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ランドグレンの頭を冷やすのに小休止を入れた。その間に鈴佳と昼食及び夕食の準備について打ち合わせる。
朝食の後、昨夜の内に仕込んでおいたパン生地を、冷蔵庫から出して四十度のオーブンに入れ、温めた。こいつはガス・オーブンなのに常温近い温度管理ができる。つまり全自動で、発酵機能付きなのだ。
小休止を利用して、一次発酵の終わったパン生地を一度取り出し、ガス抜きをする。その後六つに分割し、それぞれ丸めた生地を伸ばして巻く。食パン用の焼き型二個の内面にバターを塗り、三個ずつ丸めた生地を並べて入れ、再度オーブンへ。ここは手作業ね。
そうすればオーブンが二次発酵してくれ、その後自動で百七十度に温度を上げ、パンを焼き上げる。叔父が選んだ欧州メーカーの製品だが、いくらするんだろう、これ?
昼のメニューはパンの他に、茹で卵を刻んでマヨネーズで和えたのと、生ハムとシーチキンの缶詰(無論中味だけ)、アスパラとトウモロコシの塩茹で、生トマトジュースと牛乳と珈琲である。自ら進んで田舎に来たんだから、これで我慢して貰う。またもやセルフサービスだ。よし、下準備と打ち合わせ完了。
なお、護衛たちについては、水と電気(二百ボルト)以外の面倒は一切見ないと言ってある。あのキャンピングカーには、IHコンロの付いたキッチンまであるそうだから、大丈夫だろう。ゴミは持ち帰る約束だ。
用心棒たちが、夜に火を焚く許可を求めていると、帰ってきたランドグレンから言われた。バーベキューをやりたいそうだ。フィールドにダメージを与えないよう、焚き火台を使うならと言ったら、用意してきたという返事だった。初めからキャンプ気分かよ!
後で熊肉でも差し入れして、その時に火の後始末には気を付けるよう念押ししておこう。山火事なんて起こされるのは、ご免だからな。
小休止の後、試合再開だ。またランドグレンのターン。
『そちらの条件を提示するのは、今夜お仲間を紹介した後ということか?』
『そうだな、試験的に素材を出荷することは可能だと思う。こちらが提示する製品の中から、トライデントに選んで貰い、定期的に購入したいなら、量や頻度は要相談ということになる』
『どの位の量と頻度なんだ? それはつまり、そちらには既に工業生産可能な施設の準備ができているということになるが……』
ランドグレンの顔が、やや紅潮し、声が大きくなった。常に冷静なこの男にしては珍しいことだ。もし、ある程度でも稼働可能な生産体制がこちらにあるとしたら、設備投資に必要な資本金とバーターでこの技術の利権を独占的に支配するというトライデントの思惑が崩れる。
小さな規模であってもすでに継続的に販売できる製品が存在する場合、こちらはそれを売った利益を再投資することで、生産規模を拡大していくことができるからだ。
『まあ、その辺は、夕食の後に改めて話すと思う』
『ん、その男も一緒に食事するわけではないのか?』
『俺のパートナーは、ちょっと変わった、シャイな奴なんだよ。初対面の相手と食事するのは、無理みたいなんだ』
『どういう人間なんだ?』と、ランドグレン。
『まず、歳をくってる。俺より二十歳以上歳上だ』
『意外だな、もっと若い人間だと思っていた。名の知れた人物ではないんだろう?』
『そちらの情報網に引っかからなかったことからも分かるだろうが、無名の研究者だ。二十七歳で博士号を取り、三十四歳まで、いわゆるポスト・ドクターをやっていた』
『何でそんな男が……?』
その質問にはいろんな意味が含まれているのは分かっていたが、無論その全部に答えることはできない。
『不器用な男なんだ。元々性格には難がある。研究室に入って二年目、よせばいいのに、籍を置いていた教授の研究プロジェクトが迷走していると、仲間や後輩に指摘したんだ』
『結果を考えずに喋ったということか?』
『ああ。当然それが伝わって教授やその取り巻きに嫌われ、瑣末な業務ばかり押しつけられることになった。雇用元の本来のプロジェクトと無関係の仕事を大量に割り当てられて、自分の研究に当てる時間も無くなった。で、何年もずっとそれでは研究実績も積み上がらない。当然焦りが生まれ、無理をするようになる。挙げ句の果てに、寝不足状態で自分の研究課題の実験をしている最中、爆発事故が起きて、研究室ばかりでなく大学からも追い出された。それが三十四歳の時だそうだ』
事故が起きるまで契約を切られなかったのは、本当に迷走していたプロジェクトの内情を外部に知られないよう、飼い殺しにされていたのだろう。事故で彼の信用が失墜したので、首を切られたのだ。事故も本当に彼の責任なのか疑わしい、そう説明した。
『気の毒だとは思うが、馬鹿だな』と、突き放した顔でランドグレンが言う。
『ああ、さっきも言ったろう。問題を抱えている男なんだ。ただ、その事故のせいで、どこの大学にも、研究施設にも、受け容れては貰えなくなった』
『まあ、才能のある人物の中には、そんな奴も珍しくない』
何人か心当たりがあるといった表情で、ソファに腰を下ろしたランドグレンが肩をすくめた。似たような経歴をたどり、才能があっても世に出なかったというケースは、合衆国にもあるんだろう。研究者たちだって人間の集まりだ。
『それで元々人間関係を築くのが上手い奴じゃあ無いんだが……』
『まだ何かあるのか?』
『爆発事故で大怪我をして、右手と顔の表情筋の一部が不自由だ。額にも大きな火傷の跡がある』
『おお』
ランドグレンの側で聞いていた智音が、痛ましそうに身をすくめ、口に手を当てて声を押し殺した。あんまり聞いて気分の良い話じゃあない。
『人嫌い、と言うか、対人関係に臆病になっても不思議はないと思わないか?』
『うーん、それは……理解できるよ』
『ラボの運営や研究の推進には、今後も彼の力が必要だ。ただし、難しい人物だということは承知しておいてくれ』
『分かった。それで、彼の名前は何と言うんだ?』
『亀甲、亀甲呑舟、ドクター亀甲だ』