提灯 :約3000文字 :ホラー :昔
むかしむかし、酒好きの与作という男がいた。とんだ甲斐性なしで、『貯え』という言葉を知らない。金が入ればその日のうちに酒に替え、翌朝には懐も記憶もすっからかん――そんな日々を飽きもせず繰り返している、どうしようもない男だった。
おっとっと、おっととと……。
ふらふらよたよた。この夜も例に漏れず、飲み屋の帰り道。薄雲のかかった月の下で、与作はおぼつかない足取りで歩いていた。
「おいっと……いけねえなあ。へへへ……」
つまずいて転びそうになるのもこれで何度目か。与作は一人、照れくさそうに笑い、頭をぼりぼりと掻いた。
飲みすぎちゃいましたなあ。わかっちゃいるんだけどねえ、と調子よくへらへらと笑った――そのときだった。
前方の家の陰に、ぼんやりと橙色の光が浮かんでいるのが見えた。
なんだろうと思い、ふらりと近づいてみた。すると、家々の影が折り重なる狭い路地の奥、地面の上にぽつんと提灯が落ちていた。
「こりゃあ、いいや」
与作はにやりと笑い、しゃがんで提灯を拾い上げた。
誰かが落としたのだろう。ちょうどいい。これがあれば足元もよく見えるし、転ぶ心配もなくなるというものだ。
与作はふふんと鼻を鳴らし、上機嫌で歩き出した。
しかし、数歩進んだときだった。
「そりゃあ、わしの提灯だよ」
「うおっ」
背後からぬっと声が湧き、与作は思わず飛び上がった。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の老人だった。薄汚れた着物をまとい、背は低く、腰は弓なりに曲がっている。提灯の灯りに照らされた顔には深い皺が刻まれ、目だけがやけに大きく、ぎらぎらと光っていた。
「お、おお、そうかい……いや、ほんとにじいさんのもんか? 名前でも書いてあんのかい?」
与作は一度提灯を差し出しかけたが、すぐに引っ込めた。驚かされた腹立ちと酔いの勢いが混じった、つまらぬ意地である。
すると、老人は口元を歪め、にたりと笑った。
「名前ねえ……ひひひ……」
梅雨時の湿った空気のようなじっとりとした笑い声だった。その耳障りの悪さに与作は思わず顔をしかめた。
「も、文句ねえなら、もう行くぞ」
「ああ、ちょいと」
「なんだよ……」
踵を返しかけた足を与作はしぶしぶ止めた。
「そっちへ行くのかい? なら、一緒に行ってもいいかね。ほら、暗いし足元も悪いからねえ」
「ちっ、好きにしろよ」
与作は吐き捨てるように言い、再び歩き出した。老人はその斜め後ろに、影のようにぴたりとついてくる。足音はほとんど聞こえず、本当についてきているのか、と一度ちらりと振り返った。着物の端が見えたので与作は前を向き直し、小さくため息をついた。
妙な老人に絡まれたものだが、いい拾い物をしたことに変わりはない。灯りのおかげで道に転がる石もくぼみもよく見える。
与作の頬は自然と緩み、老人のことなどすぐに忘れ、鼻歌でも口ずさみそうになった――と、そのときだった。
「その提灯、消しちゃいかんよ」
背後から老人がぼそりと呟いた。
「あ? 言われなくても――」
「消したら、あんたの命も消えちまうからねえ」
「は……?」
与作は足を止め、振り返った。老人は喉の奥でひひひと笑った。直後、ひゅうと風が吹き抜け、乾いた落ち葉と笑い声を夜道に散らした。
与作はぶるりと身を震わせたが、すぐに無理やり口角を引き上げた。
「へ、へへ……どっかで聞いた話だなあ。そんなもんでびびるかよ」
与作は前を向き直して、再び歩き始めた。
「そうかい? でも、気をつけなよ……」
「ははは、くどいねえ。なんで提灯の灯りが消えたらおれが死ぬってんだよ」
「そりゃあ……あんたの提灯だからさ。ほら、横に名前が書いてあるだろう」
「名前……?」
与作は首を傾け、提灯を横から覗き込んだ。その瞬間、息を呑んだ。そこには細く黒い墨で滴るようにこう書かれていたのだ。
――『与作』。
「こ、こいつは……で、でも、さっき、あんたのだって……」
震える声で言いながら、与作はぎこちなく振り返った。
「そうだよ。あんたのでもあり、わしのでもあるのさ。わしは……」
老人はゆっくり首を傾げ、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
「死神だからねえ」
ひひひと喉の奥で転がすような笑い声が与作の耳の内側を撫でていった。
背筋に冷たいものが走り、与作は弾かれたように前を向き直した。逃げ出そうと足を踏み出す。しかし、酒の残りと恐怖で足が思うように動かず、もつれて前のめりになった。転びかけて、慌てて両腕を広げ、どうにか体勢を立て直した。
「おっとっと、気をつけなきゃいかんよ。うちまではまだまだあるんだからねえ」
「う、うちって……か、帰ったらどうなるんだい……?」
声は掠れ、喉の奥で引っかかるようだった。
「無事に帰れたら、その提灯はわしが大事に預かるよ。消さずに帰れたらの話だけどねえ」
老人は愉快そうに肩を揺らし、またひひひと笑った。与作はごくりと唾を呑み込み、提灯の柄を強く握りしめた。だが、いくら力を込めても震えは止まらない。冷たいものが足先からじわじわと這い上がり、血の気を奪っていくかのようだった。
与作は拳で膝を叩き、どうにか足を動かしてゆっくりと歩き出した。
「ほらほら、そこにくぼみがあるよ」
「わ、わかってる……」
「おっと、蛙だ。踏んづけたら滑って転んじまうかもねえ」
「わかってるって……」
「おやおや、そんなに濡らして。拭かなくて大丈夫かい。目に入ったら前が――」
「わかってる!」
与作はたまらず怒鳴り、着物の袖で額を乱暴に拭った。じっとりと染み込み、袖が黒く沈んだ。その重みに引っ張られるように提灯はじりじりと下がっていく。寒気が背中まで這い上がり、腕へと広がっていった。指先がぶるぶる震え、灯りが笑うように揺れた。
与作は鼻から荒く息を吐き、肩を上下させて歩き続けた。
その背後から、老人の声が絶え間なく続いた。
「大丈夫かい」「危ないねえ」「ふらついてるよ」「風が出てきたねえ」――。
与作は「わかってる……わかってる……」と小さく繰り返しながら進み続けた。恐怖で体は芯から冷え切っているのに、酔いは抜けきらないのか頭はぐらぐらと揺れている。このときばかりは、与作は酒というものを心底恨めしく思った。
どれほど歩いたか。
やがて闇の向こうに見慣れた家の形がぼんやりと浮かび上がった。与作の顔にかすかな安堵が広がった。
「あ、あれだ……」
与作はよろめきながら駆け出した。戸口にたどり着くと、ガラリと勢いよく戸を開け、草履も脱がぬまま土間を踏み越え、家の中へ飛び込んだ。
「は……ははは……帰った。帰ったぞ!」
提灯を握りしめたまま、与作は子供のようにはしゃいだ。灯りが大きく揺れ、壁や天井に歪んだ影が踊る。
胸の奥からようやく安堵の息が漏れた。しかし――。
「ひっ! あ、あんた……!」
足元で布団がばさりと跳ね上がり、女房が身を起こした。その目は見開かれ、唇はわなわなと震えている。
与作は満面の笑みを浮かべたまま見下ろした。
「おう! 帰ったぞ――」
「し、死んだはずじゃ……! あ、あの人に切られたんだろう……?」
「あの人……? あの人ってえ、だれ、だれ、あれ、あれれ……?」
与作は首を傾げた。その瞬間、視界がぐらりと揺れた。頭が右へ左へ、前へ後ろへと小刻みに揺れる。頭のてっぺんから、どろりと生ぬるいものが流れ落ちてきた。
「へへへ……なんだこりゃ……」
与作は間の抜けた笑い声を漏らしながら、それを手のひらで拭った。提灯の灯りに照らされたそれは、ぬらりと赤黒く光っていた。
女房は悲鳴を上げ、半狂乱になって叫び散らした。「あんたが悪い」「このままだと遺産を食いつぶすから」「出ていけ」「あんたのいる場所じゃない」――その叫びには恐怖と間男に与作を斬らせた後ろめたさがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「おっとっと……おっととと……」
よたよたふらふら。
女房に歩み寄る与作。伸ばした手が肩に触れ、そのまま体が崩れるように覆いかぶさった――その瞬間。
ぐしゃり。
提灯が潰れ、灯りがぷつりと消えた。
――消えちまったねえ。
闇の中、女房の甲高い悲鳴に混じって、あの湿った笑い声がまとわりつくように響いていた。




