牙が迫る。影が視界を塗り潰す。
タクミは動かない。
足を半歩引き、重心を低く沈める。研ぎ澄まされた、一直線の構え。
それは、かつて営業マンとして椅子に座っていた男の姿ではない。荒野で磨き上げられた、生存者の構え。
魚の口が、目前に迫る。
「――硬化!」
水色の輝きが閃いた。
拳が伸びる。
――ゴパァッ!!
鈍く、重い破裂音。
魚の頭部はタクミの拳に砕け散った。肉片と白砂が混ざり合い、夕陽に照らされて赤く光り、大地に滴る。
胴体だけが地面に落ち、痙攣を繰り返したのちに、やがて静止した。
タクミは拳を下ろす。ゆっくりと、息を吐いた。
「……」
再び、静寂が戻る。
「……硬化パンチ、やっば」
思わず笑う。拳を見る。硬化の光が静かに、波紋のように消えていく。
「こんな威力だったか? まあいい、そんなことより……」
足元の巨大魚を見る。
砂の上で、命の残滓が最後に一度だけ跳ねた。
しゃがみ込む。硬い鱗。分厚い皮。砂粒がぴたりと貼りついている。
「砂って、泳げんの?」
答えはない。ただ、肉がある。
「よし」
ナイフを抜く。
刃が鱗の隙間に滑り込む。血が白砂を赤く染め、大地を湿らせた。
肉は想像以上に多かった。分厚く、弾力がある。
切り分け、砂の上に並べる。太陽がそれを炙る。この地帯の乾燥は、生き物を干からびさせるには十分すぎるほど異様だった。肉から水分が奪われていくのが、目に見えて分かる。
「乾くのが早い。……この地帯は、本当に異常だ」
小さく呟く。
日が落ちる頃には、かなりの量が干し肉になっていた。白の上に並ぶ、赤黒い塊。
タクミはそれをバックパックへ詰め込む。サンドワーム皮の鞄が、ずしりと重くなる。
「助かった」
胸の奥の緊張が、ほんの少しだけ緩む。
保存食に余裕ができた。それだけで、無機質な世界に、ほんのわずかな色が戻った気がした。
魚の残骸を見る。
「お前の名前は――」
少し考え、冷たく笑う。
「……サンドバラクーダだ」
誰も聞いていない命名だった。
タクミは立ち上がる。外套の砂を払う。バックパックを背負う。
目の前に広がる、白い地平線を見る。
死んだように静かな大平原。
だが、その下には確かに命が潜んでいる。
「行くか」
ザッ。
ザッ。
軍靴が白い砂を踏む。
死砂の大平原。
その奥へ、タクミはまた一人、歩き出した。
(経過日数:二百十二日)
赤き血潮が純白の大地を染め上げる。
硬化の拳は命を刈り取り糧を得た。
二百十二日目の夕陽に影を伸ばして。
彼は静かなる死の平原をまた歩みゆく。





