36.未来
新蔵の残したメッセージを聞いた後、海斗と有紗は屋敷の庭先に来ていた。新蔵の最後を知った彼らは複雑な心境だった。それを物語るように、ここに来るまでの間、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
「……あー……オイ」
重苦しい空気を何とか打破しようと、海斗は口を開いた。彼の呼びかけに、有紗はゆっくりと振り向く。
「まあ、その、なんだ。……元気出せ」
彼の言葉は不器用極まりなかった。
「……何それ? ……変なの」
それが滑稽だったのか、有紗は表情を緩ませ、笑顔になった。
「……変かな?」
その様子に少しばかりの安堵と憤りを感じる海斗。
そんな彼を余所に、有紗は広い庭を見ながら話を始めた。
「……あなたの言った通りだったわね……」
「……? 何が?」
彼女の言葉の出所に思い至らない。こういう時、彼の頭の巡りは致命的なまでに鈍くなってしまう。
「……みんな、何かしらの弱さを持っているって……。お父様も、宇佐美さんも、静香ちゃんだって……」
監禁されていた時に言ったことだと、海斗は気付いた。
「近くにいたはずなのに、私は何も気づけなかった。……この五年間、自分の事ばかりで、関わった人たちの事を、何も考えていなかったのかもしれない……」
彼女は目を瞑って、そう言った。おそらくは責任を感じているのだろう。
「……それは、しょうがないだろ。むしろ、良くやった方だ」
宇佐美があのような状態になったのは有紗のせいではない。海斗はそう伝えたかった。
「そうかしら? 苦しい時、宇佐美さんにはたくさん助けてもらったわ。……あの人だって辛かったはずなのに。罪悪感なんてないって言っていたけれど、そんなの……自分をずっと責めていただけだわ」
有紗は矢継ぎ早に話を続ける。彼女は今にも泣きだしそうである。
「……それで、お前は何が言いたいんだ?」
「……分からない……」
下を向いて俯いてしまう。そんな有紗を海斗はじっと見続ける。彼は息を大きく吐き出し、意を決したように話し出した。
「あの事件は、関わった人の人生を大きく変えた。お前に、宇佐美や静香も。お前の親父や、研究所で働いていた奴らも。……そして、俺もそうだ」
襲撃事件はあらゆる人々に影響を及ぼしただろう。何人もの人が死に、苦しみ、思い描いていた未来を台無しにされてしまったことだろう。しかし一方で、それを越えて流れたこの五年間、新しく何かを得られた人もいる。
「不幸な目に遭ったやつだっているし、幸福になったやつもいる。悪い巡り合わせもあっただろうし、良い巡り合わせもあったはずだ」
人生とはそういうものの連続である。見る者によって、その姿は変わる。見る視点によって、価値も変わる。観測されることで、初めて意味を持つ。
「まあ結局、どう受け止めるかはお前次第ってことだろ」
海斗はあっさりと言ってのける。乱暴な意見であるが、それは事実だ。
有紗は目を丸くする。そして、納得できていないような様子だった。
「……まるで答えになってない」
「当たり前だ。自分で結論を見つけないでどうする?」
ふんぞり返って偉そうな物言いになる。その仕草は、かつて少女が想っていた竜崎海斗そのものの様だった。
「……そうね……そうかも……」
有紗は再び目を閉じて、考え込む。
しばらくの間、沈黙が二人の間を支配した。その後、有紗は真剣な表情で海斗の方へと向き直った。
「……海斗。ちなみに、あなたはどうなの?」
「俺?」
唐突な質問をぶつける。彼女が何を考えているのか、何を求めているのか。海斗は何となく察していた。
「あなたが一番、自分の生き方を狂わされたんだから」
クローン人間として生まれたこと。犀崎海斗という人間の誕生は、今回の事件が発端だった。
「……」
どう返す方が良いのだろうか。海斗はあれやこれやと考えるが、結局頭に自然と浮かんできた言葉を述べることにした。
「俺の人生は何も狂わされてないぞ」
「え?」
有紗は彼の返答に驚きを隠せない。
「少し迷っただけだ。クローンである自分を受け入れることに」
自分が竜崎海斗のクローンであると知った時、彼は大いに逡巡した。この先どうすればいいのか。何もない空間に、突然放り出されたような気持ちになった。
そして、自分の歩むべき道を決定したのである。
「俺は、竜崎海斗のクローンとして生きていく――名前は犀崎海斗」
それが結論。シンプルな答えだった。
「以上」
有紗は呆気にとられたように、その場に立ち尽くす。
「……それで終わり!? あなた、クローンって、……自分は竜崎海斗じゃないって、そう言ってたじゃない!?」
「だからクローンだって言ってるじゃん。オリジナルではない、それが俺だよ」
「でも、記憶だって……」
「記憶も価値観もおそらく同じ、見た目も同じ、ただそれだけ。それは変えようがない事実だ。悲観することなんてない――ただの現実」
クローンであることは変えようのない事実。本人と酷似した違う人間。海斗はそれを受け入れていた。
「……辛くないの?」
海斗の言葉を聞いて、尚も納得できない様子の有紗。
「悩むことはあるだろうな。……お前の傍で生きていくと決めた以上、俺は竜崎海斗の幻影と戦うことになる――死ぬまでずっと」
海斗の心に棲みついた、見えない影。形のない敵。オリジナルの存在が、彼をずっと苦悩へと導くだろう。
「それは仕方がない。お前が俺を認識するとき、否応なく竜崎海斗が出てくるだろう。お前だけじゃない。宇佐美も、後輩の良太や亜紀も。……きっと俺を見て、竜崎海斗を思い出すはずだ」
「……私は……」
有紗は複雑な表情を浮かべる。
「悪い、別に嫌味で言ってるわけじゃない。でも俺に同情なんてするなよ。これは俺が決めて、俺が立ち向かうべき課題なんだ」
冷静に話しているつもりが、彼の手は汗ばんでいた。言葉を切って、それからまた口を開く。
「きっと俺たち二人は、これから色々と拗れていくだろうな。周りのやつらだって、俺との関係性は変わっていく。そして、俺自身も変わっていく」
犀崎海斗である以上、有紗との付き合い方は竜崎海斗と同じようには行かない。亜紀や良太とも、過ごす中で付き合い方も変わるだろう。
でもそれは当たり前の事だ。
「シュレディンガーの猫ってあるだろ? 観測するまで箱の中の猫がどうなっているか分からない。観測されて初めて、猫の状態が決まるってやつ」
「……それがどうしたの?」
有紗は困惑したような顔つきになった。それを見て笑顔を浮かべる海斗。
「要は俺という人間は、周りの人間によって決まるんだよ。俺を見る人間が変われば、俺もまた変わる。それが本質だと思う」
誰かが居ないと自分は存在できない。関わる人が変われば、自分もまた違う自分になっていく。友人は自分を映し出す鏡だと言うが、その通りなのかもしれない。
「どうだ答えになったか?」
自信満満に有紗の方を確認する。見ると彼女は面白い、拍子抜けしたような表情になっていた。
「よくそんなあっさりと、……結論を出せるわね」
「あっさりじゃないぞ。これでも、俺なりに悩んだ結果だ」
馬鹿にするような目つきの有紗に、文句を言うかのように反論する。気づけば二人とも優しい笑みを浮かべていた。
「……何が、あなたをそんなに強くするの?」
有紗は両手を挙げて、降参のポーズをとる。
「分からないのか?」
「……ええ」
真面目に答えることも出来るが、それはしたくない。面と向かって話すのはさすがに恥ずかしかった。特に有紗には。
「ふーん、まあ頑張って答えを見つけるんだな」
海斗はそっけない返事で対応した。
「……何よ、それ! 教えてくれてもいいじゃない!」
頬を膨らませて憤慨する有紗。その仕草の一つ一つが、可愛らしかった。
「やだよ。自分で探せ」
顔を背けて、だんまりを決め込む。
昼下がりの晴れ晴れとした日の下、透き通っている日差しは二人を照らす。嘆きも後悔もその内に秘めて、彼らはこれからを生きていく。明るい光は、その行く先を祝福しているかのようだった。