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「そうね、成果次第だけど、二千万円まで出すと言われた」
桃花がためらったのは一瞬だけだった。俺の方を真っ直ぐ見て、そう言った。まあ、嘘は言ってないようだ。その満額を貰えるとは思っていないはずだから、彼女の期待値はその半分くらいか。口調が変わったのは、俺と対等に交渉しようということだろう。
「俺の弱味って、具体的にはどんなことだ?」
「最初は何でもいいって言われたわ。年末の夜に話しかけられた時求められたのは、趣味嗜好や持ち物、対人関係、性的嗜好、政治的意見、とにかく岡田さんについてのあらゆる情報ね。数日間接客しただけだから、ほとんど推測だと言ったんだけど、少し話をするだけでン万円のお小遣いをくれた」
なるほど。そういう些細な個人情報でも、桃花が一度漏らしてしまえば、彼女のキャリアにとって瑕疵となる。でも次に会った時にはその弱味につけ込んで、嵩にかかって脅しつけてくる……、なんてことをプロはしない。
「こんなことがバレたら、職務規程違反で拙い立場になるね。でも、そんなことには絶対ならないから」ぐらいのことは言うかもしれないが、あくまで優しく彼女に寄り添うように接する。そして後ろめたいところのある彼女が、進んで協力するような形に持っていくのだ。対人諜報活動の原則である。
で、まあ、桃花の方から俺を籠絡してみせると宣言する所まで、誘導したわけだ。
ただ相手がどのレベルのプロであるかによって、今後の展開は変わってくる。この情報を俺にレクチャーしてくれたどん亀によると、黒社会というのは日本の暴力団をもっと過激にしたような奴ら、らしい。だからその手口も、必ずしも洗練されているとは限らず、いきなり粗暴な行動に出ることも珍しくないそうだ。
下手をすると桃花を殺して俺を犯人に仕立て上げ、事件を隠蔽してやるから言うことを聞けと俺を脅す、そういう計画なのかも知れない。
そんな話を桃花にした。情報源は無論ぼかしてある。そのせいで桃花は、俺もその危ない世界の住人だと誤解してしまった。
「やだ、岡田さんたちの世界って、怖いのね」
うーむ、あんまり怖がっているようには見えないんだが。だって続けてこう言ったんだ。
「でもそれだけ大きなお金が絡んでいるってことでしょう?」
金に眼が眩んで、どれだけ危険なのか理解していないんじゃないか? それに何でここまでタメ口になるんだ?
「ねえ、今回の取引でどれだけのお金が動くの」
「勘違いするなよ。俺の所は真面目な物作りの会社だ。たまたま画期的な製品を開発して、世界的な大企業相手に有利な契約を結んだ。それを中華系の企業が不正な手段で横取りしようと企んでいるのさ」
「うーん、そうなの?」と、全く信じていない目付きだ。
「現に、東京ではGNペイント本社に近々警察の捜査が入るはずだ」
桃花を味方にできない場合を想定し、俺はわざとこの会話の中に情報を紛れ込ませた。こいつはブラフではないが、相手に伝わったらどう受け取るだろうか? 牽制として効果があれば良いが。
「警察がどう動くかなんて、どうして分かるの?」
「蛇の道は蛇って言っても分からないか。企業同士の争いでも、いろいろあるんだよ」
「それぐらい知ってるわよ」
馬鹿にされたと受け取ったのか、ちょっとムキになる顔が可愛い。若いな!
「怒ることはないだろ」
俺は桃花に近寄り、さり気なく腕を回して、ピンできつめにまとめられた後ろ髪に触れる。さっと身を躱した彼女は、俺の顔を見てニマッっと笑って言う。
「これから先は、別料金でございます、岡田様」
「そいつは残念」
どうやら彼女は、首筋の上でマイクロ・マシンが入ったカプセルが弾けたことに、気付かなかったようだ。
「私がお金にこだわっていると思うでしょう。でも本土の人には分からないこともあるのよ。さっき本島でスクールに通った話をした。私が子どもの頃、宮古から本島に引っ越した。そしたら、本島の人は私たちを宮古の人間として差別した。私が諦めたのはそれもあるの。離島の人間が成功するなんて、あの人たち絶対許さなかったし、認めなかったから。本島人はそんなこと無いって否定するけど、子どもの私はあそこでそれをひしひしと感じた。それをひっくり返せるのは、結局はお金しか無いと思う」
どん亀の注釈によると、本土の政府や人間による沖縄差別を声高に主張する沖縄本島のマスコミや政治家も、琉球王朝が離島である宮古・八重山に八公二民と言われる苛烈な貢租を課した過去や、これら離島の人間を島流しにされた犯罪者の子孫として、未だに蔑視する風潮が残っていることには触れようとはしない。それらについて問い質そうとしても、多くの場合「そんなのは昔のことだ」と流されてしまう。
桃花も最初は「自分に才能が無かった」と言っていたが、本当は宮古という離島の出身者に対する差別で「足を引っ張られた」「前に出ようとすると邪魔された」と感じていたのだろう。その頃彼女の周りにいた全ての人間がそうだったとは限らないが、少なくとも本人はそう感じ、諦めという結果に至ったのかもしれない。
今現在のこの世界には、どこにでもそんな差別が存在する。理想だけをいくら述べても、現実は現実だ。だから何等かの方法でそれを乗り越え、変えられる部分はより良く変革しようと取り組んでいかねば、自分の思うように生きることはできない。
そんな世界の現状を丸ごと背負い込むのは、子どもには荷が重い。しかし、どんなに幼い子どもであっても、一人の人間として自分の人生に立ち向かっていくしか無いのである。難儀なことだ。
結果として、狭い世界に閉じ込められてきた桃花が、「金が全ての鍵だ」と考えたことを全否定することはできない。今の話からすると、彼女の生きて体験してきた実質的な世界は、沖縄本島と宮古周辺に限られたもののようだ。
多分あるレベル以上の財産があれば、彼女の前に立ち塞がる多くの障害は、撥ね除けることができる。実際には金銭のみで解決できない問題もあるが、それはずっと先の話だ。
「一千万なら出してやっても良い」
桃花はしばらく黙って俺の顔を見ていた。それからフッと吐息を零して言う。
「で、私は何をすればいいの?」
「無論、俺のために働いて貰う」




