第26話「互いを思って」
まだ空気が少し冷たい、朝の時間。
私は玄関の前に立っていた。
目の前には、大きな荷物を背負ったリン。
先日の会議の後。
会議室を出た廊下で、リンはゼルジネさんの元へ向かっていた。
そして弟子入りをお願いしたリンに、ゼルジネさんは少し考えた後、静かにこう言っていた。
——二週間。
道場で二週間鍛える。それが提案だった。
短いようで、決して軽くはない期間。
だが、リンは迷わず頷いた。
そして、今はリンの見送りのために立っている。
リンは私の前に立ったまま、ほんの少し寂しそうな表情を浮かべていた。
そのまま視線を落とす。
その様子を見て、私は思わず声をかけた。
「……ねえ、リン」
リンが顔を上げる。
「夢幻洞窟で言ってたご褒美、考えておいてよ」
その言葉に、リンの目が少しだけ丸くなった。
「帰ってきたら、それを叶えよう」
ほんの一瞬。
リンは私の顔をじっと見て、それから小さく頷いた。
「わかった……」
リンが、ぎゅっと拳を握る。
「頑張る」
その声は、とてもしっかりしていた。
「……行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
リンはくるりと背を向けた。
小さな背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
その足取りに迷いはなかった。
私は、その姿が見えなくなるまで見送る。
銀色の小さな背中が、角の向こうに消えるまで。
……さて、と。
私は小さく息を吐く。
「私も、やるべきことをやらないと」
◇ ◇ ◇
「グラス公爵から、ユーフィリア君のみにレファナ君に関する記録の秘匿解除の申請を受け付けた」
冒険者ギルド本部でそう告げたウィズさんに、私は頷く。
「レファナ」という名前に、ウィズさんは懐かしそうに目を細めていた。
「ついてきなさい」
案内されたのは、ギルド本部の地下だった。
石造りの階段を降りていくと、やがて一枚の重厚な扉が現れる。
三つもの鍵穴がついているその扉には、「書庫」と書かれたプレートが掲げられていた。
ウィズさんは懐から三本の鍵を取り出し、順番に鍵穴へ差し込み、回す。
重たい音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
中に足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑む。
そこには、私の身長の二倍はある高さの棚がびっしりと並んでいた。
「秘匿記録は奥にある」
ウィズさんの背中を追って、薄暗い部屋を歩く。
足音が小さく反響する。
やがて最奥に辿り着くと、いくつかの箱が置かれていた。どれも鍵付きだ。
その中の一つ——青色の箱の鍵を開け、ウィズさんが振り返る。
「これが、レファナ君の記録だ」
箱の中には、数枚の書類が収められていた。
「この部屋からの持ち出しは禁止だ。それと、ここにある箱以外の書類は自由に閲覧してくれて構わない」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、ウィズさんは一つ頷いた。
そしてそのまま書庫を出ていく。
扉が閉まる音が、重く響いた。
……よし。
私は一度気合を入れ直し、箱から書類を取り出した。
最初は、冒険者時代の記録。
依頼履歴。討伐記録。評価。
リンにも劣らない華々しい経歴の中でも、やはり最も目を引くのは——飛龍の討伐記録。
討伐した場所は、王都より西にある「氷高流山」。
パーティーメンバーは——なし。
「ソロ討伐……」
そして、飛龍殺しという称号の他に書かれた、異名。
——絶避の剣姫。
一度も相手の攻撃を受けたことがない。
どの依頼も必ず無傷で達成。
加え、パーティーからのスカウトも避け続けた。
それらを合わせた意味での、「絶避」。
……予想通り、か。
私は小さく頷いた。
次の書類に目を移す。
そこには、力についての考察が並んでいた。
敵の動きの予測。瞬間的な未来視。思考の圧縮。身体の完全制御。
いくつもの仮説が書かれている。
でも——
「……違う」
思わず、そう呟いた。
きっと、リンのお母さんも時を止めていた。
ただ、リンとは少し違う。
記録を見る限り、レファナさんは一撃で敵を倒していたわけじゃない。
……停止した世界では、物質に干渉できなかったとか?
私はさらに書類をめくる。
最後のページの備考欄に、一行だけ書かれていた。
——勇者候補の可能性。
「……勇者候補?」
初めて聞く言葉だった。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
……リンが勇者に選ばれたのは、偶然じゃなかったってこと?
私は立ち上がり、関連しそうな書類を探し始めた。
◆ ◆ ◆
音もなく、静かな道場の中。
朝の光が木の床に淡く差し込んでいる。
その中央で、リンは正座していた。
向かいに座るのは、ゼルジネ。
二人とも道着に身を包み、目を閉じている。
しばらくの沈黙の後、ゼルジネがゆっくりと口を開いた。
「……なぜ、強くなりたいと願う?」
低く、落ち着いた声。
その問いに目を開いたリンは、少しだけ床を見つめ、それから答えた。
「……守りたい、人が……いるから」
その言葉に、ゼルジネは静かに頷く。
「そうか……よい動機じゃ」
その瞬間。
壁に立てかけられていた細い木剣が、ふっと宙へ浮いた。
それはゼルジネの方へと飛来すると、彼の手の中に収まる。
そして——それを、上段からリンへと振り下ろした。
「——っ?!」
反射的に、リンは時を止める。
静止した世界の中、迫っていた木剣の軌道から身を外す。
そして、時間が戻る。
ゼルジネの木剣が、リンの座っていた床を叩きつける——前に。
ぴたりと、その動きを止めた。
床とはわずかな隙間しかない。
完全に制御された一撃。
ゼルジネはゆっくりと木剣を引く。
「まずは、その身に染み付いた癖を取り除く」
そう言って、木剣を軽く放った。
それは綺麗な放物線を描き、リンの元へと飛んでくる。
リンは、それを受け取った。
「構えろ。わしが直接相手をする」
ゼルジネは再び木剣を手元へ引き寄せると、ゆらりと構えを取った。
「力の使用は禁止じゃ。もちろん、わしも使わん」
リンは小さく息を吸い——そして、構えた。
「……お願い、します……!」
◆ ◆ ◆
一週間後。
私は王都にある大図書館を訪れていた。
机の上には、いくつもの本と書き留めたメモ。
私は、その内容を整理していた。
「勇者候補」
書庫で見つけたそれは、数十年前まで使われていた言葉だった。
実力のある冒険者を指す、俗称。
だが、現在は使用を禁止されている。
理由は単純だ。
勇者候補と呼ばれた者たちを巡り、争いが起きたから。
貴族による囲い込み。勇者候補同士の対立。
それらが社会問題になり、やがてその呼称は公的に使われなくなった。
「……どおりで知らないわけだ」
書庫でのメモを端に寄せ、私は別の冊子へと手を伸ばす。
それは、歴代勇者についての書類。
残っている最も古い記録は、およそ八百年前。
その書類には様々な能力が記載されていた。
陽、炎、翔、雷、盾、癒など。
そしてその力は、「地脈から生まれている可能性がある」とも書かれている。
その中で一つ、興味深い傾向を見つけた。
どうやら、その時代の世界の危機に応じて発現する能力が決まる傾向があるのだ。
陽の時には大雨が続き、癒の時には疫病が流行っている。
だが、あくまで傾向。
確定した法則ではない。
それでも、いくつもの記録を並べてみると確かにそう見えた。
「……ふぅ」
調べ物にひと段落つき、私は小さく息を吐く。
その時、ふと。
遠くで頑張っているであろう、小さな銀色の少女を思い浮かべる。
「会いたいな……」
思わず、そう呟いてしまった。
たった一週間。
まだそれだけしか離れていないのに。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
でも——
「……リンは頑張ってる。私も、自分の役割を全うするんだ」
軽く頬を叩いて気持ちを切り替えると、私はまたページをめくった。
◆ ◆ ◆
道場の床に、リンは仰向けに転がっていた。
荒い呼吸が静かな空間に響いている。
「……はぁ……はぁ……」
胸が上下するたび、肺が焼けるように痛む。
天井をぼんやり見上げながら、リンは指先をわずかに動かした。
体中が重い。
腕も、脚も、疲労で悲鳴を上げている。
道場の中央で立っているゼルジネは、その様子を静かに見下ろしていた。
(才能はあると思っていたが……)
ゼルジネは自らの頬に手をやる。
先ほどの手合わせで入れられた一撃。
浅くではあるが、確かに切られていた。
(一週間で、ここまで上達するとはの)
まだ荒い。
だが、確実に鋭くなっている。
「一旦休憩にするか?」
その言葉に、リンは床に転がったままわずかな間だけ目を閉じた。
(……ユフィ)
自然と、その姿が浮かんだ。
(会いたい……)
胸の奥で、小さく呟く。
リンの世界のすぐ近くにずっといてくれたその存在に、だが——
(……でも)
リンの指先が、ゆっくりと握られる。
(だから、こそ)
まだ重い体を、無理やり引き上げる。
そうしてゆっくりと立ち上がると、ゼルジネをまっすぐ見上げた。
「もう……一回……!」
荒い呼吸のままそう告げて、剣を構える。
その姿を見て、ゼルジネの口元がにやりと弧を描いた。
「いい顔じゃな」
ゼルジネも木剣を構える。
そして、「カンッ」と。
木剣の打ち合う音が、再び道場に響いた。
◆ ◆ ◆
二週間後。
玄関で扉を前にして、私は小さく息を吐いた。
——今日、リンが帰ってくる。
朝から、なんだか落ち着かない。
決して、とても長い期間というわけではないのに。
……たった二週間なのに。
そんなことを考えていると、呼び鈴が鳴った。
私は思わず背筋を伸ばす。
そして、扉を開いた。
その先に立っていたのは——
背筋が伸び、少しだけ引き締まった顔のリンだった。
「おかえり、リン」
「……ただ、いま」
そう言うと、リンの目がわずかに細められた。
そして、こちらに歩み寄ってきたかと思うと——
「わっ」
ぎゅっと、私に抱きついた。
顔を胸元に埋めるようにして、背中に優しく腕を回してくる。
……ああ。
なんだか、すごく久しぶりな気がする。
「ユフィ」
リンがくぐもった声で私を呼ぶ。
「なに?」
「ご褒美……決めた」
私は思わず口元を緩める。
「うん」
リンが顔を少し上げた。
「デート、したい」
その言葉に、私は一瞬きょとんとする。
「……それでいいの?」
もっとこう、特別なお願いでもしてくるかと思ったのに。
リンは小さく頷く。
「うん……それが、いい」
その表情は、どこか少しだけ照れていた。
私は、ふっと笑う。
「わかった」
そして、リンの頭を軽く撫でた。
「じゃあ明日、行っちゃおうか」
その言葉に——リンが、嬉しそうにぱっと笑った。
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