第18話「亀裂」
調査開始から一夜が明けた。
朝の準備を終えたタイミングで、拠点の扉が叩かれた。
「レスです」
入室を促すと、レスさんはいつも通りの無駄のない所作で中へ入ってくる。
すると、わずかに眉を寄せて口を開いた。
「ユーフィリア殿。グラス公爵家より伝言を預かっています」
胸の奥がひくりと震えた。
「……伝言、ですか」
「ええ。公爵夫人から、あなたに話があると」
私は思わず目を見開く。
「……私ですか?」
レスさんが首肯する。
「ユーフィリア殿、と名指しでした」
「……そう、ですか」
……何の話だろう。
頭ではそう考えるのに、胸の奥ではもう答えがわかっている気がした。
暗い予感が、重しのように心に沈む。
「本日の調査は午後からでも問題ありません」
「……ありがとうございます」
レスさんは深く詮索せず、静かに出ていった。
背後で、リンの気配が揺れる。
「……ユフィ」
振り向くと、リンが不安そうにこちらを見ていた。
「大丈夫。ちょっと行ってくるだけ」
できるだけ、穏やかな声で伝える。
「……うん」
けれど、その返事は小さかった。
◇ ◇ ◇
グラス公爵家。
北の都の少し郊外にそびえるその邸宅は、遠目にも圧倒的だった。
高く整えられた門。
磨き上げられた石畳。
左右対称に広がる白亜の建物。
「ここが……」
無意識に口をつく。
孤児院にいた頃に見かけたことはあっても、足を踏み入れるのは初めてだった。
門扉まで行くと、老齢な使用人が出迎えた。
「ユーフィリア様でございますね」
「はい」
「奥方様より仰せつかっております。どうぞ中へ」
洗練された所作で中へ招く使用人に案内され、広い廊下を進む。
足音が、やけに響く。
通されたのは、静かな応接室だった。
重厚な家具。
陽光を柔らかく通すカーテン。
空気すら、整えられているように感じる。
その部屋の中央に、セイナ・グラス公爵夫人は座っていた。
「どうぞ。マナーなどは気にせずに構いません」
柔らかな声音で、そう促された。
「……ご配慮、感謝いたします」
私は一礼し、向かいの席に腰を下ろした。
一瞬の沈黙。
先に口を開いたのは、私だった。
「……それで、お話とは……リンのことでしょうか」
「その通りです」
よどみなく、セイナ夫人は即答する。
「今あなたは、保護者のような立ち位置だとか」
「……はい。正確には、リンを専属で担当する冒険者ギルドの職員です」
「冒険者ギルド……」
夫人は目を細める。
その表情から、感情は読み取れない。
「であれば、都合が良い」
静かに、しかし明確に告げられる。
「此度の王命が終わり次第、リンちゃんは我が公爵家に連れ戻すつもりです」
……やっぱり。
覚悟していたはずなのに、胸が強く締め付けられる。
「その際の手続きを、あなたに依頼します」
ドクンと、心臓が嫌な音を鳴らした。
「……リンに、冒険者を続けさせる気はないのでしょうか」
私は、気づけばそう口にしていた。
夫人の視線が、真っ直ぐに私を射抜く。
「私たち家族と一緒にいる方が、リンちゃんの将来のためになります」
迷いのない言葉が、確固たる意志と共に紡がれる。
「……家族がいなくたって、幸せになれると思います」
自分でも驚くほど、声が硬い。
「あなたがいなくても——」
そこまで言って、はっとする。
けれど、もう遅い。
夫人は静かに言う。
「それは……あなたが孤児院出身だから、そう思うのですか?」
言葉が、冷たく胸に突き刺さる。
「その考えは、あなたの希望です」
淡々と、夫人は告げる。
「リンちゃんにはそぐわない」
私は……何も言えなかった。
何か反論しなければと思うのに、喉が閉じる。
「家族」
その言葉の重みが、私の過去を押し潰す。
「話は以上です」
夫人が席を立つ。
逆光の中、その影が長く伸びた。
「お客様を送りなさい」
「かしこまりました」
控えていた使用人が、静かに一礼する。
夫人は、振り返らない。
扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
……私は、椅子から立ち上がることができなかった。
◆ ◆ ◆
それから、数日が経った。
夢幻洞窟の調査は今日も行われている。
すでに第一層の調査は終わり、現在は第二層に足を踏み入れている。
モンスターとの遭遇は増えているが、洞窟内での事象は引き続き沈黙を保っている。
ジュジュさん率いる先遣隊が前線で安全を確保する。
危険が排除された後、私が現地へ入り、地脈や地形、魔力濃度などの測定を行う。
リンは基本的に側面に位置し、常に警戒を続けている。
役割は明確。
流れも確立されている。
……それなのに。
記録用紙に数字を書き込みながら、ふと手が止まる。
計測器の数値を二度見して、やっと我に返る。
私は、どこか集中しきれていなかった。
頭の片隅に、あの応接室の光景が張り付いている。
『家族と一緒にいる方が、リンちゃんの将来のためになります』
あの言葉が、何度も反芻される。
私は親に捨てられて、孤児院で育った。
それでも、幸せだったと胸を張って言える。
……けれど、それは私の話だ。
リンには、血の繋がった家族がいる。
迎えに来てくれる人がいる。
守ろうとしてくれる人がいる。
……私は。
私は、何だろう。
ただの担当職員。
期限付きの、仮の保護者。
比べるまでもない。
……胸の奥に、じわりと劣等感が広がった。
「リンリン、そっちから大型一匹」
ジュジュさんが呼んだ名前に、無意識に喉が詰まる。
「了解」
短く返事をしたリンは、いつも通り音もなく前へ出る。
細剣が一閃し、モンスターは声を上げる間もなく崩れ落ちた。
……リンには、まだ公爵家での出来事を話せていない。
そのせいで、リンとの間にはぎこちなさが残ったままだ。
リンが倒したモンスターの状態を記録するため、私も前へと出る。
……本来なら。
リンの立ち位置、私の場所。
それらは、無意識でも噛み合う。
でも今は、常に考えて連携を取っている。
リンが半歩ずれる。
私も半歩遅れて位置を調整する。
目が合いそうになって、逸らす。
……私が、リンの顔を見れない。
リンもそれを感じ取っているのか、以前より話しかけてこなくなった。
その沈黙が、さらに私の自己嫌悪を深める。
……最低だ。
私のせいだ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
調査隊は会議と休憩のため、一旦天幕へと戻る。
レスさんが机の上に広げた地図を見つめながら、少し重苦しく口を開いた。
「……思ったより、成果が悪いです」
低く、抑えた声。
「慎重になることは間違いではありませんが——」
「違うでしょ」
遮った声の主は、ジュジュさんだった。
場の空気が一瞬止まる。
ジュジュさんは腕を組み、こちらを見た。
「二人とも集中できてない。それが原因」
その指先が、迷いなく私とリンを指した。
心臓が強く跳ねる。
「……ごめん」
「責めてるわけじゃない。でも、そのままなら邪魔」
……その通りだ。
これは個人的な問題で、みんなには関係がない。
みんなは命を懸けている。
私は記録係として、冷静でなければならない。
……決めなきゃ。
◇ ◇ ◇
会議が終わり、休憩のため各自が拠点へ戻ろうとする。
「リン」
銀色の小さな背中を、私は呼び止めた。
「少し……話、いい?」
リンは、わずかに目を伏せてから頷く。
「……うん」
天幕の裏手。人目のない場所。
私は、意を決して口を開く。
「……この前、グラス公爵夫人に……この調査が終わったら、リンを連れ戻すって……言われた」
……言ってしまった。
薄暗いこの場所に、沈黙が落ちる。
リンの顔が見られない。
それでも、私は続ける。
「リンは……」
バクバクと心臓がうるさい。
呼吸も浅い気がする。
でも——言葉は止まらない。
「……私なんかより、家族と……一緒にいるべき……だと、思う」
……言えた。
ようやく、私は顔を上げる。その先で——
リンの傷ついた表情が、目に映った。
「……ぁ」
私が何か言うより先に、リンが口を開いた。
「……うん……わかった」
ぎゅっと、リンが自分の裾を握った。
そして俯いたまま、踵を返す。
ひらりと揺れた銀色の髪の隙間から——涙が、頬を伝っているのが見えた。
……あ。
私は、立ち尽くす。
追いかけなきゃいけないと脳が警鐘を鳴らすのに、足が動かない。
責めるような心臓の音だけが、いやに大きく耳に残った。
私はまさか……取り返しのつかないことをしてしまったんじゃ……
その答えを、確かめる勇気はなかった。
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