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ゆくへもしらぬ

 店のドアが開く音がする。合わせてカランとドアベルが鳴り、そうだろうなと思って顔を向けると、やはりそうだった。

 顔を動かしたことで、数時間前にセットした赤茶色の髪が少し崩れた。この人だけだから問題ない、とそのままにしておく。

「もう閉店してますよ、一吾(いつご)さん」

 カジュアルバー悠久遠(はくえ)のドアには、きちんと『CLOSED』のプレートをかけてある。だがそんなプレート一枚で、自由なこの人が遠慮をするわけがない。

「知ってる。まあいいだろ、俺と暁(あかつ)の幼馴染のよしみで」

「腐れ縁の間違いじゃないですか」

「腐っても鯛って言うよな」

 口も頭もよくまわる人だ、と暁はひそかにため息を落とす。閉店後の片づけを終える頃、そろそろ帰ろうかと考えると現れる。暁を引き留めるのは、いつでもこの人だ。

 同じ目線にある顔が楽しげに綻ぶ。少し厳しく睨んでみても、悪びれずに笑みを返されるだけだった。

 マスターである暁を無視して、一吾はカウンタースツールに腰かける。仕方がない、と一吾が勝手に置いていく紫芋焼酎のボトルに手を伸ばす。即座に一吾は「今日はいいや」と、ひらりと手を横に振った。その手のひらで薄茶色の髪をさっと直している。仕事中の三角巾で髪にくせがついたのだろう。これもいつものことだ。

「一吾さんが飲まないなんて、珍しいですね。風月は昨日も忙しかったんですか?」

「そう。次から次へとオーダーオーダーで、プリンターまわりっぱなし。仕掛けておいたもの全部出るし、今日の仕込みもしないといけないしで、全部終わったのはさっきだよ。うわ、五時前。疲れてるとか関係なく、飲んだらだめな時間だ」

 朱色の革バンドがついている、自身の腕時計に視線を落として一吾が眉をひそめた。つい暁は苦笑いを浮かべる。

「四時半閉店のうちが閉店してるんですから、こんな時間ですよ」

「古民家いじった居酒屋が連日満室満席なのは、世のなか珍しいもの好きが多いからだろうな。隙間風で厨房の火が落ちつかないってのに。今年の冬は絶対目張りしてやる」

「店舗がどんなものでも関係ないと思います。小さな火の揺れも気にする一吾さんが料理長だから、いろいろな人が食べにくるんですよ」

 思ったことをそのまま言葉にすると、嬉しそうに一吾は頬を緩めた。褒められた嬉しさを素直に顔に出すのが、この人らしい。謙遜するのは苦手な人だけれど、褒められるとぐんと上機嫌になる。

「ほんとに口がうまいっていうか、乗せるのがうまいっていうか。おまえ、相手を手のひらで転がすタイプだな」

「失礼なこと言わないでください」

 焼酎はいいとのことなので、冷蔵ケースから炭酸水のペットボトルを取り出す。グラスに注ごうとすると、止める声があった。

「そのままでいいよ。片づけ終わったんだろ」

「一吾さんがいいなら、僕もいいですけど」

 ペットボトルのキャップだけはずし、一吾の前へ置く。一吾は苦笑してペットボトルを取った。ぐっと傾けてひと息に半分飲み、はあああ、と大きく息を吐き出している。

「お疲れさまです。なにか食べますか?」

「だから、片づけ終わってるんだろ。今からいろいろやる必要ないって。相手は俺だし」

「まあ、そうですね」

「納得されるのもむかつくな」

 片眉をあげて睨まれた。おかしくて噴き出すと、一吾も同じように噴き出す。まさか、三十五歳になっても年上の幼馴染と笑いあっているとは思わなかった。そんなことを想像できるはずもない。

 二歳年上の一吾と暁の実家が真向かいで、幼い頃からよく遊んでいた。とにかく一吾といると楽しかった。ずっと同じ学校に行って、ずっと一緒にいようとふたりで笑っていたのを覚えている。

 だが、異変が起きた。

 なんでも話してくれた一吾が、なぜか中学の卒業式の日になっても、どこの高校に行くかを教えてくれない。受けると言っていた高校の名前を出しても、渋い顔をするばかりだった。

 不満や寂しさで拗ねていたら、一吾の両親が暁の家に引っ越しの挨拶に来たのだ。急な転勤とのことで、一吾が受けると言っていた高校には合格したが、入学を辞退したらしい。それからずっと一吾は不機嫌で、挨拶も行きたくないと部屋にこもっていることを一吾の母親が話していた。

 あまりに突然すぎて、なにを聞いたのかわからない状態のまま別れの日になってしまった。遠くなっていく車を見送りながら、一吾がどこの高校に行くかを教えてくれなかった理由をようやく理解し、数秒わずかに瞼を伏せた。車が見えなくなっても、ずっと視線を送り続けた記憶が残っている。

 もう二度と会えないと思っていた一吾は、暁にとって初恋の相手で、今も好きな人だ。

「ていうか、ここに来るたびに謎だよ。悠久遠って、ひねりすぎだろ」

「僕の性格を知ってて、それ言います?」

「くせありすぎ。せめて『悠久』か『久遠』にしろよ。なんでくっつけたんだ」

「ひとりは寂しいじゃないですか」

 苦笑とともに、勝手に本音が零れた。慌てて唇を結んでも、今さら遅い。こわごわと一吾へ視線を向けると、やはりぽかんとしていた。

 店の名前について話しているだけなのに、余計なことを言ってしまった。後悔と焦りで、背筋にじりじりとしたものを感じる。そんな暁の気持ちを吹き飛ばすように、一吾が笑った。

「可愛いところあるんだな。じゃあ『悠久久遠』でいいだろ。つなげるって発想がわかんねえよ。しかも『はくえ』って、初見で読めるやつ絶対いないし」

「素敵でしょう、お気に入りです」

 胸を張って見せた暁に、あきれ顔でも一吾が苦笑してくれた。暁が自慢をすると、昔から一吾はあきれながらでも受け入れてくれた。そのおおらかさが優しくて、時に暁の胸を苦しくさせる。

「暁がお気に入りなのはいいけどな。『ゆくえ』なら、なんとか読めるかもしれないのに」

「『ゆくへもしらぬ』ですか。新古今集もいいですね」

「うん?」

「……なんでもないです。気にしないでください」

 また余計なことを言った。深く突っ込まれたら、困るのは暁だ。カウンター越しだと、つい客と話すときのペースで会話をしてしまう。ゆえに、ときおりこういうミスをする。

 マスターとして客と交わす会話では、いろいろな切り口から話題を広げると、話が多方面に開く。だから、なんでもキーワードとして拾うくせがついてしまった。一吾に対しては、今後絶対に発動させないようにしなければいけない。意識して口にしたことではないから、暁自身への攻撃力も高かった。

(ゆくへもしらぬ……)

 ちらりと一吾を見ても、一吾はこちらを見ていない。もの悲しさで、そっと瞼を伏せた。恋の行方がわからないという和歌を記憶していることすら、知られたくない。

 実際に、暁の想いは行く末がわからない。どんなに年月が経っても、まったく先が見えないのだ。

 恋情に気がつかなくてもいいけれど、それならば優しく笑いかけないでほしい。一吾が笑うたび、「暁」と口にするたび、こうして暁の都合などかまわず店に来るたび、どうしようもなくせつなくなる。

 ――可愛いところあるんだな。

 想う相手にそんなことを言われてしまったら、暁は身動きが取れなくなる。喜べないのは、素直になれない性格のせいでない。自由気ままな一吾に、これ以上心を持っていかれたくないのだ。

「カジュアルバーか。まさか暁がバーのマスターになるとは思わなかった」

 一吾が突然話題を変えた。暁を気遣ったのではなく、自身が思いついたことを口にしただけだ。どこまでも自由で気まぐれな人に、救われるときもある。先ほどの話題を深掘りされたくないので、なんでもない顔で暁は応えた。

「それを言うなら、料理嫌いだった一吾さんが、和創作居酒屋の料理長をやってるほうが不思議ですよ」

 どっちもどっちだ。互いに苦笑して、一吾は炭酸水を飲み、暁は拭きあげたグラスを片づけていく。

「こんな偶然があるんだよな。風月の近くにバーがオープンするっていうから行ってみたら、マスターが暁だったって。なんの冗談だよ。いまだに不思議になる」

「不思議な気持ちは同感です。でも僕がマスターなのは冗談ではないですけどね。言っておきますが、僕の店じゃなかったら一吾さんは絶対出禁になってますよ」

「なんで?」

 きょとんとした顔を向けられ、あきれのため息とともに暁は視線でしめす。視線の先の小棚には、紫芋焼酎のボトルが鎮座ましましている。

「店のメニューにないお酒を『俺用』と、マスターの了解も得ずに勝手に置いていく人は、間違いなく出禁でしょう」

「そんなこと、暁にしかしない」

 とくんと胸が鳴り、慌てて表情を真顔で保つ。暁の目の先で、瞼を伏せた一吾は静かに微笑んだ。

(そういうところが、ひどいんです)

 暁にとって、この世の誰よりも非情で、この世の誰よりも優しい人。こんな気持ちになっていることに、気がついてもくれない。

 気がついてくれなくてもいい。だから心を揺らすようなことは、しないでほしい。静かに幼馴染の顔を作っていたいのに、一吾はそんな暁を崩す。

 穏やかに『幼馴染の暁』で、笑顔を浮かべた。

「じゃあ、責任持って今回もちゃんと空けてくださいね」

「そうだな。ボトルが空になったら、また置いてくよ」

「僕も出禁にしましょうか?」

 にこりと笑んで返すと、一吾がわざとらしく声をあげて笑った。

 暁は、そっと視線だけを焼酎のボトルへ向ける。この紫芋焼酎のボトルが、どれほど暁の心の鎖になっているか。非情な一吾は知らないし、気がつきもしない。

 気まぐれに来て、気まぐれに飲んで、気まぐれに帰っていく一吾。その気まぐれさで突然店に来なくなったら、暁はどうしたらいいのか。メニューにない一吾専用のお酒を勝手に置いていって、居場所だけを暁と悠久遠のなかに作られても困る。

「暁は昔から、自分の大事なものを守るよな」

「え?」

「この店だけじゃなくて、自分が大事だと思ったもの全部を守ってる」

 また突然なにかを思いついたのか、ふっと息をついた一吾が口を開いた。だが、なにを言われているかわからなくて首をひねる。そんな暁から、すうっと一吾は目を逸らした。視線は斜め下に落ち、どこか翳りを見せる。

「自分の大事なものに対して、他の人間にもそれなりの気持ちや行動を持ってほしいって顔をする。大事なものを軽く見られたくないって。言葉にはしたことないけど、見ててわかる」

「それは、誰でもそうでしょう」

 どこへ続く会話かわからず、慎重に返事をする。わずかに緊張した暁に、一吾は口もとを歪めて笑んだ。自嘲のような笑みに驚くのは当然だ。一吾のこんな顔は見たことがない。

「俺は自分が一番大事。守りたいのも自分」

「知ってますよ。一吾さんは、いつでも自分メインです」

 皮肉でも嫌味でもなく、事実を口にする。『一(いち)』に『吾(われ)』という名前のとおりの一吾は、いつでも中心地点が自身だ。そんな一吾を苦手に思って距離を置きたがる人も、もちろんいる。でも暁にはとても恰好よく見えたし、今も見える。

 自分の価値観をしっかりと持っていて、人の意見に左右されない。情にも流されない。自身がいいと思ったものを貫く。でもきちんとした理由があるうえで間違いや否をしめされたら、冷静に自身を見つめなおす柔軟さも併せ持っている。だが、基本は思ったとおりに動く人だ。

(だからこんな気持ちになるって、言っても伝わらないよな)

 店に来たときに、一吾は『俺と暁の幼馴染のよしみ』と言った。とても甘美な言葉で、ひどく残酷な関係だ。幼馴染の呪縛から抜け出せない――ずっと。一吾のなかで暁の立ち位置が『幼馴染』になっている以上、暁からなんらかのアクションを起こしても一吾の心は動かない。押して動いてくれる人ならば、とっくに告白している。

(『幼馴染以上になりたい』と言って、一吾さんに拒絶されて幼馴染ですらいられなくなったら、僕は立ちなおれないしな)

 一吾の考えと暁の臆病さで、勇気を出そうと思うこともできない。

 不自然に沈黙した暁に、珍しく一吾はなにも言ってこなかった。普段ならば文句やら不満やら、思いついたことを好き放題に言うのに。

 体調でも悪いのかと一吾を見ると、カウンターに両腕を置いて瞼を伏せていた。頬にまつ毛の影が落ち、気ままな性格と正反対の静けさを見せている。カツン、とスツールの足かけを蹴った音がした。小さい金属音が、妙に寂しげに聞こえる。

「一吾さん?」

「たまに……いや、よく、かな。暁の考え方が羨ましくなる」

「え?」

「大事なものは大事にしたいよな」

 なにを言いたいのかわからず、頭のなかが疑問符だらけになる。首をひねる暁を見て、一吾は苦笑して腕時計のバンドを撫でた。朱色の革バンドに嫉妬しそうになって、今度は暁がわずかに瞼を伏せた。

「腐れ縁だよなあと思ってさ」

 静けさを打ち破る明るい声に、暁も嫉妬心をかき消す。

「さっき、どなたかは『腐っても鯛』とも言ってましたけどね」

「だってそうだろ。俺と暁はなにがあっても――」

「なにがあっても?」

 言葉の後半が聞き取れず、問いかえす。はっとしたような一吾は、手をひらりと横に振った。表情が寂しそうに見えるのは、気のせいだろうか。

「さっさと片づけ終わらせろよ。手伝ってやろうか?」

「一番邪魔してるのは一吾さんだと思いますが」

 いつもの調子で笑いかけられ、やはり気のせいかと首をひねりつつ片づけを再開する。一吾は暁の作業を眺めながら、炭酸水を飲んでいる。

 一吾が来た時点で、すでに片づけはほぼ終わっていた。あとは拭きあげたビールグラスをしまうだけだ。

 手伝ってもらうことなく、手早く片づけを終える。先ほどセットが乱れた前髪を手でかきあげると、暁の動きを見た一吾がスツールから立ちあがった。帰るのかと思ったら、なぜか「帰るぞ」と声をかけてくる。

「さっさと行くぞ」

「わ、ちょ、ちょっと待ってください」

 カウンターの内側にまわってきて、ぎゅっと暁の手首を握った。強引な動きと一吾のぬくもりに、混乱と動悸が襲ってくる。

 わけがわからないまま、店の施錠をして一吾と一緒に大通りへ向かう。というより向かわされている。かなり強引で無理やりだ。夜明けが近く、空がぼんやりと明るくなってきている。

「さっきから一吾さんのやってることも言ってることも、全然わからないんですが」

「わかんなくていいよ、まだ」

 またわからないことを言って、走ってくるタクシーに向かって片手をあげている。ちょうど空車のタクシーが来ていて、一吾と暁の前で停車した。始発電車ももう出ているのにタクシーなんて、どういうことかわからない。

 ドアが開き、先を促された。本当に謎すぎて首をひねりながら、暁はおとなしく奥側へと座る。続いて一吾も乗り込んでドアが閉まった。その次にも謎が起こり、一吾が運転手に告げた行き先は暁の自宅住所だった。

「一吾さん、なにかあったんですか? 変ですよ」

「うるさいな。慣れないことしてるんだから、口挟むなよ」

 ぶつぶつと言いながら、暁の座る位置になぜか近づいてくる。距離が縮まって心音が高まるが、あまりに謎が多すぎて怖くもなってきた。異常な行動をするのは、変になるようなことが一吾の身に起こっているのかもしれない。

「あの……一吾さん、今日すごく変ですけど、……もしかして、なにか悪い病気ですか? 大きな覚悟をしないといけないとか」

「あー、まあそうだな、うん。かなり悪いよ。たしかに覚悟したほうがいい」

「えっ、そんなの聞いてないですよ! なんの病気ですか、治りますよね⁉」

 慌てる暁を横目で睨み、静かに息を落としている。その様子に、さあっと血の気が引いていく。ものすごく悪い状態なのかもしれない。

「治るかはわからない。だから覚悟して暁の部屋に行くんだよ」

「はい?」

「大事なものは、ちゃんと大事にしたいよな」

「……?」

 自分は医師ではないし、医療知識もまったくない。そんな暁が治せる病気など、あるのだろうか。首をひねり続ける暁の隣で、一吾は繰りかえし深呼吸をしていた。

 都心近くの街なかを、滑るようにタクシーが進む。太陽の位置があがっていき、徐々に空全体と景色が明るくなってくる。

 落ちつかない気持ちのまま暁の自宅マンションへつき、一吾も一緒にタクシーを降りた。わからないことだらけで逆に冷静になってきて、まずは一吾の病気を治すことを一番に考える。

 タクシーを降りてから無言のまま、エレベーターを待つ。ちらりと隣を盗み見ると、横顔がどこか強張って緊張しているように見える。だが基本的に一吾は緊張するタイプではない。そんな一吾が緊張するほどよくない状態なのかと、暁も緊張しはじめた。

 エレベーター内の静寂が緊張をいっそう煽る。唇を引き結んでいると、突然手がぬくもりに包まれた。手を握られたのだとしっかり理解しているのに、起こっていることを冷静に受け止められない。壊れそうなほど心臓が激しく脈打っていく。店で強引に握ってきたときよりも一吾の手のひらが熱い。

「一吾さん……?」

 おそるおそる顔を向けた先では、一吾も暁を見ていた。見つめあっていると頬にじわじわ熱があがってきて、そんな自分が恥ずかしい。耐えきれず目を逸らそうとしたら、エレベーターが暁の自宅がある階についた。ドアが開き、また強引に手を引かれる。

「さっさと治してくれないと苦しすぎる」

「えっ、救急車呼びますか?」

「それより笑ってくれ」

「笑えませんよ、笑えるわけないでしょう!」

 ポケットからスマートフォンを出そうとすると、動きを阻むようにさらに強く手を引かれた。強引なのはいつもどおりだが、今は一大事なのではないか。暁が焦る以上に本人こそ焦るべきだろうに、その様子が見えない。だから余計に暁は焦る。

「あの、一吾さんっ!」

 強く発した呼びかけで、ようやく一吾は足を止めた。今度こそスマートフォンを操作しようとしたら、静かに「暁」と呼ばれた。

 柔らかい声で自然に動きが止まり、すうっと冷静さが戻ってくる。ゆっくり視線を向けると、これ以上ないほど優しい微笑と出会った。

「暁が笑ってくれたら俺は幸せになれる。病気の原因は暁なんだから、責任取って治してくれ」

「……」

 思考が停止し、ふっと可能性が頭によぎる。

 どう考えてもありえない。言われたことをそのまま解釈しても曲解しても、どんな考え方をしても自分に都合のいい意味になってしまう。

 廊下中に暁の心音が響いている気がする。暴走した心臓が、期待と不安を全身に巡らせていった。一吾は静かな瞳をまっすぐに暁へ向けている。

「もしかして、一吾さんの病気って……あの」

 先ほどよぎった可能性を、おそるおそる言葉にしようとする。でも、どうしても不安が声を詰まらせた。視線を床に落とすと、一吾の履く革靴が見えた。その靴先が、すっとこちらへ踏み出す。

 気がついたときには、腰を引き寄せられていた。あきらかに焦れた様子の一吾が眼前にいる。

「い、一吾さ……」

「俺の恋の行方は、暁が決めるんだよ」

「!」

 不意のミスで口にした和歌の句を、一吾も知っていたのかもしれない。


終

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