第四十一話(中編③):雪原で矢に追われていたら昔の母親らしき人物がいた件
長い旅の果てに、ようやく“その場所”へ辿り着く瞬間があります。
それは目的地に着くという意味ではなく、失われた時間と向き合うという意味での到達です。
カリンが今立っているのは、ただの雪原ではありません。
彼女が知らないまま背負ってきた過去と、避けられない再会の境界線です。
この先に待つものが救いなのか、それとも痛みなのか。
それを決めるのは、彼女自身の選択になります。
どうか、この静寂の続きに最後まで付き合っていただければ幸いです。
吹き荒れていた雪が、わずかに凪いだ。
荒れていた視界が、ゆっくりとほどけていく。
白い平原の向こうに――
目的地の村の影が、ぼんやりと浮かび上がった。
家々の屋根から、細く立ち上る炊煙。
その煙を認めた瞬間、カリンの胸に小さな安堵が広がる。
「見えた……あそこだよね」
深い雪を漕ぐ足は、すでに限界に近い。
それでも、村の姿が「あと少しだ」と背中を押してくる。
セレナも凍えた指先をさすりながら、小さく息を吐いた。
目前に迫った休息に、張り詰めていた気がわずかに緩む。
エドリックが先頭に立ち、リミバァがその足跡を辿る。
四人は静まり返った雪原を切り裂くように進んでいった。
村まで、あと数百メートル。
人々の話し声さえ聞こえてきそうな距離。
誰もが「あと少しだ」と確信した――その時だった。
――ヒュンッ!
凍てつく空気を切り裂く、鋭利な音。
次の刹那。
カリンの踏み出そうとした足先、そのわずか数センチ先の雪原に、数本の矢が深々と突き刺さった。
「やばい、逃げろ!」
反射的に雪を蹴る。
続けざまに放たれる矢。
足元に突き立つ。
進行方向、そのわずか先に刺さる。
頬のすぐ横を、熱を帯びた風がかすめていく。
あと数センチずれていれば、確実に肉を抉られていた。
(……なのに、当たらない……?)
息を乱しながら、カリンは違和感を覚える。
矢は正確すぎるほど正確だ。
それなのに、決して“当ててこない”。
「……なに、これ……」
セレナの声が震える。
「誘導……されてる……?」
その言葉に、カリンもはっとする。
気づけば、一行は村から離れる方向へと進まされていた。
退路を塞がれ、進路を絞られている。
まるで――逃げ道を“選ばされている”ように。
その時。
「……止まれ」
低く、よく通る声。エドリックだった。
「え!?」
カリンが振り返る。
その横を、一本の矢が風を裂いて通り過ぎ、雪に深く突き刺さった。
それでもエドリックは動かない。
一歩も引かず、その場に立つ。
「威嚇だなぁ」
リミバァが静かに言う。
「ああ。当てる気があるなら、もうとっくに終わってる」
エドリックの声は落ち着いている。
「……相当な手だれだ」
雪が降る。
音が、消える。
エドリックはゆっくりと両手を上げた。
「敵意はない。出てこい」
静寂。
やがて、森の影が揺れた。
現れたのは、仮面を被り毛皮をまとった人影たち。
――八人。
彼らは地上には立っていなかった。
周囲の巨木、その枝の上に一人ずつ、間隔を取って配置されている。
全員が高所。
全員がこちらを見下ろしている。
それぞれの間合いは重ならず、空白もない。
死角を潰しきった、無駄のない陣形。
包囲ではない。
だが――
完全に、射程の中に置かれている。
その中の一人が、前へ出た。
――空気が変わる。
足の運び。
重心の置き方。
視線の圧。
それだけで分かる。
“格が違う”。
他の七人が“配置されている”のに対し、
その一人だけが――“場を支配していた”。
「……懐かしいねぇ」
リミバァが、わずかに目を細める。
エドリックも視線を逸らさない。
「生きてたか」
前に立つ人物が、低く言う。
「――お前たち、何しに来た」
その声を聞いた瞬間。
カリンの胸の奥で、何かが引っかかった。
(……え?)
理由は分からない。
だが、確かに――どこかで触れた感覚。
声そのものではない。
その“間”。言葉の置き方。
(……この感じ……どこかで……)
思い出せない。
だが、知らないはずなのに、知っている気がする。
「村外の異常の調査だ。そっちも把握してるはずだ」
エドリックが答える。
短い沈黙。
周囲の仮面の者たちが、わずかに構えを変えた。
だが――
前に立つ人物が、手を軽く上げる。
それだけで、すべてが止まった。
完全な統制。
「……相変わらずだね。部下の扱いが上手い」
リミバァが肩をすくめる。
「え……知り合い?」
カリンが思わず振り返る。
だが、答えは返らない。
「カリンは下がってろ」
エドリックの声が低く落ちる。
その瞬間。
前に立つ人物の視線が――ほんの一瞬だけ、カリンに向いた。
時間が、引き伸ばされる。
雪の落ちる音が、遠くなる。
鋭く、冷たい視線。
だが――
ほんの一瞬。ほんの、刹那。
揺れた。
(……今、何か――)
心臓が、大きく脈打つ。
確かに、何かがあった。
だがそれを掴む前に、気配は消える。
何事もなかったかのように、視線は戻っていた。
「ここから先は立ち入り禁止だ」
冷たい、任務の声だった。
命令だった。
一切の感情を削ぎ落とした、任務の声。
カリンの胸がざわつく。
視界を塞ぐ雪の白さよりも、目の前の人物が放つ拒絶の色のほうが、よほど冷たく彼女を射抜いていた。
(なんで……こんなに……)
怖い、とは違う。
死を予感させる矢を突きつけられた時よりも、今の沈黙のほうがよほど落ち着かない。
脳の奥底で、バラバラの記憶の断片が形を成そうとして激しく火花を散らしている。
“何かを見落としている”感覚。
あの瞬間に揺れた瞳。聞き覚えのある声の響き。そして、この「立ち入り禁止」という無機質な拒絶そのものが、彼女の中の記憶の扉を叩いていた。
エドリックが、張り詰めた糸を緩めるように静かに口を開く。
「……その前に一つ確認だ」
一拍。
降り積もる雪の音すら聞こえそうな静寂の中、エドリックは相手の仮面を射抜くような視線で問うた。
「お前がここを仕切ってるんだな」
沈黙。
雪が降る。
樹上の番人たちが弓を番えたまま、呼吸すら止めてその答えを待っている。
やがて、その人物は短く、だが岩を打つような重みを持って答えた。
「そうだ」
肯定。
その言葉を聞いたリミバァが、唇の端をわずかに吊り上げて小さく笑う。
「じゃあ話は早いね」
その声には、冷やかしではない、確かな勝機を掴んだような確信が滲んでいた。
周囲の空気が一変する。
その潮目の変化を敏感に感じ取ったように、カリンは吸い寄せられるように一歩、前に出た。
エドリックも、リミバァも、彼女を止めようとはしなかった。
ただ、凍てつく雪原の中、地上と樹上を支配する全ての鋭い視線が、カリンという一点に集まる。
「……あなたが」
喉が、震える。
冷気と緊張で凍りついた声が、うまく形にならない。
それでもカリンは、胸の奥で渦巻く「確信」を、逃げ場のない真実へと変えるために言い切った。
「イザベラ……なんですよね」
エドリックは知っている。
イザベラが、どれほど子供に会いたがっていたかを。
何度も、その名を呼びかけるように呟いていたことを。
それでもなお、立場と責務に縛られ、踏み出せなかったことを。
涙を見たことも、一度ではない。
そのたびに彼女は、何もなかったかのようにそれを拭い隠してきた。
そして――この村で何があったのかも。
だからこそ、理解している。
今の彼女が“母親として動けない理由”を。
(……だから動けない)
今回の話は、戦闘よりも“間”を大切にしました。
矢が飛び交う場面以上に、沈黙のほうが重くなる瞬間というものがあります。
カリンにとって、それは初めて「知らないはずの過去」と向き合う時間でした。
そして相手にとってもまた、言葉にできない時間だったはずです。
親子という関係は、必ずしも温かい形だけではありません。
空白が長いほど、再会は優しくも残酷になります。
この再会がどのような結末を迎えるのか。
それは次の物語の中で、少しずつ明らかになっていきます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




