第二十六話:黒い巨像と、鋼の記憶
第二十六話:黒い巨像と、鋼の記憶
1.鳴動する境界
王都の喧騒を離れた北方の山間部。そこは、サキモリたち一行が次なる任務への備えとして、一時的な「陣地」を構築していた静寂の地であった。
だが、その静寂は、物理法則そのものが悲鳴を上げるような「異音」によって、唐突に引き裂かれることとなった。
音もなく、大気の組成が書き換わる。
空の青が、腐ったインクを零したような、濁った黒に侵食されていく。
「……空間の歪み。魔力によるものではありません。これは……因果の強制的な書き換えか」
サキモリは、手にしていたメンテナンス用の布を置き、灰色の槍を握った。
隣で仮眠を取っていたルミナが飛び起き、エレンが瞬時に大弓の弦を引く。
「なによ、この嫌な感じ……。魔力がねじ曲がってる。おじさん、あれを見て!」
ルミナが指差した先、山の稜線を背にして、それは立っていた。
人型ではある。しかし、高さは百メートルを優に超え、その肉体は不定形の泥のような、それでいて漆黒の光沢を放つ物質で構成されていた。
魔王軍十人幹部の一人――「ドッペルゲンガー」。
対峙する者の深層意識を覗き込み、その者が最も恐れる「最悪の記憶」を現実へと引きずり出す、精神汚染の権化である。
巨像の顔のない頭部が、ゆっくりとサキモリの方を向いた。
その瞬間、サキモリの脳内に、二十年分の硝煙と鉄錆の味が、津波のように押し寄せた。
2.再誕する鋼の宿敵
「…………あ、ああ」
サキモリの唇が、初めて戦慄に震えた。
ドッペルゲンガーの黒い肉体が、激しい蒸気と共に変貌を開始する。
人型を捨て、横方向へと平べったく広がり、その表面は鈍い灰色の装甲板に、甲板には白線が引かれ、船体側面からは無数の機銃や迎撃兵装が突き出していく。
それは、サキモリがかつての世界で、一万人の戦友の命と引き換えにようやく海底へと沈めた、「異世界の超大型原子力空母」の成れの果てであった。
「嘘……でしょ……。山の上に、海もないのに、あんな巨大な船が……!」
エレンの絶望的な声が響く。
だが、驚愕する暇さえ、その「鋼の怪物」は与えてはくれなかった。
空母の甲板に据えられた蒸気カタパルトが、凄まじい爆風を上げて稼働する。
「……総員、即座に散開! 遮蔽物へ退避してください!」
サキモリの叫びと同時に、甲板から黒い影が次々と射出された。
それは魔法の幻影ではない。空気抵抗を計算し尽くされた翼、不気味なジェットエンジンの咆哮、そして翼の下に吊り下げられた、数多の「死」を運ぶ弾薬。
爆撃機数十機。
それを護衛するように旋回を始める戦闘機五機。
近代兵器の機能美と、魔族の呪わしい執念が融合した「空の軍勢」が、王都を目指して一斉に急降下を開始した。
3.降り注ぐ「科学の暴力」
「迎撃しますわ! ルミナ様、高度の固定を!」
エレンが光の矢を放つ。
だが、音速に近い速度で飛行する戦闘機は、チャフとフレアを撒き散らしながら、魔法の追尾を嘲笑うように回避した。
次の瞬間、爆撃機の腹部から、無数の黒い点が投下される。
爆発。
爆発。
爆発。
森が、一瞬にしてオレンジ色の巨大な火柱に包まれた。
魔法による爆炎ではない。ナパームの燃料が大地にへばりつき、土そのものを燃やし尽くす、逃げ場のない焦熱。
「ぎゃあああっ!? 熱っ、何これ、消えないんだけど!」
ルミナが防御結界を張るが、高熱の爆風が結界の表面を焼き、酸素を奪い去っていく。
サキモリの視界は、現在の山間部と、二十年前の「孤島の戦場」が二重写しになっていた。
耳の奥で、かつての部下たちの叫び声が聞こえる。
『隊長、防波堤が保ちません!』
『燃料庫に直撃! ――班、全滅です!』
『サキモリ、俺たちを置いて行け、中枢を叩くんだ……!』
「……一万人だ」
サキモリは、飛来するミサイルを槍の石突きで弾き飛ばしながら、虚空を見つめた。
「一万人の命を、私は……。あの巨獣を沈めるための『資材』として、消費した。この、不沈の称号を得るための代償として……」
物理法則として放たれるミサイルの噴煙が、サキモリの肺を焼く。
魔法の理が通じない、純粋な質量とエネルギーの暴力。
かつて彼が、自分の心の一部を殺すことでようやく打ち勝ったはずの「最悪」が、今、彼が守ると決めた二人の少女をも呑み込もうとしていた。
4.孤独な管理工程の崩壊
ドッペルゲンガー――空母の艦橋部分から、不気味な笑い声のような振動が伝わってくる。
それはサキモリの論理を、過去の罪悪感で押し潰そうとする精神の爆撃でもあった。
(計算しろ。以前と同じだ。自分以外の全てを切り捨て、中枢へ肉薄しろ。そうすれば、この王国は救われる。……二人の犠牲で、百万人の命が救える。それが、お前の選んできた『構造』だろう?)
内なる声が、サキモリの思考を蝕む。
サキモリの手から、力が抜けかかる。
「おじさん!! 何ボサッとしてんのよ! 避けなさいよ!」
ルミナの叫び声。
見上げれば、一機の戦闘機が機首をこちらに向け、機関砲を掃射していた。
無数の土煙がサキモリの足元に迫る。
だが、サキモリは動けなかった。
彼に見えているのは、目の前の弾痕ではない。
かつて自分が「守れなかった者たち」の、泥にまみれた遺品と、沈みゆく鋼の墓標だけだった。
「……私は、また同じ過ちを繰り返すのか」
灰色の槍が、鈍く、悲しげに震えた。
王都の空は、黒煙によって覆い尽くされようとしていた。
魔法が、剣が、英雄が。
かつてサキモリがいた世界の「科学の暴力」の前に、あまりに無力であることを証明するかのような、絶望の朝が始まった。




