花水木
「つまり、もっとしっかりしろってこと?」
「そうです。あなたには店の長という自覚が足りません」
「自覚はしてるよ。でもさ、もっとラフに生きてもいい気がするんだよね」
「店長はラフすぎます」
相変わらずの冷めた口調に、むむむとなると、その様子を見た相手は俯いてため息を落とした。顔の動きとともに黒髪が揺れ、照明がつやを生み出す。わざとらしいため息をつかれ、またむむむ、と眉を寄せた。こういう言い方をされると、つい眉間にしわを寄せてしまう。
よくない、と眉間のしわを指先で伸ばし、なんとなく自分の前髪を軽くつまんでみた。濃い茶色だが、暗い色ではない。深みのある色なのに明るく見えて、どっちつかずだ。ふと、同じ黒髪だったらよかったのに、と思う。そんなことでも目に見えるつながりがあれば、それだけで満たされたはずだ。小言と髪色への不満で、年甲斐もなく唇を尖らせる。ついでに口をへの字に曲げた。
「年上の幼馴染を大事にしたほうがいいよ。俺、小さいときから聡珠くんの面倒見てあげてたでしょ」
「あなたに面倒を見てもらった記憶はないです。成績が芳しくないあなたの勉強を見た記憶は、しっかりありますが」
「……」
事実だから言いかえせず、むっとなりながらも唇を結ぶ。そんな様子に聡珠は苦笑した。
「さっきからよくないですよ、琴。今は仕事中です。そういう表情をしまってください」
「開店前なんだから、拗ねるくらい許してよ」
「三十六歳の男性が子どものように拗ねてしまうのも、困りものですね」
「……」
次から次へと、よくこんなに皮肉が浮かぶものだ。昔からそれだけ聡珠に迷惑をかけて、面倒を見てもらっていたのだが、なんとなく素直に認めたくない。琴が小さくため息をつくと、隣から聡珠の睨む視線を感じた。手は動かしているので許してほしい。
近所に住んでいた二歳年下の幼馴染と、五年前から同じ店で働いている。
聡珠の兄と琴が同い年で、小学校、中学、高校とすべて同じ学校だった。聡珠は常に成績がずば抜けていいので、もっとレベルの高い学校に通っていた。それでも通学は三人一緒で、遊びに行くときも三人セット。三人でいないほうが不自然なくらい、いつも一緒にいた記憶しかない。
琴が大学進学でひとり暮らしをはじめるときに、地元を離れた。見送りをしてくれたのは聡珠と聡珠の兄で、ふたりと会ったのはそれが最後だった。
寂しいけれど、いつまでも一緒にはいられない。大学進学ともなればさまざま選択肢ができ、行く先が変わっていくほうが自然だ。琴だけではなく、聡珠もそう思っていただろう。
親友であり幼馴染である聡珠の兄とは、ごくたまに生存確認をしあっていた。だが、あえて地元に行ってまで会うということはない。聡珠とは連絡自体を取ることがなかった。
でも、転機は突然訪れたのだ。
今から七年ほど前に聡珠の兄から電話があり、とある話を持ちかけられた。都内で居酒屋をはじめるから店長にならないか、と。琴は親友が地元を離れたことすら知らなかった。
誘いは即断った。他の誰から誘われたとしても、断っただろう。当時の琴はそれなりに安定した状況だったし、慣れ親しんでいる会社を辞めるつもりもなかった。親友兼幼馴染からの誘いであっても、転職を伴うとなれば簡単に乗れる話ではない。
だが、続いた言葉で、琴は渋々でも「とりあえず話は聞いてみるけど」と言っていた。
通話を終えてから、親友の言葉が何度も耳によみがえった。異常な緊張と落ちつかなさが胸中で行き交う。
――聡珠も手伝ってくれるって言ってて。
たったひと言が、心をひどく揺さぶった。いや、琴の心を揺さぶるのはただひとりなのだ。
そうはいっても、琴の長く不毛な片想いだ。告白どころか、そんな素振りすら聡珠に見せたことがない。実家を出てからは、完全に関係が途切れている。今さらどうこうなれるなどと思っていない。
それでも聡珠の名前が出て、聡珠にまた会える、しかも一緒に働けるかもしれない、となったら思考が勝手に検討中になった。親友からの誘いは即座に断るのに、薄情なものだ。
通話を終えるとき、親友はひと言添えた。聡珠に恋人がいない、と。琴にとって重要な情報ではある。なぜそれをわざわざ伝えたのか、親友の真意は不明だ。
今さらどうこうなれなくても、近くにいて想いを寄せることは許される。本当に不毛すぎるが、琴はそれで充分だった。聡珠の近くにいられたら、それだけでいい。
二歳年下の幼馴染――凛と立つ花のような想い人。
繊細そうな自分の名前が好きじゃない、と琴が零したのは十四歳のときだ。適当な部分が多い自分には、『琴』という響きと印象からの、しとやかな感じや細やかさがまったくない。自分の名前に対して、劣等感さえいだいていた。
零された聡珠は、表情をわずかにも変えなかった。いつものように聞き流すのだろうと思ったら、聡珠が静かに唇を開いた。その唇の動きを、はっきりと覚えている。
――優しい自分らしさを持っている琴に、とてもよく似合う名前だと僕は思います。
中学生になる直前、まだ小学校を卒業したばかりの子の言葉とは思えなかった。
まず琴自身もそんなふうに思ったことはなかったし、誰からも言われたことがない。琴の両親でさえ、「見事に名が体を表さない」と言っていたくらいだ。目に涙が滲むほどの感動を覚えた琴が、聡珠に惹かれないわけがない。
それから長い年月が経っても、琴に名前が似合うと言う人は現れなかった。今後どれだけ経っても、聡珠の他に言ってくれる人は絶対にいない。
年が巡るたび、恋に落ちた日が来るたびに、もう終わらせないといけないと何度も自分に言い聞かせた。いつまでも聡珠への想いをかかえていても仕方がない、と。
「……」
話を持ちかけられた日、たしかに琴の心に迷いがなかった。それだけ聡珠が恋しかったということでもある。ふと意識が過去に戻り、懐かしいような寂しいような気持ちになった。
ちらりと隣へ目を向けてみた。聡珠と琴はほぼ同身長なので、同じ位置に目線がある。見慣れた濃紺色の作務衣で身を包み、スタッフたちのシフト調整希望のリストに目を落としている。
「なんですか?」
「っ……!」
おおげさなほどに肩が跳ねた。思わずあとずさり、まじまじと聡珠を見る。リストに目を落としたままの聡珠に、なぜか気がつかれた。
「な、なんで見てるのがわかったの?」
「琴のことは、だいたいわかりますよ。もう集中力が途切れていることも」
ぎくりとして身体が強張る。だが、作り笑いでごまかした。軽快にパソコンのキーボードを打ち、やる気充分をアピールする。
「そんなことないよ。集中しすぎて困るくらい」
「それなら、さっさとシフトの調整を終わらせてください。他にもやることがあるんですから」
「まだあるの⁉」
「当たり前でしょう。あなたは店長なんですから、仕事は山積みです」
今さらどうこうなれるなんて、ひとかけらも思っていなかったし今も思っていない。でも、それにしてもあまりに冷たい。一緒に働きはじめてから、年々対応が冷めていく気がする。
なんとはなしに窓の外へ目を投げる。木枠の窓の向こうでは、花水木の蕾が膨らみはじめていた。ピンク色の総苞が開くところを、この窓越しに何度見ただろう。何度、聡珠の隣で見ただろう。
「またさぼってますね」
「さぼってないよ。ちょっと休憩」
「いつでも休憩してるでしょう」
「ほんとにさあ、聡珠くんって」
言葉が勝手に途切れた。
――聡珠くんって、ずっと変わらないね。
口から出なかった言葉を呑み込む。
聡珠はいつまでも変わらなくていいから、変わらないでほしいから、琴も余計なことを言わない。冷静に淡々と、いつでも琴に小言を言い続けてほしい。
「琴は余計なことだとよくしゃべるくせに、本当に言いたいことは我慢しますね」
「そ……んなことないと思うよ?」
「そうですか。じゃあ、そういうことにしておきます」
引っかかる言い方をするのは、わざとだ。聡珠は頭がいいから、人の気持ちへの配慮ができすぎる。その反動なのか、琴に対してだけはすべてはっきりと言うのだ。気を許してくれていると考えれば少し気分が明るくなる。不毛な恋だとわかっていても、悲しいだけでいたくない。
このままでいい。なにも変わらなくていい。
琴の願いは自分勝手だ。それでも願わずにいられない。惹かれて恋をして、でも想いを告げる勇気もなくて。散るだけの恋であっても、琴にとっては大切な想いだ。
「聡珠くんと、ずっとこうしていられたら……いいなって思っただけ」
「僕は嫌ですね。お断りします」
「はっきり言うね。俺だって傷つくんだよ?」
「僕もあなたの無神経さには傷つきます」
聡珠らしくない返しに、目をまたたいてしまう。誰が誰のなにに傷つくと? 聞き間違いだろうか。
首をかしげる琴に、聡珠は刺すような冷たい視線を向けてきた。さらに、あからさまなため息をつく。
「あなたは店長としてはそれなりに有能ですが、恋愛面では愚鈍ですね」
「それなりってなに。頑張ってるのに」
さすがにむむむっと眉をひそめると、またも聡珠はわざとらしいため息を吐き出した。
「有能とは言ったじゃないですか。それなりに、ですが」
「聡珠くんは、言いたいことはっきり言いすぎじゃない? しかも俺にだけ」
「言わないと伝わらないでしょう。言っても伝わらなそうですが」
謎かけをされているのか、よくわからないことばかり言う。聡珠は普段からよくわからないことばかり言うけれど、今日はいつも以上だ。しかも言葉がきつい。
「口を動かす暇があったら、手を倍速で動かしてください。シフト調整は今日中です」
「本当に冷たいよね、俺にだけ」
今度は琴が大きなため息を零して、パソコンのモニターへ目を向ける。
先ほどの「ずっとこうしていられたらいいな」への聡珠からの返答は、琴の気持ちの終着点かもしれない。嫌、お断り、とはっきり言われた。
(そろそろ潮時かな)
十四歳の琴が聡珠に恋をしてから、二十二年。長すぎる不毛な初恋は、もう手放したほうがいいのかもしれない。聡珠以外の誰にも魅力を見いだせないのは、きっと変わらない。それでもせめて心は解放して、この想いも自由にしてあげたほうがいい。恋心だって、いつまでも胸にかかえられても迷惑だろう。
海にでも行って、想いを小瓶に詰めて流そうか。波に乗って遠くまで、どこでもないところまで流れていってほしい。あまり小さい瓶だと想いが入りきらないから、大きめの瓶にしよう。今は海で遊ぶ季節ではないので、人もあまりいないはずだ。
「今度の休みは海に行こうかな。休みじゃなくても出勤前とか」
「ご自由に。予定は早めに教えてください」
「なんで?」
「僕も都合を合わせる必要があるでしょう」
なにを言われているのかまったくわからず、キーボードに手を置いたままぽかんとする。呆けたまま聡珠を見つめていると、聡珠が横目に琴を見た。
「あなたは店長としてはそれなりに有能ですが、恋愛面では愚鈍ですね」
「それ、さっきもそのまま同じこと言われたよ。俺だって頑張ってるのに」
幼い子どものように唇を尖らせて、わかりやすく拗ねた顔をする。聡珠はあきれるか無視するか、冷たくあしらうかと思っていたら、想像外に苦笑された。柔らかくて優しい苦笑いに、不覚にもどきりと胸が鳴る。たった今解放してあげようと思ったのに、もう恋心を掴みなおしている。
「僕が反応してほしかったのは、『恋愛面では』のほうなんですけどね」
「え?」
「さっさと終わらせてください。次は棚卸準備です。そのあとは各業者からの請求と納品記録の照らしあわせ、次は期間限定メニューの――」
「俺、今日帰れないんじゃない?」
月末の忙しさは仕方がないけれど、さすがにいろいろと詰め込みすぎではないか。いや、毎月こうだった気もする。先月のことはもう忘れたから、わからない。
聡珠はまた苦笑して、鋭い視線を投げてきた。
「しょうがないので、琴の仕事が終わるまで僕もつきあいますよ」
「なにそれ。副店長なんだから、聡珠くんだって仕事山積みだよね?」
「僕は日頃から、さぼらずに仕事を片づけています。手伝ってほしいなら、そう言ったらどうですか?」
「……」
絶対に勝てないのだ、聡珠には。昔も今も。
いつでも聡珠に振りまわされて、もう嫌だと思ったこともある。でも優しい笑顔を見せられたり気遣いの言葉をもらったりするだけで、すぐに気持ちが聡珠へ向く。一生、聡珠にだけは勝てない。
「手伝ってください」
「言われなくても手伝いますよ、ずっと」
「えっ、そんなに時間かかるほど仕事溜めてないはず!」
先ほど聡珠があげた業務と、あとはスタッフたちの勤怠データの確認、新規ドリンクの原価と売価の計算、と指を折って数えていく。すぐに終わりはしなくても、それほど長時間になることはないはずだ。
真剣に数える琴の隣で、またも聡珠は盛大なため息をついた。きつい視線で突き刺すように睨んでくる。
「本当に、恋愛面が愚鈍すぎませんか。いい加減押し倒しますよ」
「取っ組みあいするのは嫌だよ。聡珠くん強そうだし」
「もういいです。さっさと作業を終わらせてください」
つんと冷たく顔を背けられたが、横顔に怒っている様子は見えない。逆に楽しそうに見える。
よくわからないけれど、とりあえず今は作業を終わらせよう。聡珠に手伝ってもらい、開店までにやれるだけやっておく。閉店後にしかできない作業もあるから、脳内で順番をつけておく。できたら最終電車までに終わらせたい。最悪でも始発電車で帰ることを目標に頑張る。
風月のフロントでのやりとりが心地いい。いつまでも一緒にこうしていられたら、なんて願うのはやめよう。
今、聡珠が隣にいてくれるから、それでいい。
終




