第19話「あなたの心は」
リンと話してから、数日が経った。
私は、朝から天幕で作業に没頭していた。
昨日調査を終えた第二層の記録を机いっぱいに広げ、魔力濃度の推移を折れ線に起こす。
循環異常の出た個体の共通点を洗い出し、地形図と照合する。
考えている間は、余計なことを思い出さずに済む。
事実は、感情を挟まない。
——だから、ここにいれば大丈夫。
「ユーフィリア殿」
不意に呼ばれ、私はびくりと顔を上げた。
天幕の入口に立っていたのはレスさんだった。
「……はい」
「少しよろしいですか」
差し出された資料を受け取る。
その瞬間、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。
「……どうかしましたか?」
「いえ。なんでも」
即答する。
考える暇を与えないよう、私はすぐに視線を落とした。
◇ ◇ ◇
今日の調査は、第三層。
その中の三本に分かれた道の前にある、西側壁面の精査だった。
先遣隊が周囲の安全を確保し、私たち記録係が順に測定を行う。
岩壁に計測器を当て、魔力の流れを読み取る。
……その時だった。
「これ……」
壁の一角。
ほんのわずかだが、魔力の流れが逆転している。
雷鳴峡谷や夢幻洞窟で起きる事象は、地脈に逆らって流れる魔力が反発し、その際に生じるエネルギーが顕現したものだ。
つまり、高濃度の魔力が満ちていれば、本来は反発が起こり事象が発生する。
今この洞窟は、「高濃度の魔力が地脈に逆らっているのに事象がない」という状況だ。
しかし、この壁の箇所のみ、魔力が地脈に沿って流れている。
「おかしい……」
私は通信石に手をかける。
「リ——」
名前が喉まで出かかって、詰まる。
あの銀色の背中が、涙を隠して去っていった光景が脳裏をよぎる。
指先が、止まった。
「……ジュジュさん、三又の付近まで来れる?」
通信石越しに、軽い声が返る。
『お? なんかあった〜?』
「壁面に違和感があるの。壊してくれる?」
『任せなさ〜い』
ほどなくして、ジュジュさんが現れた。
「どれどれ〜」
指先で壁をなぞり、にやりと笑う。
「確かに。これ、フェイクだね」
次の瞬間、色とりどりの魔法陣が展開する。
その光は、一点へと集中し——
ドン、と鈍い音を響かせる。
岩壁だと思っていた場所が砂のように崩れ落ち、その奥に下へと続く縦穴が現れた。
「なあに、これ?」
私は縦穴に計測器を当てる。
「……魔力と地脈が生むエネルギーが、穴に沿って流れてる」
「……つまり、エネルギーが下に集まってる?」
ジュジュさんの言葉を首肯する。
「おそらく。それで考えられるのは……多量のエネルギーを備えたモンスターがいる、とか」
「ボスがいる、ってこと?」
「……可能性は」
小さく頷いた私に、ジュジュさんはどこか嬉しそうに口角を吊り上げた。
「へえ……大発見じゃん、ユーフィリアちゃん」
「……偶然だよ」
そう言いながらも、胸の奥が少しだけ熱くなる。
役に、立てている。
◇ ◇ ◇
縦穴の簡易調査を終えたところで、レスさんが判断を下した。
『それ以上は本隊を再編成してから行います。一時、調査を休止』
天幕へ戻り、情報の整理が始まる。
洞窟の全体像に修正が入る。
第四層以降の危険度は再評価。
大規模調査は、確実に進展していた。
……なのに。
胸の中の重さは、少しも軽くならない。
「……何か仕事はありませんか?」
気づけば、私はそう言っていた。
レスさんが顔を上げる。
「記録の追加、資料整理、なんでも構いません。手が空いているなら——」
「ユーフィリア殿」
低く、静かな声。
「寝れていますか?」
「……え?」
「食事は取れていますか? 休養は十分ですか?」
矢継ぎ早の問いに、言葉が詰まる。
「正直に言います。顔色が悪いですよ。そんなメンバーを働かせるわけにはいきません」
周囲のざわめきが、遠く感じる。
「休んでください。これは命令です」
私は唇を噛みしめる。
役に立たなきゃいけない。
今は、余計なことを考えている場合じゃない。
……でも。
「……わかりました」
声が、思ったより素直に出た。
私は天幕を後にし、拠点へ向かう。
……足取りが重い。
休めと言われても、休めるはずがない。
頭の中で、思考が巡っては散り、散っては巡る。
たったの短い距離なのに、その何倍にも遠く感じた。
私の言葉。
リンの表情。
リンの声。
私は……何をした?
とうとう、拠点の入口が見える。
——けれど。
足が、止まった。
このまま部屋に戻れば、きっとまた一人で考え込む。
そして、同じところをぐるぐる回るだけだ。
……自然と、私の足は別の場所へと向かっていた。
◇ ◇ ◇
たどり着いた先は、孤児院だった。
その場所は、あの日と変わらない姿でそこにある。
白い漆喰の壁。小さな庭に揺れる花。洗濯物が風に揺れ、窓辺には子供たちの描いた拙い絵が貼られている。
胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
玄関の前で少し躊躇ってから、結局、私は扉を叩いた。
ほどなくして開いた扉の向こうに立っていたのは——シスターララミアだった。
「ユーフィリア?」
その声を聞いた瞬間、懐かしさと安心感が一気に押し寄せる。
視界が滲みそうになり、私は咄嗟に唇を噛んだ。
泣かない。
泣く理由なんて、ない。
けれど、こみ上げるものは抑えきれない。
そんな私の顔を見て、シスターは何も言わなかった。
ただ——そっと手を伸ばし、私の頭を撫でた。
子供の頃と同じ、優しい手。
その温もりに、唇が震える。
歯を食いしばり、涙を堪える。
「……中、入ろうか」
「……うん」
案内されたのは、小さな個室だった。
木の椅子が二つ、並べて置かれている。
外からは、子供たちの遊ぶ声が微かに聞こえてくる。
変わらない日常の音。
私は促されるまま椅子に腰を下ろした。
シスターが、向かいではなく隣に座る。
「どうしたの、ユーフィリア?」
穏やかで、優しく、それでいて——包み込むような声。
凍りついていた心が、ゆっくりと溶け始める。
「……リンの、ことで」
喉がうまく動かない。
指先が、膝の上で強張る。
「公爵夫人に……調査が終わったら、連れ戻すって……言われて」
胸の奥が、ずきりと痛む。
「それで……私、リンに……家族といるべきだって……言っちゃって……」
視線を落とす。
言葉にした瞬間、あの時の表情が蘇る。
沈黙が落ちる。
責める声は、来ない。
ただ、静かな呼吸だけが隣にある。
「……リンは、泣いてた」
最後の一言は、ほとんど呟きだった。
シスターは、すぐには何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「ユーフィリアは、昔から人の役に立とうとしてくれていたね」
突然の話に、私は顔を上げる。
「それはきっと、あなたが子供たちの中で一番年上だったから。お姉ちゃんとして、頑張ってくれたから」
その声音には、悔恨が滲んでいるように感じた。
「……私の、力不足ね」
「そんなことない……!」
思わず上げた私の声に、シスターは小さく首を振った。
「私も未だ、未熟者なのです」
その目には、静かな自省と——子供を預かる者としての、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
「あなたは、自分の心は二の次になった。いつも優先するのは、他人のための『正しいこと』」
胸がちくりと痛んだ。
「それは人として素晴らしいことだけど……でも——」
シスターが、静かに立ち上がった。
そして、私の前にしゃがみ込み——頬を、両手で包む。
温かい。
懐かしい。
子供の頃、不安で眠れなかった夜も。
未来が怖くて震えた日も。
この手が、いつも私を現実へ引き戻してくれた。
「ユーフィリア。あなたは、どうしたい?」
真っ直ぐな問い。
「あなたの心は、どうしたいって叫んでる?」
……私の、心。
ずっと、聞かないふりをしてきた。
聞いてはいけないと思っていた。
けれど——
「……リンと……一緒にいたい」
言葉は、驚くほどすんなりと零れた。
シスターが目を細め、柔らかく微笑む。
その笑顔に、胸の奥の霧が晴れていく。
「安心して。もし、あなたが何か間違えたら……その時は、私が叱ります。諭して、導きます」
真剣な目でそう言った後、シスターはまた穏やかな笑みを浮かべた。
「それが、私の役目だから」
「……ありがとう、シスター」
言葉にしてしまえば、なんということもない。
初めから、私の答えはきっと決まっていたんだ。
私は、椅子から立ち上がる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
昔と変わらない、優しい声音。
背中を押されるように、私は孤児院を飛び出した。
◇ ◇ ◇
天幕に戻ると、レスさんが資料を手にして立っていた。
「ユーフィリア殿?」
髪も乱れ、肩で息をしている私を見たレスさんは目を見開いた。
「リンは?」
息が上がったまま、私は問いかける。
「リン殿なら、行くところがあると出かけました」
胸が、ひやりと冷える。
——グラス公爵邸。
きっとリンは、そこにいる。
踵を返した私を、レスさんが呼び止めた。
「ユーフィリア殿」
レスさんは、静かに続ける。
「もうすぐ調査を再開します。今後は、さらに難易度が増すでしょう」
その視線は、真っ直ぐだった。
「リン殿。そして、ユーフィリア殿の力が必要です」
私は、強く頷く。
「……はい」
迷いはもうない。
私は駆け出した。
向かう先は、ただ一つ。
——リンの元へ。
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