きゅう
無駄は無駄なのであって、無駄でない無駄など、存在するのだろうか。
ああ、もう。
無駄やら無駄やら考えていては頭がこんがらがって変なことになる。
自叙伝を書く、というのは最早決定事項のようなので諦めるが、どうしてまた無駄と向き合わねばならぬのか皆目分からん。
そも、無駄は自叙伝に必要であるというのに、その無駄は無駄であってはいけない、というのが不可解極まりない。
謎掛けだとでも言うのですか、望夏先生。
もう、こうなってきては無駄というのが一体何なのか、それすらも分からなくなってくる。自分の人生とこれまで寄り添ってきた言わば生涯の相方たる無駄のことが、今更になって理解できなくなってきてしまったのだ。
こうなっても離縁は出来ぬのが厄介なところ。紙切れ一つと「お前は家の子でない」の一言で離縁できれば、どれだけ易いことか。
ふむぅ、親父殿の様に上手くはいかないな。
さて、不可解しか存在しないが、これを紐解かねば先へと進めないのも事実。
無駄とは何なのか。いや最早哲学のような問となってしまった謎掛けを、私の特に秀でてもいない頭で考えねばなるまい。
はてさて、無駄とはなにか。
そりゃまぁ、いらないものだと思う。じゃあ、いらないものとはなにか。必要ないものだと思う。必要ないものといえばなにか。
いやしかし、私としては思うのだ。
私のような物書きにとっては字を書くための筆と、紙さえあれば最低限事足りる。色鮮やかな絵具などは全く持って必要ない。けれども、絵描きにとってはそれらこそ必要なものであって、私と絵描きでは、必要なものなど同じにはならないのだ。
無駄なもの、と一括りには言うが、実際一括れるものなのかは甚だ疑問である。
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