◆40◆
ホテルのレストランで朝食を摂り、出ようとしたら、とんでもない相手に出会ってしまった。
篠田優奈、俺の元上司だよ。
「あら、もしかして岡田君じゃない?」
「篠田係長……いや、篠田さん、ご無沙汰してます」
「今年の人事で課長になったわ。それに結婚したから姓も変わってるの。今は橘よ」
「橘って、もしかして……」
「ええ、あの人も部長になりました」
ふーん、橘次長も出世したのか。それにしても、やっぱり二人はできてたんだな。
「職場結婚して、同じ会社に残っていることをあれこれ言う人もいるけど、部署も系統違いだし、私は気にしないわ」
そうは言っても、いろいろ忖度する人間も出てくるだろうし、良くも悪くも簡単ではないはずだ。橘というのは、次長時代あの自社株買取りで前線指揮官を務めた男だ。優奈より四・五歳年上のはずである。
俺が会社にいた当時、直ぐ上の主任だった優奈は、そこから係長・課長と二年間で二階級昇進したわけだ。おまけに上役と結婚では、周りからあれこれ言われていないはずがない。
それでもこうやってしれっとしていられる所は、この女の強さであり、鈍感(?)な所でもある。普段から気丈な女と評判のこいつに、二人っきりの場所で涙を流して相談を受けた俺は、あの時ころっと騙されてしまった。
馬鹿な俺は義憤に駆られ、その嘘情報を出先で思わずリークしてしまう。
業績の悪化を隠蔽するため経営陣が粉飾決算を行っているというその話を、間接的に掴んだ投資家たちが空売りを仕掛けた。値崩れした自社株を買い支えるという仕事の、陣頭指揮を務めた現在の太田専務の手足として働いたのが橘だった。
当時は自社を守り切る困難な事業を、上司共々よくやり遂げたと英雄扱いだった。でも今考えてみると、資金の手当とか根回しとか、事前にお膳立ては終わっていたんだよね。
間違ってフェイク情報を流してしまった俺だが、諸般の事情から表立っての責任を追及されることはなかった。平社員が出先で自社内の悪い『噂』について思わず漏らしてしまうなんてことは、珍しくもないからね。
株主総会で騒ごうとした奴らも十分裏を取らず、逆に誘導されたんじゃないかと思う。
蓋を開けてみると、太田専務の属していた派閥の頭である現在の社長が、絶対多数の株主の委任状を取りまとめていた。その株主たちも、自社株買いの結果一株当たりの利益や資産価値が上がって、持ち株の価値が上がる訳だからね。
しかも噂は噂に過ぎず業績堅調となれば、株を売って損をした投資家やなんか以外は誰も問題にしたいなんて考えない。
ただ損をした奴らは恨むね。噂の出所を探り、元凶の俺を対象にネットでの匿名の誹謗中傷、無言電話に、業務上の難癖などが続いた。勿論誰からも援護は無い。疲れ果てた俺は、依願退職した。
俺は生け贄の羊だったんだと思う。追求が会社上部に遡って行かないように、俺の所で堰き止めるためだ。だから、あえて会社は俺の首を斬ることは無く、叱責さえ無かった。
「で、今は何してるの?」
俺はジークロのチノパンをはいて、白のカットソーに紺のカーディガンという服装だ。そいつをぶしつけに眺め、見下した口調だ。
「まあ、いろいろですね」
「そう」
「あー、なんですが、俺もあのまま辞めないでいれば、出世できましたかね?」
薄ら笑いを浮かべ、俺は尋ねた。
「ふっ、無理でしょ」
あーこれは完全に俺を馬鹿にしてる。俺を踏みつけにしたことも気にしていない。
「そうか。まあ良かったですよ、辞めて」
「へー」
まあ、負け惜しみだと思ってるよね。俺がしっぺ返しをできるような男じゃないと、見切っているつもりなんだ。まあ、俺も無駄なことはしないけど。
「あれ? 誰? その女?」
遅れてレストランから出てきた鈴佳が、優奈を睨みながら俺を突いてそう言う。こいつも、ジークロのジーンズにTシャツというチープな服装だ。
優奈は優奈で、鈴佳をじろじろ値踏みする。
「可愛いお嬢さんね。お付き合いしてるの? そう、良かったわね」
照れた顔の鈴佳を観察して、返事を待たずに優奈がそう言った。どうせ若いだけが取り柄でしょうって、馬鹿にされてるんだぞ鈴佳。気付けよ!
「あら、それ、良い時計ね」
優奈は目ざとく鈴佳が腕にしている時計を見て、そう言った。確かに、総額一万にも達しない服装で五十万の腕時計なんて、かなりの一点豪華主義だしな。
「昨日買って貰ったの。軽くて、綺麗でしょ」
あー。高いとは言ってあるが、具体的な値段は鈴佳知らないんだ。
「ふーん。この娘に、ぞっこんなのね」
「どこのキャバクラで拾ってきたの?」って顔だな。
「ああ、今は田舎に住んでる。東京に来たのはたまたまさ。それで、えーと、橘さんは?」
「ちょっと、仕事でね」
優奈がそう言った時、新たな人物が乱入してきた。
「あー、優奈はん、遅れてごめんなぁ。で、誰でっか、その男?」




