◆52◆
夕刻、スポットでハイヤーを呼び、北品川の御殿山に向かった。ここにあるビルの一階に、北海道出身のオーナー・シェフが開くフレンチの店があり、その奥にある個室を予約してあった。
鈴佳は黒いプラダの膝丈パーティ・ドレスにパールのアクセで、俺はネイビーのジャケットにカーキのチノパンだ。小僧とか言われたそうなので、嫌みにレジメンタル柄のタイでもしてやろうかと思ったが、考え直して白・灰・濃紺の細いストライプの物にした。
三十分前に着いて、時間になったら個室に珈琲を用意してくれるようにたのむ。食前酒は話し合いの後だ。
鈴佳は午前中にコーネリンに脅かされたせいで、心配顔である。それで「あの時の目をそらさせたタイミングは良かった。今晩もたのむ」と誉めておく。ちょっと照れた表情になった。
トート・バッグに放り込んだのは超小型の盗聴器だと、鈴佳には言ってあった。ほぼ事実だし、マイクロ・マシンのことは教えてないからね。
「橘優奈ガ、男ト一緒ニ店ノ外ニイマス。ますたーヲほてるカラ尾行シテキマシタ」
どん亀がスマホを鳴らして知らせてきた。車に乗っている間に教えてくれれば、まいてやったのに。
「一緒の男って誰だ?」
「九〇ぱーせんと以上ノ確率デ、橘光一、優奈ノ夫デス。……確認シマシタ。Kりけん株式会社販売部部長、橘光一、三十五歳、身長一八〇せんち……」
「いや、あいつのことだったら知ってる。直接の上司じゃあないが、会社の上役だったからな」
「誰?」
側にいる鈴佳が、スマホで話している俺の顔をのぞき込む。
「ホテルから橘夫婦に尾けられたらしい。店の外にいるそうだ」
「電話は君嶋さん?」
「いや、別の知り合いだ。ガードについて貰っている」
「お友達?」
「警備関係の人間だよ」
「そう、お知り合いが多いのね」
鈴佳のやつ、随分上品な物言いだ。これもマナー・コーチングの賜物か? もっとも友達のほぼいない俺の胸には、グサリと突き刺さった。どうせもう、全部どん亀だよ。
この店のディナーは完全予約制だから、優奈夫婦が突撃して来ることは無い。できるのはせいぜい、俺が会う相手を確認するぐらいだ。コーネリンなら日本人じゃないし、多分ぱっと見で見当がつく。もしかしたら顔写真ぐらい手に入れているかも知れない。
まさかトライデント相手に茶々を入れるほどの馬鹿ではないだろう。いやそうかな? 内情を知っている人間から見ると、二年前もかなり無茶をやっている。それで成功して出世した訳だからな……。
光一は三十五歳、優奈は三十一歳、まだ若いのに分不相応な地位に就いて、自分たちは選ばれた『できる』人間だと思っているだろう。
だが、俺が元務めていたKリケンなんて会社、トライデントと比べたら羽虫のようなもんだ。五月蠅く付きまとえば、片手で叩き潰されてお終いだ。
定刻十分前に、ランドグレンとコーネリンが店に入ってきた。橘光一が話しかけようと一歩を踏み出したが、ランドグレンは一顧だにせず前を通り過ぎる。蹈鞴を踏んだ光一をチラリと見たコーネリンも、その直ぐ後に続いて店に入った。
店内にまだ他の客はいない。開け放った個室の扉を通して一部始終を見ていた俺は、トライデントの二人を出迎えに席を立つ。店の入り口では、橘夫婦が予約がない入店を断られていた。一見さんなのに予約無しで入れる訳がない。そこまで軽い店じゃあないんだよ!
『ランドグレンさんとお見受けします。初めまして、私が岡田英次です』
ランドグレンが手を差し出してくる。グレーのジャケットにネイビーのスラックス、細い縞目の入ったシャツに紺無地のタイを締めている。それにしても、デカい!
俺より三十センチ近く身長が高い上に、やけにゴツい革靴を履いていた。体重だって一一〇キロはあると言うから、俺の二倍まではいかないにしろ、近い感じだ。手の大きさだって違う。握力もさぞ凄いんだろう。
握り潰されそうになったら素早く引っ込めようと用心していたが、ランドグレンの握手は意外と繊細だった。これは、探りを入れてきているのか? 用心深い野獣だ。
『ルドルフ・ランドグレンだ。ハンスと呼んでくれ』
少し前屈みになったランドグレンの瞳が、濃茶のスエード・シューズを履いた俺の足先から短く刈った頭の天辺まで、一瞬で走査する。ためらいの無い、レーザー光みたいな視線だな。
『では、私の方は英次と。こちらは私のアシスタントの鈴佳です。ああ、コーネリンさんには午前中にお目にかかっていますね』
『ジェニファーでお願いするわ』
『ああ、そうでした。では、こちらへ』
個室の扉を閉め、席に着く。直ぐに珈琲が来る。三十分ほど邪魔が入らないようにしてくれとたのんだ。
『さて、ハンス、COOのあなたがこの席にいると言うことは、トライデントはこの話にかなり乗り気だと解釈して良いのでしょうね』
『この話というのは、どの話なのか説明してくれ、英次』
『あなたの会社に送ったサンプルの中身の、今後の研究開発への投資団に参加しないかという話ですよ』
『研究開発が必要なのかね? もう十分完成しているように見えたが! 君たちの現時点でのリードを覆すなど、世界中の誰にもできそうもないように思える。今のままでも、製品化すれば巨万の富を得ることになるだろう』
なるほど! 自分たちが築いた帝国の足元を切り崩されかねないと判断して、あわてて動いたのか。トライデントの経営陣は、さすがに慧眼だ。予測される未来に、何があり得るか常に考えているわけだ。
『では、私たちを潰しますか?』
『まさか! 勝てないと分かったら、敵対しない。それが基本ルールだ。君たちもそれを理解して、話を持ち掛けて来たんだろう。条件を聞かせてくれ』
コーネリンが驚きに目を見開いている。まるで全面降伏のような物言いだと、受け取っているんだろう。ランドグレンは表面上、名を捨てて実を取る姿勢で話している。彼我の間には、象と蟻くらいの格差があるはずなのに、跪くのが象の方では驚愕して当然だ。
少なくとも俺の背後に控えているのが何者か、探りを入れてから態度を決めるのが理性的な態度である。自分の上役が発狂したのではないかとコーネリンが疑っても、不思議ではない。
だが、まだまだだ。外見と実質で主従が逆転しているケースなど、ビジネスの世界では珍しくない。トライデントほどの巨体を持つ企業であればなおさらである。この謙虚過ぎる判断が何によるものか知らねばならない。
『ハンス、あなたは従軍経験がありますね?』
『ああ、スウェーデン海軍の水陸両用部隊でね。ボスニア・ヘルツェゴビナだよ』
『SFOR(和平維持軍)ですか?』
『いやIFOR(和平実施軍)だが、戦闘には参加してない』
嘘だな。こいつは間違いなく近接戦闘で人を殺したことがある。それも銃剣の届く至近距離でだ。こいつの判断力は、命のやり取りの場で、生き残るために培ったものだ。単に経営上の危機感を抱いているという以上の、何かを警戒している。
……と、そこまで考えて、ふと気がついた。何で俺、そんなことが分かるんだろう?