32.思慕
静香の力により、特大の竜巻がフロア全体を支配していた。壁を破壊し、鉄柱を捻じ曲げ、地面を抉り抜く――その様子は怪物のようであった。狭い建物の中にそれは収まらず、外部にまで影響が及んでいる。
「はあああああっ!」
絶叫を上げる静香。
後のことなど何も考えていない。自分の身がどうなろうと関係などない。すべては宇佐美のために行われている。
少女の人生を変えたのは宇佐美春雄だ。
実験のために生み出された彼女にとって、嘘をつかれることなど日常茶飯事だった。
いつもいつも、ガラス張りの部屋の中には辛い記憶しかなかった。
泣き叫んでも誰も助けてくれない。
大人たちが彼女に掛ける言葉はいつも決まっていた。
『この実験が終わったら、外の世界に出してやる』
それが嘘だと気づくのに、大して時間は掛からなかった。
彼女は不幸なことに、それを理解できるほどの理性と知性を持っていたのである。
どう足掻いても自分に待っているのは絶望だけ。
死ぬことは許されない。
暗いトンネルを一人で、休むこともなく走り続けなければならない。
――涙はとっくに枯れていた。
竜巻はそのうねりを収束させながら、海斗へと集中する。その奔流は静香の手となり足となり、獲物をこの世から消滅させようとしていた。
静香の脳はブレーキを喪失した暴走列車のようだった。
(私が――勝つ!)
その男は、ある日彼女の前に何の前触れもなく現れた。
見た目は陰気で、何を考えているか分からない。実際、その男は碌に口を開こうとしなかった。
だが、意味のない言葉を吐かれるよりかはマシだった。
初めの印象はその程度のモノだった。
フロア内が軋みを上げ、コンクリートに埋め込まれた鉄筋が悲鳴を上げる。
同様に、彼女の体内でもすでに異常が起きていた。限界を超えた能力の行使が、幼い少女の体を内から破壊し始めていた。
『この実験が上手く行ったら、外へ連れて行って』
その男が来てから、苦痛を伴うような実験がなくなった。
やっていることは変わらなかったのに、それは何故か。
どうやら男は相当に優秀な研究者だったようだ。
痛みがなくなったのは嬉しかったが、男との実験は退屈な物だった。
暇つぶしに声を掛け、言ったのがその言葉だった。
『分かった』
返答はシンプルだった。
少女は全く持って信用していなかった。
というよりは、何も感じていなかった。
唯一思ったことは、そんな声をしていたのかという、ちょっとした発見だった。
両目からは涙ではなく血が流れていた。内臓が血液の流動に耐えきれずに、機能を停止しつつあるのが分かった。
視界はすでにおぼろげだった。
実験が終わった後、少女は男に引っ張られていた。
男が何をしたいのかまるで分らなかった。
途中、制止に入った男たちを殴り飛ばしたのは些か驚きだった。
だが、男が見せた光景はそんなものとは比べ物にならなかった。
――赤い、大きな丸。
外の世界を初めて目にした彼女には、それの名前は分からなかった。
もしかしたら、視界が滲んで良く見えなかったからかもしれない。
その日を境に、斬島静香は人間になった。
体中が重く、すでに感覚はなくなっていた。買ってもらった服は竜巻の余波で、ボロボロになっており、鮮やかな色合いは見る影もない。静香は大事であったはずの贈り物に視線を落とす。
半開きになった眼で、自分の衣服を眺める。
そしてそれを見て尚、渾身の力を籠め続けた。
(――こんなものが大事なわけじゃない!)
宇佐美春雄からもらったもの――それはこんな服でも、外の世界でもなんでもない。
自分――斬島静香という存在。
彼女が得たのはただそれのみ。
故に宇佐美春雄の前に立ちはだかる者は、誰であろうと排除する。
それこそが、彼女の本質。
「――ッ!」
声にならない悲鳴を上げながら、全力の行使を続ける。海斗が居たはずの場所に、何重にも巨大な竜巻が駆け巡る。標的の息の根はとっくに消えたはずだ。
しかし、一心不乱に静香は怪物の手綱を離そうとしなかった。
一抹の不安がどうしても拭いきれなかったのである。
敵はとっくの昔に打倒したはず――であるのにも関わらず。
(……?)
突如、静香の支配した空間に異常が感知された。それは異物を感じ取ったなどではなく、もっと根本的な問題だった。
「う!? ……あ!?」
支配下に置いたはずの空間がなくなっていく。原因が分からない。何かに自分の領域が奪われていく。
その感覚は、まるで自分の存在を喰われているかのようだった。
「――ッ!? な、何がっ!?」
理解が出来ない。抗えない。自分の手足が、存在が、侵食されていく。
静香が起こした竜巻は少しずつ霧散し、目の前の白い世界が開けていく。
「――現実の世界で、お前に支配できない物はないが――」
倒したはずの、敵対者の声が静香の耳に届いた。
いつの間にか地面に倒れていた体を必死に起こし、彼女はその声の方になんとか視線を向けることが出来た。
まだ機能していた右目を開き、その姿を目に焼き付けようとする。
「――ここは、もう俺の世界だ」
ノイズまみれの視界には強固な存在が映っていた。
「……う……」
体の感覚はもう完全になくなっており、自分がちゃんと生きているかも分からない。
(……ま……だ……)
動かないはずの体を執念だけで駆動させる。
一刻も早く宇佐美の元に戻らなければならないと、自分に鞭を打つ。
「……あ」
そこで彼女は意外な物を見た。
薄れゆく意識の中微かに見えた、宇佐美の穏やかな表情。
その視線が何に向けられているか、彼女には分からなかった。
だが彼女はそれを見た後、瞼を閉じた。
(……良かった)
得体のしれない安堵に包まれる。
――その瞳が、たとえ、自分を見ていなかったとしても。