澄真と狐丸
ずいぶん長い時間が経ったころ、狐丸はようやく目を覚ました。
「タマ……喉が、渇いた……」
狐丸は、小さく呟くように言う。
いつの間に、夜が明けたのだろう。
温かな日差しが、部屋の障子を照らしている。
いや、むしろ日は傾き始めている。狐丸はその事実に驚いて、身を起こそうとした。
けれど起きられない。
「……」
ひどく体力を消耗し、どうしようもない。
部屋の外に見える楓の木が、長い影を落としていた。
緑色の芽が沢山芽吹いていて、春の訪れを知らせている。
飴色に輝き出した太陽は、とろりと溶けて、今にも崩れてしまいそうだった。
少し冷たい風が、部屋へと流れて来て、気持ちがいい。
狐丸は、そっと目を閉じて、風の流れを感じる。
(僕は今、一人なのだろうか……?)
体が酷くだるい。
喉が乾いているけれど、狐丸は自力で動けそうになかった。
「……タマ?」
腕を伸ばして再びその名を呼ぶ。
けれど、どんなに呼んでも、あのコロコロと鈴のなるような、可愛らしい返事は聞こえてこない。
あぁタマは、近くには、いないかも知れない……狐丸は、そんな風に思いながら、少し諦めている。
(仕方ない。もう一度眠ろう……)
伸ばした腕をパタリと落として、再びウトウトと、微睡み始める。
「……!」
しかし、どこからか大きな手が伸び、軽々と誰かの腕に抱き止められて、狐丸は目を見開く。
「……え?」
見ると目の前に、澄真の心配したような目が覗き込んできた。
「……ひっ」
さっと青くなる。
一瞬、恐怖で息が詰まった。
(あ、しまった。僕……)
布団からはみ出す、自分の大きなしっぽに焦る。
(に、逃げなくちゃ……っ)
慌てて澄真の腕を振りほどき、逃げようとするが、簡単には逃れる事が出来ない。
もがけばもがく程、抱き寄せられた。
「い、……嫌だ……っ」
「……っ! こら。逃げるな! 喉が渇いているのだろう? ほら。水はここだ。飲めるか? ……暴れると溢れるぞ」
言われて、再び澄真を見上げる。灰色を帯びた目が、優しく笑っている。
「……」
喉は乾いている……。
狐丸は耳を伏せ、下を向いた。
「……飲む」
こくりと頷いて、澄真の持っている水の入った湯呑みに手を添える。
手がフルフルと震えていて、自分で持つことが出来ない。
特に、左手が痛んだ。
──ごくん。
一口飲む。
冷たくて美味しい。
水分を摂ると、少し元気が出たように感じた。右手の震えが止まったので、澄真から湯呑みを受け取る。
狐丸は自分で身を起こし、今度は左腕を持ち上げる。
「……っ」
痛みに顔をしかめたが、動かないことはない。
少し震えるが、湯呑みに左手を添えて、狐丸は水を飲んだ
──ごくごくごく……。
湯呑みを両手で持って、ごくごくと喉を鳴らしながら飲んでいると、澄真が少し安心したように、溜め息をついた。
静かに狐丸を自分の方へ、抱き寄せると、狐丸に気づかれないように、そっとその髪へ顔を埋める。
(……間に合って良かった)
狐丸の左腕には、少し跡が残るかもしれないが、腐り落ちる危険からは脱することが出来た。
狐丸自身の回復力にも、ずいぶん助けられた。
傷口を保護し目隠しすることも兼ねて、捕縛紐は新しい物を既に巻き直している。
新しい捕縛紐を見ながら、澄真は小さく微笑む。
危害は加えないが、最初の捕縛紐よりも力を込めた。
狐丸は、あの光る玉を出した白狐だ。成長して捕縛符を解除しないとも限らない。ありったけの力を注ぎ込んだ。
下手な者には、解除不可能だ。
(この力を、ありがたく思う日が来るとは……)
微笑みながら、狐丸を抱き締める。
澄真の吐息が、狐丸の耳に掛かった。くすぐったくて、狐丸はパタパタと耳を動かす。
「く、……くすぐったい。息、耳に掛かってる……っ」
言いながら、身を捩る。
逃れようと、動いていると、澄真は狐丸から湯呑みを受けとり、横へ置く。
──「お前は……四条河原の白狐か……?」
「!」
射抜くように正面から覗き込まれ、狐丸はごくりと息を呑む。
(バレてる……!)
「……」
どう答えようかと、黙っていると、澄真の方から目をそらし、狐丸の頭を自分の胸に押し付け、抱き寄せた。
目を細めながら、狐丸の頭に唇を寄せる。
「……いや、いい。言わなくても分かってる。あの白狐も子どもの声だった。それにお前もあの白狐も金の目を持っていた。あのような目は、見たことがない。手の呪符も、私が投げたものだったし……」
言って、狐丸の左腕を見る。
捕縛紐で、一応は繋ぎ止めている。けれど……。
軽く溜め息をついて、澄真は話を続けた。
「よかったら……私の『式鬼』なって欲しいんだ」
囁くように、澄真は言った。敦康の命ではあったが、自分の願いでもある。
思わず声が震えた。
「『式鬼』……?」
しかし、狐丸には式鬼が、何なのかが分からない。
(ううん。……確か前に瑠璃姫さまが話していた。……なんて言ってたっけ……)
一生懸命思い出しながら、こてっと、小首を傾げる。
そんな狐丸の姿を見ながら、澄真はギュっと眉間にシワを寄せると、更に強く狐丸を抱き寄せた。
「い、痛い。痛いってば……」
ジタバタともがき、逃げようとするが、びくとも動かない。バシバシとしっぽを振る。
澄真は、そのしっぽを見つつ、小さく呟く。
「……本当に、しっぽがついてる……可愛い」
その呟きに狐丸は、顔を赤くする。
「な、なに言って、……は、離して! 離して……っ」
狐丸は唸る。
しかし澄真は、暴れる狐丸を逃したくない。
「……嫌だ。式鬼になるって言ったら、離してやる」
言いながら、腕に力を入れていく。
「ず、ずるい。式鬼なんて知らない。そんなのには、ならない……っ」
理不尽な取引に、狐丸は必死に抗いを見せる。
「……」
《応》と言わない狐丸の言葉に澄真が、ムッとする。
狐丸の方はというと、下の方にズレながら、逃げる作戦に出る。
が、失敗する。
うーん、うーんと唸りながら、澄真にしがみつく形になる。
狐丸が下の方にずり落ちたので、澄真はヒョイと抱き抱え、自分の膝の上に乗せ直した。
「な、何? 離して!」
「離さない。……私の式鬼になるのは嫌か?」
言って、狐丸の目を見つめる。
皇子の命があるからには、澄真も必死である。切実な瞳に見つめられて、狐丸は目を泳がせる。
「うぐ……」
そもそも、式鬼が何なのか分からない。教えて貰ったかもしれないが、嫌な感じしか受けない。
分からないものに、なれと言われても、返答に困る。狐丸は自分の置かれている状況に、戸惑った。
つい先日、命を狙われた相手に、お願い事をされているのだ。どう答えればいいかも、わからない。
もしかしたら、騙されているのかもしれない。そんな思いが、狐丸の頭をよぎる。
「……」
答えが返ってこないので、澄真は軽く息を吐く。
焦ってもしょうがない。
(捕縛紐があるうちは、焦らなくてもいい……)
そう思っていると、ふと狐丸の体調が気になった。
少しキツそうだ。
「……まだ、顔が赤い」
狐丸の額に、自分の唇をあて、熱をみる。
「……ずいぶん引いたが、まだ熱があるぞ」
どうしたものかと、狐丸の顔をのぞく。
「……ん?」
顔を赤くして、困り果てながらモジモジしている狐丸の様子を見て、何を思ったのか澄真はニヤリと笑う。
笑うと、おもむろにペロッとおでこを嘗めた。ゾワッと狐丸は、ひと震えすると、叫び出す。
「ひやあぁぁあぁぁ!」
予想した通りの反応に、澄真は口許に手をあて、くすりと笑った。
「あぁ、あぁあぁ……。おでこ、おでこを舐められたぁ……っ」
半泣きになりながら、おでこをさする。
「何を言う。お前も舐めたではないか……」
澄真は笑って言うが、狐丸は覚えがない。
「あの時は、さすがに喰われるかと思った……」
含み笑いを浮かばせながら、澄真が狐丸を抱き寄せた。耳元の匂いを嗅ぎながら、甘く囁く。
「お前は良い匂いがする。……私よりお前の方が美味そうだ……」
言って、狐丸の耳朶を噛んだ。
「ひゃあ! ま、待って待って! 美味しくない! 僕は美味しくないぃ……っ!」
ジタバタと必死の抵抗をみせる。
けれど澄真には、それが面白くて仕方がない。
(いっそ、喰ってしまおうか……)
そんな事を思いながら、狐丸を押し倒す。
首元に唇を寄せると、ひぅっと息を飲む音が聞こえた。
「美味しいか美味しくないか、食べてみれば分かるだろ……」
言いながら、その喉を舐め上げた。
「はっ……あ、……あぁ……っ、」
狐丸に、切ない声を上げられて、澄真は少しその気になる。
喉元を舐め上げ、口づけながら、時折ついばむ。
(……喉仏がまだない)
ぼんやりとそう認識しながら、口づけた。
(そもそも、妖怪に喉仏など現れるのだろうか……?)
疑問に思いながら、狐丸の喉笛付近に、歯を立てた。
途端、狐丸がビクンと跳ねる。
「いや……っ! 嫌、……澄真っ、嫌だあ!!」
激しく抗われ、澄真は、ハッと我に返る。
「あ、……すまない」
青くなりながら謝罪する。
(しまった……やり過ぎた)
後悔してももう遅い。
腕の中で、狐丸はフルフルと震え、怯えたように耳を伏せていた。
「……」
(いや、しかし……これはこれで……)
訳の分からないことを考えながら、狐丸の身を起こす。
「悪かった。悪ふざけが過ぎた……」
言いながらその顔を覗き込む。
「……」
フルフルと震える白いまつ毛に、金色の丸い目が潤んでいる。
外の夕焼けと同じ、蕩けた飴のような瞳に、澄真は堪らず唇を寄せた。
「……っ! 全然、反省してないじゃないかぁ!」
腕を振り上げられて、澄真は笑う。
「ごめん。……ついだよ。つい」
袖で口許を隠し、澄真はくくくと笑いを堪える。
当分、狐丸をおちょくるのも楽しいかもしれない。そんな風に、澄真は思っていた。
× × × つづく× × ×




