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また、あの女か! 一遍で眠気が覚めてしまった俺は、機内に優奈が放った視線を、身をすくめて躱した。
離れてはいるが狭い機内だ。見つかったらあいつが何をやり出すか、知れたものではない。そう思ってそれから、そう言えばトライデント社に目配りをたのんでいたはずと思い出した。
離陸してしまったら、スマホが繋がらない。俺はあわてて山城智音にメッセージを送る。
”橘優奈が那覇発宮古島行きの便に今搭乗してきた。安西はどうしている?”
返信が来る前に乗っている機が飛び立った。この便は機材の関係でWi-Fiが無い。俺は諦めてスマホを機内モードにした。
特製スマホがどん亀にはいつでも繋がることを、しばらく後に思い出した。智音への文字メッセージをコピーし、少し編集してから送る。直ぐ返信が来た。
”安西ハ現在、京都ニイマス。橘優奈ト会合ヲ持チ、両者ノ間ニ何等カノ取引ガアッタ模様”
あれから数日経っても光一が帰宅しないので、優奈は会社に相談し、会社は顧問弁護士を通じて警察と連絡を取った。会社があわてたのは、光一が家を出る際に散弾銃を携帯していたからである。
クレー射撃を光一が趣味としたのは数年前のことだ。それで銃や装弾の所持自体には法的問題は無いのだが、行き先が不明なのである。所属している射撃場のクラブハウスにも、顔を出した形跡が無い。
あの御殿山での夜の後、光一は相当荒れていたらしい。面子を傷つけられたことと、俺がトライデントを通じて何かしてくるのではないかという憶測に駆られ、なだめようとした優奈に暴力まで振るった。まあ、八つ当たりだな。
そうでなければ、優奈も焦って会社にぶちまけてしまうことはなかったろう。こっちは考え無しで、万が一の場合の自分の保身に走ったということか。俺が辞表を書かざるを得なくなったあの件でも、結局優奈は光一に示唆され動いていたらしいし、そう賢い女ではない。
かなり情緒不安定な状態で、銃と実弾を持って行方不明。警察も何等かの対応をしない訳にはいかなかった。取りあえず、事情聴取を受ける。優奈は自分に不都合な話はしない。だが、含むところのある俺に対しては別だ。むしろ悪意のある示唆を漏らす。
優奈が警察に対し、光一が出がけに俺に対して「怒っていた」と伝えたことを知ったどん亀は、山城智音を動かし、「安西と橘夫妻の三角関係」について匿名でタレ込ませた。
ここまでは俺の考えたシナリオ通りだ。不倫関係は事実だからね。警察なら証拠は直ぐ取れる。それにしても接待なのか趣味なのか、スワッピングって何だよ! ちなみに安西所長はバツイチで、パートナーはワンポイントでどこからか連れて来たらしい。お盛んなことだ。
警察にそのことを追求された優奈が、あわてて安西に連絡を取り、四日前に京都で会った。以上がどん亀の報告内容である。
どん亀は人里でよく見るハシブトガラスや雀の姿を模した野鳥ボット、それからそいつらに運ばせるマイクロ・マシンなどという常識外の機材を駆使し、二人の動向を追跡していた。だが無論あいつも万能ではない。特に屋内で交わされる会話や、電子化されていない文書には、到達できないことが多いのだという。
宮古空港に着陸する少し前に、俺は鈴佳を揺り起こす。ちゃんと目を覚ましたのは着陸後だ。
「あ? あたし、寝てた?」
「ずっと寝っぱなしだったじゃないか」
気の早い乗客は、ベルトを外し降りる準備を始めていた。駐機場所に達した機のエンジンが止まる。
「ごめん、一緒に座ってると気持ちよくて」
そう言って頭を寄せてくる鈴佳に、俺は小声で伝える。
「まあ、最後の人が降りてからでいいから。それからな」
「何?」
「橘優奈が駆け込みで乗ってきた」
「えっ」と、鈴佳が周囲を見廻す。ドアが開き乗客が降り始めていた。
「一番先に降りたよ」
「偶然?」
「違うだろう……、安西を甘く見すぎていたかも知れない」
「安西って、ホテルで出会った関西弁の男の人?」
「ああ、あいつは研究者としてだけでなく、実業家としても有能だ。橘優奈から俺の家がどこにあるか聞いていたら、今回の旅行先も探り当てた可能性がある」
「えーっ、だって、あのリゾート見つけたのネットだよ。どうやって?」
「町から呼んだタクシーに、新幹線の駅まで乗ったろう」
「あっ、あたし浮かれて、運転手に宮古島に行くこと自慢しちゃった」
「まあ、俺も調子に乗って一緒に話していたからな」
家からだと駅まで三時間以上かかって、暇だったんだ。実は俺もテンションが上がってて、鈴佳の相手をしていた。
「ごめんなさい」
「いや、あれは俺も悪い。だから調査会社の人間が本気で調べていれば、あの運転手に行き当たっても不思議はない」
「お金でも貰って喋っちゃったのかな?」
「探偵は情報を引き出すのが仕事だ。いろいろ手はあるさ」
「でも、どうするの?」と、鈴佳が心配そうな顔になった。こいつには俺が会社を辞める前、優奈がどんな仕打ちをしたか説明してある。御殿山のレストランとその前のホテルでのことがあったからな。それに俺も、俺の側の立場で誰かに聞いて欲しかったのだと思う。
「何にも」
「何もしないの?」
「あいつに何ができる? 俺たちが泊まっている場所を知ってても、それでどうすると言うんだ?」
「何か、してこない?」
「大丈夫だって」
いや、ぜんぜん大丈夫なんかじゃ、無かった。




