第二話:防人の「挨拶」――損耗計算と最速の解体
1. 生存と排除の天秤
砕け散った大扉の破片が床を滑り、最初の一体の死体が重い音を立てて転がる。
静まり返った召喚の間に、サキモリの軍靴が血を弾く音だけが響いた。
だが、安堵の時間など一秒も存在しない。
破壊された扉の向こう、暗い廊下の奥から、さらに十数体の「餓狼族」が肉を裂くような咆哮を上げ、雪崩れ込んできた。
「ひっ……勇者様、逃げて……!」
王女プリシラの悲鳴。
彼女を守るべき近衛騎士たちは、あまりの威圧感に膝を突き、剣を握る手さえ震わせている。
だが、サキモリの視界は、彼らとは全く異なる景色を捉えていた。
彼は、思考を加速させる。
(敵個体数、残り十二。後続あり。こちらの防衛対象、約二十名。遮蔽物、石柱のみ)
彼にとって、戦場は感情を動かす場ではない。優先順位を整理し、順次処理していく「構造」そのものだ。
優先順位第一位、対象の安全確保。第二位、自身の継続戦闘能力の維持。第三位、敵の排除。
サキモリは、手に持った儀礼用の槍の重さを再確認し、静かに一歩を踏み出した。
その足取りは、死地に赴く勇壮さとは無縁の、朝の散歩にでも出るかのような、極めて合理的で無駄のない歩法だった。
2. 効率的な被弾
最初に仕掛けてきたのは、先頭を駆ける最速の一体だった。
時速八十キロを超える突進。振り下ろされる爪。常人ならば、回避を試みて体勢を崩し、その隙を次の爪で刈り取られるのが定石だ。
しかし、サキモリは「大きく避ける」という選択を、思考の初期段階で切り捨てた。
(左腕の皮下組織で受ける。骨への到達まで残り三センチ。十分だ)
サキモリは、わずかに左半身を斜めに傾けた。
「ガッ」という鈍い音と共に、魔物の爪がサキモリの左上腕部を深く切り裂く。鮮血が飛散した。
だが、同時に魔物は驚愕に目を見開くことになる。
人間ならば上がるはずの悲鳴がない。それどころか、斬られたはずの腕に「力」がこもった。
サキモリは、あえて傷口の深部で筋肉を硬直させ、魔物の爪を自らの肉で「固定」したのだ。
魔物が爪を引き抜こうとするコンマ数秒の停止。サキモリにとっては、それで十分すぎた。
「失礼。少しばかり、失敬します」
物腰の柔らかい敬語と共に、右手の槍が最短距離を走った。
「ドシュッ」という音を立てて、槍の穂先が魔物の眼窩を貫き、脳幹を正確に破壊する。
一切の無駄がない、物理的な「停止」の処置。
一体目が倒れると同時に、サキモリは自身の筋肉を弛緩させ、爪を解放した。
左腕から血が滴る。だが、彼の視線はすでに次の予備動作を計算し終えていた。
「勇者様、お怪我が! 血が出ています!」
プリシラが泣き叫ぶ。
しかし、サキモリは振り返りもしない。
「問題ありません、プリシラ様。重要箇所は外しています。継続戦闘に支障が出るレベルではありませんので、ご安心を」
彼は、痛みを感じていないわけではなかった。神経は確実に苦痛を脳に伝えている。
だが、孤島で過ごした二十年が、彼を「痛みと動作を分離させる機械」へと作り変えていた。
毒ガスで肺を焼き、砲弾の破片で脇腹を抉られながらも、次の弾倉を交換し続けなければ国民が死んだ。
その経験に比べれば、この程度の裂傷は、整備不良のネジが一本緩んだ程度の些細な問題に過ぎなかった。
3. 慈愛と狂気の境界
二体目の餓狼族が、サキモリの背後から跳躍する。
「危ないっ!」エドワードが叫ぶ。
サキモリは、あえて背中を晒したまま、足元に転がっていた折れた石材を軽く蹴り上げた。
跳ね上がった石が魔物の顔面に当たり、わずかに軌道が逸れる。
その隙にサキモリは反転。魔物の爪が彼の軍帽を掠め、頬を数ミリ切り裂く。
だが、彼はその「被弾」を利用して敵の懐に潜り込み、槍の柄で喉仏を粉砕した。
「……あ、あぁ……」
エドワードは、その光景に震えが止まらなかった。
この男には、美学がない。魔法の輝きも、英雄の咆哮もない。
あるのは、徹底した「自己の消費」だ。
一振りの爪を受け入れれば、敵を一体殺せる。
一筋の血を流せば、背後の少女を死なせずに済む。
サキモリの計算式において、自分自身の苦痛や傷は、常に「安いコスト」として計上されていた。
「勇者様、もうやめてください……! 傷だらけじゃないですか……!」
「お気遣いありがとうございます、お嬢さん。お優しいのですね」
サキモリは、魔物の首を槍で押さえつけながら、優しく微笑んで答えた。
「ですが、そこの隅へ移動してください。今からここは、少しばかり石材の破片が飛びます。お召し物が汚れるのは、好ましくありませんから」
自分の腕が裂かれ、血が溢れていることよりも、少女の服が土埃で汚れることを優先的に懸念する。
その物腰柔らかな「狂気」に、エドワードは悟った。
この男は、自分自身の命だけを綺麗に除外した、冷徹な方程式の上に成り立っているのだと。
4. 結末:挨拶の完了
数分後。
召喚の間に、立っている魔物は一匹もいなかった。
静まり返った広間に、サキモリの軍靴が血を弾く音だけが響く。
「ふぅ……」
サキモリは軍帽を被り直し、乱れた襟元を整えた。
軍服は自他の血で黒ずみ、左腕と頬、そして脇腹からは未だに赤い液体が滲んでいる。
「さて、応急処置を失礼します。次の『持ち場』へ行く前に、整備を怠ると途中で止まってしまいますから」
彼は床に落ちていた清潔そうなカーテンの端を無造作に切り裂くと、慣れた手つきで左腕を縛り、止血した。
痛みで顔をしかめることすらない。その作業は、使い古した道具に油を差すような、事務的で静かな時間だった。
「お待たせいたしました」
サキモリは、血のついた槍を一本、城外の咆哮が聞こえる方向へと向けたまま、二人の人物へ向き直る。
「……そちらのお嬢さんは、先ほどのお話からするとプリシラ様とお呼びしてよろしいでしょうか。そして――」
サキモリは、玉座の前で呆然と立ち尽くす、威厳と疲労の混じった初老の男へ視線を向けた。
その佇まいと、周囲の文官たちが縋るような視線を送っていることから、サキモリはこの人物の正体を即座に「構造」の一部として組み込んだ。
「失礼ですが、陛下。お名前を伺ってもよろしいでしょうか? これから持ち場を共にする以上、お呼びする名がないのはいささか不便ですので」
「……アルタの王、エドワードだ。貴公……いや、勇者殿。感謝する。この国を救ってくれた」
「エドワード陛下ですね。承知いたしました。……それと、私は勇者ではありません。『防人』とお呼びください」
サキモリは、自分の出血など最初からなかったかのように、満足げに一度だけ頷いた。
「敵方は、どうやら礼儀を重んじるタイプのようです。わざわざ外で、これほどの大軍が私を待ってくださっている。……近代兵器の雨が降らない戦場は、本当に静かでいい。これなら、皆様を最後までお守りできそうです」
自らの損耗を「三%」と見積もり、継続戦闘に全くの問題なしと結論づけた「防人」は、血に濡れた槍を手に、再び戦場へと歩き出す。
「では、行って参ります。エドワード陛下、プリシラ様。……皆様は、お茶でも飲んで待っていてください。すぐには終わりませんが、必ず終わらせますから」
それが、異世界に降り立った「ヤバい防人」の、本当の意味での最初の挨拶だった。




