◆32◆
俺は数日前、『身体を用いた戦闘機能を強化するトレーニング・アプリ』なるものを、どん亀からダウンロードした。
解凍してインストールした。
何も変わった気はしない。ちょっと身体を動かしてみても、別に強くなった様子は感じられない。
ただ、少しの間落ち着きが無くなって、無性に身体のあちこちを動かしてみたくなった。仕方ないので少し走り回ってみたり、斧で玉切りした丸太を割ってみたりした。
多分あれは、現時点での俺の身体の、最適化と言うやつだったのだろう。
だがそれより、精神面の変化の方が大きかったことに気付かされる。
現に俺はさっき、百キロ超の熊の巨体が殺意を持って俺に向かって突進してくるという、命の危機に晒されても狼狽えることが無かった。
昨日の危険なカーチェイスや、その前の男二人との対決にも、平気で対処していた。俺がこんな生まれついての戦闘民族みたいな性格であったはずは、絶対ない。
自覚はほとんど無いが、こうしている間も刻々と、俺は『強化』させられているのかもしれない。どん亀に尋ねれば多分、「備エアレバ、患イ無シ」と言うだろう。
いったい俺は何に対して、準備させられているのだろう?
どん亀はトラクタービームで熊の後ろ足を上に、切断した首の方を下に、空中で宙づりにした。切断して頭部が落ちた時にも、盛大に血が噴き出していたが、まだまだ流れ出て大きな血だまりができる。
それから山陰の、谷川の少し深くなっている所まで運んで、水に浸けた。深いと言っても三十センチも無いので、最初は半分も沈まなかったが、やがて熊の身体が堰き止めたせいで上流側の水深が増える。そして流れる水が熊を乗り越え、その身体全体(と言っても、首無しだが)を濡らすようになった。
これで熊の首の切り口から出る血が流され、同時に全体を冷却することができる。血液の大部分は、俺があいつの首を落とした場所の地面に流れ、染みこんでいる。後で消石灰を撒き、どん亀にたのんで土を被せておいて貰おう。
谷川に流れた血は、渓流の水に混じって、最後は農業用水路に流れ込む。でもその頃には、血の色も分からなくなっているだろう。寄生虫の心配とかあるから、この辺で農業用水を飲む人間はいない。
日が暮れたら、熊の身体は地下壕に運び込み、解体し、肉類は冷凍するそうだ。それまではボット・スズメバチが見張りをする。
「可食部分ノ重量ハ四十きろ程度ト見積モラレマス。皮ハドウシマスカ? 加工シテ、ぼっと・べあノ外装ニ使イマショウカ?」
「いや、熊ボットなんて、使い勝手が悪いだろう!」
家に帰ると二時間以上たっていて、腹を空かせた鈴佳がむくれ顔で待っていた。
俺は昨日買ってきた生ハムとレタスと胡瓜のサラダ、マヨネーズで和えた刻んだ茹で玉子、温めたコーンスープ(紙パックで売ってるやつだ)、厚く切ってトーストしたバゲット、自家製のトマトジュースを出す。
「こんな時間まで何してたの?」
がっついた様子で食べ物を口に押し込みながら鈴佳が聞いた。
「犬の散歩だよ。出かける時言ったろう。それより掃除は終わったのか?」
「終わったに決まってるでしょう。それより、どこまで行ったの?」
バゲットの上に刻んだ茹で玉子を山盛り載せ、かぶり付いたせいで頬に黄色い黄身が着いている。よっぽど空腹だったのだろう。
「おい、ほっぺた! 玉子が付いてるぞ」
「えっ?」
あーあ、手の甲で拭った。まだガキだなぁ。
朝食の後で点検すると、鈴佳の掃除は手抜きだらけだった。
「お前、何をどう掃除したんだ?」
「何って、あたしの部屋に掃除機かけたんだけどぉ」
「あとは?」
「あとはって、他に何するのよ?」
「俺は家の掃除をしろって言ったよな。家って、お前の部屋だけか?」
「えーっ、何であたしが台所とかの掃除をしなきゃならないのよ!」
「台所だけじゃない! 玄関も、廊下も、リビングと応接間も、和室も、洗面所も、風呂場も、ダイニングも、裏玄関も、客間も、それから俺の部屋、いや俺の部屋はいい、あそこには触らせたくない物もあるからな。とにかく、俺の部屋以外の全部だ! あと、家の周りも掃除な」
「何でよ! だいたい、この家って無駄に広いの! 要らない部屋が沢山あるし、廊下なんかも必要ないでしょ! あんたの言う所、全部掃除したら、あたし死んじゃうわ!」
俺は思わず笑い出しそうになった。掃除したら死ぬって、どんな病気だよ!
「あたし掃除婦じゃないわ! 何でそんなことしなきゃならないのよ!」
うーん、まあ普通に甘やかされた娘、いや娘って言う歳じゃないか。甘い考えの女だ。俺に言わせれば勘違いも甚だしいが、本人は自分が何にもしなくても誰かが自分を養ってくれるのが当然と考え、自分の部屋を掃除しただけで俺に褒めて貰えると思っているようだ。
こいつが何もしなくても養ってくれるような誰かがいたとしても、それは俺じゃない。そういう人間を求めているというなら、こいつに自分で探しに行かせることにしよう。
「掃除婦ってのは、指示された内容と場所の掃除をやり遂げて、その仕事の対価を受け取る女性のことだ。確かにお前は掃除婦じゃないな」
「だったら!」
「いやいや、お前は掃除婦じゃあない。それどころか、何者でもないな」
「どーいう意味?」と、ぶんむくれる鈴佳。
「お前はここ何日か、俺に喰わせて貰っているし、寝床を提供して貰ってるし、いろいろ買っても貰っている。それに対してお前は俺に、何を返している?」
「買ってくれたって、あれは別にあたしがたのんだ物じゃないし! 選ばせてもくれなかったじゃない!」
「あれはお前が働けるように選んだ物だ。自分の好きな物が欲しければ自分の金で買えばいい。だが、働く気が無ければあれは必要なかったな。元の新品を買って俺に返すか、その分の代金を返せ」
「だからそれは、あんたが勝手に買った物でしょう。だいたい、女の下着なんて何に使うの! 変態!」
「お前の使用済みの下着など、よこされても困る。いくら洗濯してもダメだからな。だいたい、ここでは洗剤も水も俺の物だ。あれはお前が俺に指示された仕事を、言われた通りやるという条件で買い与えた物だ。その前提をお前から拒否するなら、返して当然だろう」
「そんな無理なこと言われても!」
「何が無理なんだ! ここに来た時着ていた服や何かがあるだろう。あれに着替えて、さっさと出て行け! 言っとくけど、買った服代や今までの食費、この家に泊まった宿泊費なんかは、きっちり請求させて貰うからな!」
「無理よ! さっき洗濯したばかりなんだから。全部まだ洗濯機の中よ!」
この女、俺の洗濯機を勝手に使って、持ってきた服を全部洗濯しているところか!
本当に、全裸で、追い出してやろうか!
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