7-11
「Ça te plaît? (気に入ったかしら?)」
アデル・ラクロワは日本からやってきた少女に訊いた。少女は【クレマンの書】を興味深そうに見ていた。もちろん、それがどのような本なのかはわかっていない。
表紙にミモザが描かれた赤茶色した革表紙の本。羊皮紙に手書きで、模様のようなものが描かれている。文字は一切書かれていない。年代物の貴重な物のようにも見えるが、少女にとっては不思議な本でしかなかった。
アデルにとっても同じだ。物置にひっそりと置かれていた一冊の本。クレマンの子孫ではあるが、当時のことは何も伝わっていない。
アデルの家の書斎に並ぶ沢山の蔵書に少女は興味を持った。しかし、それらはすべてフランス語の書物だ。しかも専門書が多く、日本人の少女に読めるようなものはなかった。
そんな時、アデルは物置にある一冊の本を思い出した。絵本のような楽しいものではないが、フランス語の専門書よりは興味を持てるのではないかと考えた。案の定、少女はその本に興味を持つ。
本から視線を逸らすこともなく、少女はアデルの言葉に無言で頷く。
少女を優しい笑顔で眺めながら、銀髪の老婆は言葉を続けた。
「Je vous le donne. (あなたにあげるわ)」
「C'est vrai? (本当?)」
顔を上げて少女はアデルを見る。
「Si vous pouvez le rêver, vous pouvez le faire. (夢見ることができればそれは実現できる)」
日本に帰る少女へのアデルからのはなむけの言葉だ。しかし、この春に小学生となる少女には、そのフランス語がまだ理解できなかった。
ひと月前、椹木マリカ璃桜は、母親のエミリアに連れられてリヨンにやってきた。ホームステイするためだ。エミリアが日本とフィンランドのハーフなので、璃桜はクォーターということになる。
ホームステイ先は、エミリアが大学在学中に親しくなったフランス人留学生の家だ。留学生は二年間留学していたが、留学前から日本語を勉強していたので、日常会話レベルの日本語ならある程度話せる。人柄も知っているので、業者が手配したホストファミリーより良いのではないかと考えた。
アデルはホストファミリーの一員ではなく隣人だった。家族と離れて一人で暮らしている。同じように家族と離れて暮らしている璃桜を気に留めていた。アデルにとっては数年ぶりに新しい家族が出来たように思っていた。もちろん、いずれは日本に帰ることはわかっている。価値があるとは思えない本を譲ることに躊躇いはなかった。
璃桜はといえば、古い本ということはなんとなくわかったが、まだ幼いので貴重なものかもしれないとは考えもよらない。お菓子を貰うくらいの軽い気持ちで、その古い本を受け取った。
エミリアが日本から迎えに来たのは、その二日後のことだった。大学時代の学友としばし歓談し、エミリアは礼を伝えて璃桜を連れて一旦パリに向かう。
パリで航空機を乗り換えて、羽田に着いたのは翌日の夕方だった。
空港には父親の崇春と、その腕に抱かれた弟の芳春が迎えに来ていた。
エミリアに芳春を託すと、崇春は代わりにスーツケースを受け取る。四人揃って駐車場へ向かった。
運転席に崇春が座り助手席にエミリア、運転席後ろの席のチャイルドシートに芳春、助手席の後ろに璃桜を乗せて車が走り出す。
「さっきから気になっていたんだが、璃桜が持っている本はなんだ?」
運転席の崇春が声をかける。璃桜はずっとアデルから貰った本を手にしていた。
「隣の家のお婆さんから頂いたみたい」
エミリアが答えた。
「高価なものじゃないのか?」
「古い本だけど価値はないって言ってたわ」
エミリアは本のことをアデルに尋ねていた。
「それならいいが……読めるのか?」
「それが文字は書かれていないのよ。絵というか模様だけで」
「そうか……」
崇春は一旦納得した。今は運転に集中すべきだろう。
車が横浜青葉から東名高速道路に入る頃には日がすっかり暮れていた。
「途中で何か食べて行くか?」
崇春がエミリアに訊いた。
「そうね。家の方に着いてからだと遅いわね」
しばらく走って足柄サービスエリアで食事を摂ることにした。
流石にレストランまでは、璃桜も本を持っていかなかった。
食事を終えると再び東名高速道路を走り、沼津から伊豆縦貫自動車道に入る。
下田に入る頃だった。崇春は後方のヘッドライトに違和感を覚えた。
崇春の車は片側二車線の左車線を走っている。右車線後方を走る車のヘッドライトが左右に揺れている。蛇行運転しているようだ。
ライトの数や間隔から、中型のトラックと思われる。
「どうしたの?」
崇春の様子に気づいたエミリアが訊く。
「いや、後ろのトラックがフラフラしていて」
「気をつけてね」
そんな言葉を交わしていると、さらにトラックが近づいたきた。
もう少しで並走する。
崇春は可能な限り車を左に寄せる。
トラックが並走する。
近づいたり離れたり。
トラックは少しずつ前に出た。
「前のトラックからもっと離れたら?」
前を走るのも、同じくらいの大きさのトラックだった。いや少し大きい。
「後ろにもトラックがいるからこれ以上は……」
崇春の車はトラックに囲まれていた。
右を走るトラックは相変わらずフラフラしている。
「トラックが多いな」
崇春が呟く。
フラフラ走っているトラックは、前のトラックとしばらくの間並走していたが、少しずつさらに前へ出て崇春の視界から消えてゆく。
突然、前のトラックがブレーキをかける。同時に車体を左に寄せる。崇春からは見えないが、先ほどのトラックが左車線に大きくはみ出したのだ。
崇春は一瞬迷った。同じように左へ寄せつつブレーキを掛ければ、後ろから衝突される恐れがある。
いっそのこと速度を上げて右車線に出した方が良いか。
トラックの前は全く見えないが、左に寄せれば逃げ場はなく、最悪二台のトラックに挟まれてしまう。
崇春は決心して、速度を緩めず右にハンドルを切った。
だが、判断が遅かった。
崇春の車の助手席の後部座席、璃桜が座っているあたりの側面が、前のトラックに衝突する。ドアが大きく歪んだ。
ぶつかった衝撃で、崇春の車は左に回転すると同時に、璃桜の座る座席のドアが開く。
そこから璃桜は車外に投げ出された。手には本を握ったままだ。
後ろを走っていたトラックも、崇春と同じ判断をして右にハンドルを切っていた。
後続のトラックは璃桜の体の上を走りすぎる。車体の中央が璃桜の上を通過したので、轢かれてはいない。その代わり、速度の落ちた崇春の車に迫ってゆく。ブレーキは間に合わない。
追突された崇春の車は、衝撃でひっくり返っていた。さらに追突したトラックがそこに乗り上げて横転する。
そのトラックはガソリンを運んでいた。漏れ出したガソリンが引火し、トラックと崇春の車は炎に包まれてゆく。
蛇行していたトラックを警戒していたからか、幸いに後続の車両が巻き込まれることはなかった。
やがて二台の車両は完全に炎に包まれた。
その炎が路上に倒れている璃桜を照らす。
赤く照らされた璃桜の手は未だ本を掴んでいる。その指はかすかに動いていた。




