瑠璃姫さま
瑠璃姫と呼ばれる大きな黒狐は、急に騒がしくなった周りの状況に、いくぶん顔をしかめながら、面倒臭そうに片目を開ける。
その名の通り、美しい瑠璃色の瞳を持っていた。
漆黒のその毛並みから見える、深い瑠璃色の瞳が、酷く印象に残る。
瑠璃姫さまは、くあぁ~っとアクビを一つする。
『何だ、タマではないか。……よくここに来れたな……?』
よく通る低い声で、瑠璃姫さまは言いながら、周りを見廻した。そこで初めて、瑠璃姫さまは弦月和尚さまの存在に気づく。
『ああ、弦月も一緒か。珍しいことだ。……ん?』
言って、目を丸くする。
『キツネの妖怪……まさか雄なのか? これは珍しいな』
にやりと笑い、こっちに来いと、僕に手招きをする。
吸い込まれそうなその瑠璃色の双眸が、僕を捉えて離さない。
呼ばれて僕は、おずおずと瑠璃姫さまに近づいた。
『ふふふ。お前は、吾の狐火を喰うたのか……?』
愉快そうに、喉を鳴らす。
僕は申し訳なくって、くぅんと鼻を鳴らし耳を垂れた。
『……ごめんなさい』
項垂れた僕を、瑠璃姫は優しく見下ろす。
『喰うて、なんともないのか?』
首をかしげ尋ねられて、僕は困ってしまう。
だって見れば分かるだろ? 光ってんだもん……。
『……体が光って、困っています』
『違いない……』
言って、瑠璃姫さまは、くくくと喉を鳴らした。
ゆっくり鼻面を、僕の方へ向ける。
『いやいや、そうではない。本来ならば、吾の狐火を食うて、無事であるはずはないのだがな……? 体はどうもないのか?』
『?』
言われている意味が分からず僕は首を傾げる。
すると瑠璃姫さまは、『さてはお前は、ただの狐の妖怪ではないな』……と、言いながら、僕をペロリと舐めた。
『うひゃあ!』
僕は、くすぐったくて、身を捩る。
その様子を見て、瑠璃姫さまは笑い、嬉しそうだ。
『静かにしていろ、ソレは吾が舐め取ってやるゆえ……』
言いながら、前足で僕を押さえつけ、ペロペロと舐め始めた。
黙ってろと言われても、くすぐったくて、かなわない。
僕は目に涙を溜めて、笑い転げた。
『あはははははは……っ! わははははは……』
逃げようにも、体の上には瑠璃姫さまの大きな前足が乗っかっていて、正直、息をするのも大変だ。
『あ、あぁ、……瑠璃、姫さま……。ひ、ひぃ〜。く、苦し。苦しい……』
僕は呻く。
『しょうがないであろ。お前が喰うからいかんのだ』
瑠璃姫さまに容赦はない。
しばらく舐められて、僕は笑い疲れ、ぐったりとなった。
も、もうダメ……。それに腕……瑠璃姫さまの腕が、めちゃくちゃ重たいです……。僕は唸る。
『お? おぉ、そうであったな。すまぬ。すまぬ。……けれどこれで、いくらか落ち着いたであろう……?』
言って、その腕をどけてくれた。
一気に体が軽くなる。
『はい……でも、もう笑い疲れました……』
一通り舐められ、体は光らなくなったけれど、笑いすぎて力が出ない。
『……もう、ダメ……』
ぐったりと長くなる僕を、瑠璃姫さまは小さく笑いながら横目で見る。けれどすぐに真面目な顔で、弦月和尚さまに向き直った。
『このキツネは、どうしたのだ? また、吾のように封じる気なのか……?』
少し怒気を押さえるかのように、震えた声でそう尋ねた。
《封じる……?》
僕の耳がピクピクと反応する。
和尚さまは、そんな瑠璃姫さまを見て、小さく溜め息をつくと静かに口を開いた。
「……封じるつもりなどありはせん。儂にはもう、そんな力は無い。そんな気力もない……苦労を掛けるのは、お前一匹で十分であろう……?」
言って、九尾をふり仰ぐ。
「儂の最大の罪は、お主を封じたこと。……例え、騙されていたとしても、この罪は消えぬ……。いや、……神が許したとしても、この儂自身が、生涯己を許さぬ……」
そう言って、苦しそうに眉を寄せた。
「あの時もっと、お主の話を聞くべきだったのだ……」
『……和尚さま……?』
何かあったのだろうか? 《封じる》……など、穏やかな話ではない。けれど二人の仲は、そうギスギスしたものでもなかった。
瑠璃姫さまは、和尚さまを詰っているようにも見えるけど、労わっているようにも見えた。
過去を後悔するかのように、和尚さまは苦しげな表情を浮かべて、その姿を見て、瑠璃姫さまは優しく笑う。
『何を今更……。人と言うものは、話を聞かぬものだ。そこが面白くもある』
優しくそう言って、和尚さまを見下ろした。
「……」
弦月和尚さまは、……けれど黙り込む。
瑠璃姫さまは、はぁ……と溜め息をつく。
『お前の。……人の人生など、瞬き程度しかないではないか。吾をここに留めてはおるが、それはほんの一瞬の出来事でしかない……。気に病むな』
言って、和尚さまに、ふっ……と息を吹き掛けた。
パラパラと粉雪が舞う。
瑠璃姫さまの妖力で出来た、キラキラ光る粉雪。
瑠璃姫さまは機嫌がいいと、よくこの粉雪を降らせるのだと、後からタマが教えてくれた。
『うわぁ。綺麗……』
粉雪はとても綺麗で、僕は思わず溜め息を漏らす。
「!」
目が見えない弦月和尚さまにも、この粉雪が分かったようで、ハッとしたように顔を上げた。見えなくも、触れさえすれば、その粉雪を感じることが出来る。
懐かしむように和尚さまは微笑んで、その粉雪を愉しんだ。
粉雪は和尚さまの手に触れると、ふわりと消えた。
「……」
和尚さまは溜め息を吐く。
「昔はそなたの作るこの粉雪が大好きで、《出してくれ》とよく強請ったものだな……」
若かりし頃の自分を思い出したのか、和尚さまはそう言って、少し微笑んだ。
『お前が気にすることなど、何もなかったのだ』
ポツリと瑠璃姫さまが呟く。
和尚さまのその微笑みを、優しく見護った。
『だから、もう……何も、気にするな……』
瑠璃姫さまは再び、前足に頭を乗せる。
そして、言葉を続ける。
『……しかしな、弦月。このキツネはまだ子どもだ。狐火を喰うて、無事であったからには、いずれ吾のように九尾になるやも知れぬ。が、まだ幼い。今、吾のように封じれば、死んでしまうぞ……?』
「……」
言われて弦月和尚さまは、真顔で黙り込んでしまう。
でもちょっと待って!
今のって、ものすごく大切な話だよね!? 僕は飛び上がる。静かに寝てる場合じゃない……!
『ねぇ! それって僕も、……僕も九尾になれるの……!?』
ピョンと飛び起きて尋ねた。
ついさっきまで、九尾は女の子限定のなのではと、心配していたところだ。それに瑠璃姫さまは、言ったじゃないか《雄の妖狐は珍しい》って。だから僕は、半分諦めてた。
雄じゃ九尾になれないんだろうなって。
だけど、だけど今、瑠璃姫さまはなんて言った? 自分のように、九尾になるかもって……!!
瑠璃姫さまのその言葉に、僕には希望が見えた気がした。
『!』
僕のその言葉に瑠璃姫さまは、深い青色の目を細めた。
『おや? お前は九尾になりたいのか?』
『うん! だって瑠璃姫さまは、とてもキレイだもの!』
パタパタと白い尾を振る。
『そうか、そうか。それならば、吾が九尾になる方法を教えてやろう』
瑠璃姫さまは、優しく微笑む。
『本当!?』
僕は素直に喜んだ。
「……」
けれどそれを聞いて、弦月和尚さまもタマも、渋い顔をした。
『瑠璃姫さま……よろしいのかニャん? こいつ、多分意味、全然分かってニャいニャん』
呆れた声で、タマが言った。
瑠璃姫さまは、横目でそんなタマを見る。
『吾の狐火を食ったのだ。どのみち、こやつは九尾になってしまうだろう。なにも分からぬままでなるより、己が何者であるか自覚してなる方が、いくぶんマシであろうからな……』
瑠璃姫さまの諦めにも似たその言葉の響きに、誰からともなく、悲しげな溜め息が漏れた。
ん? ちょっとどういう事? 僕が九尾になると、何か困るの……? 僕は思わずムッとする。
だけど僕はこの時、知らなかったんだ。
《九尾》ってのには、秘密がある。
世間一般には、悪評を響かせ、基本祓う対象になるのが九尾なんだって。
瑠璃姫さまも、そうした悪評に振り廻されて、封じられた妖怪なんだって。
んー。でもおかしいよね? 間違えって分かったのなら、封印を解けばいいのに……。
そう和尚さまに言ったんだけれど、和尚さまは悲しげに微笑むだけで、一言って言ったっきり、黙り込んでしまった。
九尾になる……。
それは、瑠璃姫さまと同じ、封じられる道を歩むかも知れない……と言うことに他ならない。
この時まだ幼かった僕は、そんな事までは、まるで考えてはいなかった。ただ、本当の事を知るのは、これからずっとあとの事で、その時になって僕は初めて、瑠璃姫さまや、和尚さまの苦悩を知ったんだ。
この時周りにいる大人たちは、そんな僕の未来が薄々分かっていた。
けれどそれを伝えることが出来ない。僕が小さかったから。悲しませたくないって思ったんだと思う。
けれど僕は、この日瑠璃姫さまの狐火を飲み込んでしまった。
だから九尾になる確率はとても高い。
僕以外の三人は顔を見合わせ、深い溜め息をついていた。
薄暗く、凍るように寒い古寺の地下洞窟で、何も知らない僕だけが、ただただ嬉しくって、その場をはしゃぎながら跳ね廻っていた。
× × × つづく× × ×




