◆41◆
「あら、たいして待ったわけじゃありません。こちらは二年前までうちに務めていた岡田です。今、ここで出会ったんです」
おいおい、優奈、俺はもう身内じゃないんだけど、呼び捨てかよ。
「ほお、ほお、わしは安西って言うてな、関西の方で『あんざい新素研』ちゅうのを経営しとります」
「ああ、伝導性ナノチューブ・ポリマー・コンポジット・マテリアルの!」
安西と名乗った男は、「よくご存じですなぁ」と満更でも無い顔だ。うん、ちょっと理由があって、最近どん亀から聞いた。
あんざい新素材研究所の所長安西匠は関西の旧帝大卒で、物理畑から素材開発屋になり、経営者としても有能という評判を取っている業界の有名人だった。
何にでも手を出して多くの成功を収め、そのコツを尋ねられると「数撃ちゃ当たるでんがなぁ」と豪快に笑い飛ばして煙に巻く、ちょっと奇矯な面もある人物だ。
元ラガーマンで筋肉質、恰幅が良い。そのせいで背中が丸く、年齢より歳を食っているように見える。実際は四十を過ぎたばかりのはずだが、五十代に見える貫禄があった。角張ってゴツゴツした印象を受ける頭部は髪が濃く、日焼けした顔は脂ぎって、全体にエネルギッシュだ。
「田舎に引っ込んだくせに、詳しいのね」
優奈が不審げに俺を見る。
「英次さん投資家なんですよ」
鈴佳、俺を擁護するつもりだろうが、この女に余計な情報をやるな!
「ほお、どんな方面に関心を持ってるんですかいな?」
「来週、トライデント・マテリアルの人に会うんです」
あ、こら! 優奈が喰いつきそうな眼をしたじゃないか!
「あー、あそこは合衆国で宇宙ステーションとか衛星関係の素材をやっとりますなぁ」
安西の方も興味をひかれたようだ。
「ちょっとした知り合いですよ」
「あなたにステイツに繋がるツテなんてあったかしら?」
ちょっと嫌みったらしく優奈が言う。
「今はネットで世界中に繋がっているんでね」
俺は鈴佳の腕を掴み、「じゃあ、これで失礼します。これから食事でしょう」と、別れを告げた。
「あれぇ、あたし余計なこと喋った?」
ちょっと鈍い鈴佳も、俺が急いで二人と引き離したことに気付いたようだ。
「まあ、今回は仕方ないが、相手の素性を知らない時はできるだけ情報を渡さないことだ。ビジネスでは、相手に掴まれる情報は少ない方が良いし、渡す情報もコントロールしないとな」
俺がそう注意すると、鈴佳は「ごめんなさい」と、直ぐ謝った。どん亀による『教育』は、順調に進んでいるようである。
その日も鈴佳はエステに行って、俺は髪をカットして貰った。エステ終了後ホテルに帰ると、紹介された店から派遣されてきた女性が化粧品をトランクに入れて持参し、鈴佳に合ったメイクを教えてくれる。選んだ商品をどっさり置いていったが、週明けの午前中には又来て、メイクをしてくれるそうだ。
状況や場面に合ったメイクなんて、鈴佳に直ぐできるようになるわけないからね。
君嶋からは、俺が追加で依頼したアイテムが届いた。鈴佳と俺の平服だ。しかし、平服って平服なのか? 筋目の付いたスーツにネクタイが普段着の奴って、日常でどんな生活送ってるんだ? どう考えてもセレブ、と言うより『お貴族様』だよな。
略礼服って言うのが、一番近いのか?
さすがプロというか、君嶋の選んだ服は、既製品なのにサイズ的な違和感が無かった。鈴佳の追加分も合わせて、これでまた予算的には百万だ。いい商売してるなぁ君嶋クン。
いや真珠屋の百万は別口だ。君嶋の売り上げは三百万、コーディネーター料金は先にカードで払い込んでる。バック・マージンがいくらになるかだよなぁ……と、益体も無いことを考えていると、晩飯の頃合いになった。
ホテルのコンシェルジュに予約して貰った近くの一つ星レストランに、鈴佳を連れて行く。予行演習の意味もある。ただしテーブルマナーなんかは、鈴佳の卒業した女子校で、三年次に指導を受けたそうだ。社会に出るための予備知識というか訓練ね。
鈴佳は今日届いた白い生地にドレッシーな花柄のワンピース。アクセは真珠のペンダントと腕時計だけだ。髪やネイルはシンプルな範囲に、メイクも抑え気味にして、若くても上品を目指している。
俺はカジュアルに崩して、タイはしなかった。ネイビーに大きめの白っぽい格子柄が入ったジャケット、白いドレスシャツの首元のボタンを外し、下はベージュのチノパンだ。わざとらしくタンニンでオレンジに染めた革ベルトをアクセントにする。
二人とも実は自分で選んだコーデじゃない。鏡を見ると、まあ似合っているんじゃないかと思う。さすが君嶋だね。
それでレストランに入り、席に着こうとすると、また会ってしまった。
「あら?」
優奈と安西だ。優奈、おめえ、既婚者じゃないのか?
優奈は俺の、灰色スエードの紐靴から頭の先まで、ずっと視線を動かし、顔をしかめる。まあ、朝の格好との落差が大きいか。俺がドレスアップしちゃあ、悪いかよ。
「おう、また会いましたな!」
安西は嬉しそうに笑ってみせるが、こっちの方がくせ者だな。きっちり紺と茶のタイをして、濃緑のブレザーを着ている。優奈の方はブラウン・シルクのドレスに金のアクセだ。お前ら、どういう関係だ? 不倫なのか、え? 不倫カップルか?
「橘が急に本社に呼ばれて、私が代理でお相手してるのよ」
優奈が弁解がましく言った。おい鈴佳、思っても言っちゃあ駄目なこと、午前中にも釘刺したよな。そんなに眼をキラキラさせて! 言うなよ、言うなよ、言っちゃ駄目だからな。
「もしかして、……ふ」
「鈴佳!」
「あっ」てな顔になった。仕方ない。深入りを避け気付かぬふりをするつもりだった。こうなれば俺が話し掛けて、鈴佳の失敗をカバーするしかない。
「それでお二人で?」
「東京は地元じゃないのでな。関西に来られたら、改めてご夫婦を接待させて貰いますがな。はっはっは」
「東京へはビジネスですか?」
「はっはっは、そりゃあ二十四時間いつでもビジネスでんがな。プライベートなんて、あらしません。岡田さんもそうだっしゃろ」
「いや、俺は田舎者のフリーターですよ」
「またまたまた、フリーターが彼女連れでフレンチですか。随分優雅ですな」
「それを言われたら安西さんだって」
「いやいや、あくまで仕事、ビジネスの一部です。それにしても、岡田さん、あんた優奈はんから聞いたのとは、大分違いますな」
優奈の奴、安西に何を喋ったんだ?
「金銭的な収入のことは分かりませんが、優奈はんから聞いた所では、もっと大人しいというか、覇気の無い方のようでしたが……今実際に話してみると……うーん、臆するところがありませんな」
まあ確かに、野生の熊に比べれば、安西の迫力なんて、気にもならないな。