生徒会長として
学園都市中央記念塔前広場。
かつて都市の創設を讃え、歴代の優秀な探索者たちの名が刻まれた大理石のモニュメントは、無残にも黒く変色した刺突痕で削り取られていた。
頭上を舞う数機の通信中継ドローンが、赤いレンズの光を明滅させながら広場の惨状を世界へと中継し続けている。
「……元生徒会長ともあろうお方が、無関係な後輩や街の誇りを汚し、このような醜悪な茶番を演出するとは……呆れ果てました、九重先輩」
瓦礫の広場に、鈴を転がすような、けれど絶対零度の冷徹さを孕んだ声が響き渡った。
純白の防護軽装を纏い、細身のレイピアを寸分の狂いもなく正眼に構える少女――現生徒会長・神薙氷華。
その青銀の瞳は、目の前の男の動向を寸分の隙もなく射抜いていた。
十数メートル先。
黒い学生服風のロングコートを風に翻し、細身の黒剣をだらりと下げて立つ青年――九重蓮夜が、薄い唇を歪めて冷ややかに息を吐き出した。
「相変わらずだな、氷華。……『規律』『誇り』『生徒会』。そんな手垢のついた言葉を、いつまで金科玉条のように後生大事に抱え込んでいる」
九重の手元で、黒剣がシャラリと不気味な金属音を立てる。
刃に纏わりついているのは、黒き風から分け与えられた紫黒の魔力。
その背後には、警備隊の小隊長や防衛生徒たちが氷華の氷壁の陰で肩で息をし、辛うじて命を繋ぎ止めていた。
「この学園の理念など、最初から欺瞞に過ぎん。世界樹の最深部に眠る莫大なエネルギー利権……それを独占するために、子供たちを兵隊として育成する巨大な実験場。それがこの学園都市の正体だ」
九重の瞳に、昏い光が宿る。
「一年前、お前を副会長に任命した頃の俺を覚えているか? 俺もかつては信じていたさ。生徒会こそが学園の盾であり、後輩たちを理不尽から守る砦だと。だが……上層部にとって生徒たちの命など、数字とデータの羅列に過ぎなかった。……ならば、この腐敗したすべてを破壊し、徹底した合理的統制下に置くことこそが、最も無駄な血を流さない道だ。この茶番の果てに、無能な学園は解体される。それが貴様らを守る唯一の道だと、なぜ分からん?」
「詭弁を……ッ!」
氷華のレイピアの切っ先が、わずかに震えた。
「上層部に不条理があったとしても……生徒たちの想いや、懸命に生きる日々の尊さまで偽りだったはずがありません! それを自ら踏み躙り、テロリストを装って破壊を尽くすなど……ただの逃避と裏切りです!」
「ならば、力で示してみせろ!」
パァンッ!!
九重の踏み込みと同時に、アスファルトが粉砕された。
速い。
前生徒会長にして、かつて学園最速の刺突使いと称された男の剣速。
黒き風の加速魔力を上乗せされた黒剣が、一瞬にして数十条の漆黒の軌跡となって氷華の眉間へ殺到する。
「『黒影穿孔』ッ!」
「『氷壁展開・六花』――ッ!」
ガガガガガガガッッ!!!
氷華が足元を踏み抜くのと同時に、六枚の極薄の氷結晶が幾重にも重なって展開された。
甲高い衝撃音とともに、黒い刺突が氷壁を削り散らす。
だが――九重の剣は、防がれることを前提としていた。
「甘いな、氷華。お前の癖は全て知っている!」
氷壁の死角へ、九重が影のように回り込む。
硬質な靴底が氷華の側頭部を捉えようと弧を描いた。
氷華は反射的にレイピアの柄で受け止めるが――。
ドゴォォォンッ!!
「くっ……!?」
黒き風の衝撃波が柄を通じて直撃し、氷華の華奢な身体が記念碑の石柱へと吹き飛ばされた。
背中を強打し、肺から短い悲鳴が漏れる。
「神薙さんッ!!」
背後の警備兵が叫ぶが、氷華は手をかざしてそれを制した。
「く……来ないで、ください……っ!」
石柱に手をつき、息を荒らげながら立ち上がる。
だが、その膝は微かに震えていた。
九重の剣撃には、一切の躊躇がない。容赦も妥協もない全力の殺気が、重く肌を刺していた。
――一年前、生徒会室。
まだ副会長になりたてだった氷華の前に、書類を整然と揃え、静かに語りかけていた九重の記憶。
『氷華。お前は優秀だが、何でも一人で抱え込みすぎる。……生徒会長たる者、誰よりも冷徹な規律を保たねばならんが、その心の底にある温もりまで凍らせるなよ』
あの時、完璧な憧れだった先輩。
家柄の重圧に押し潰されそうになり、落ちこぼれとして挫折を味わった自分を、生徒会へ引き上げてくれた恩人。
だがその人が、絶望の果てに姿を消し――今、目の前で敵として刃を向けている。
「どうした、氷華? そんな迷いに満ちた剣で、誰を守れるというのだ」
九重が一歩、間合いを詰める。
その双眸の奥には、冷え切った虚無の奥底で、痛切に後輩を推し量るような激しい眼光が渦巻いていた。
「お前は昔からそうだ。……他人に導かれなければ立てない、脆弱な優等生。かつては俺に縋り、俺が消えれば今度は『翠光の仮面』という虚像の神様に縋り付いて現実から目を背けた! 中身は何も成長していない、ただの人形のままだッ!!」
鋭い叱咤が、刃となって氷華の胸を抉る。
言葉の鋭さと裏腹に、九重の踏み込みは一切の容赦がない。
もし今の学園都市の守りが本物なら、もしこの絶望の先にある希望を後輩たちが掴み取れるというなら――それをこの身に叩きつけてみろとばかりに、全身全霊の刺突が奔る。
だが、その一撃の重さに、氷華の刃は鈍る。
そう、九重の言う通りだったのかもしれない。
自分はいつだって、誰かの強さに憧れ、誰かの背中に縋りついていただけだったのではないか。
だからこそ――世界樹の頂で、自分だけが『合一』を完成させられなかったのだ。
――世界樹上層『碧水神殿』。
それぞれが合一を会得し始めている中――氷華だけが、同調できずに膝をついていた。
『あらあら……。氷華ちゃん、呼吸がカチコチに凍りついちゃってるわよ?』
静かな水面の上に立ち、透き通る水色の長髪を流しながら、水の精霊アクアリアがおっとりと首を傾げていた。
その豊潤で落ち着き払った佇まいの前で、氷華は焦燥に唇を噛んでいたのだ。
『申し訳、ありませんアクアリア様……! わたくしの集中が、未だ至らず……!』
『うふふ、謝らなくていいのに。でもね、氷華ちゃん。あなた、心に分厚い氷の壁を作っちゃってるでしょう? 「生徒会長として完璧でいなきゃ」「恥ずかしくない自分にならなきゃ」って……そんなにガチガチに着飾ってたら、私の流れるお水と混ざり合えないわ』
『それは……わたくしが、強くあらねばならないからです……!』
『ダメよ、氷華ちゃん。お水はね、誰かの形を真似るものじゃないの。ただ目の前にある命を、包み込んであげるものなのよ』
結局、タイムリミットが訪れ、氷華だけが完全な合一に至らぬまま地上へ降り立つことになった。
(私だけが……未熟なまま……。こんな迷い傷を抱えたまま、先輩の覚悟を押し返せるはずが……)
九重の黒剣が振り下ろされる。
空間を抉るような刺突の嵐が、氷華の全方位から殺到した。
逃げ場はない。防ぎきれない――そう思った刹那。
ふわり、と。
全身を、温かで柔らかな春の海のような気配が包み込んだ。
『――ふふっ、ほらまた』
胸元の蒼碧の勾玉から、涼やかで、どこか大人の包容力を湛えた声が静かに染み渡る。
(……アクアリア様……!?)
『もう、九重くんったら。可愛い後輩相手に、ずいぶんと本気でぶつかってくるじゃない。……ねえ、氷華ちゃん? 彼はどうして、あんなに痛そうなお顔で剣を振るっているのかしらね』
言われて、氷華は目を見開いた。
迫る黒剣の切っ先の向こう側――冷酷な仮面を貼り付けた九重の瞳の奥に、かつて自分を導いてくれた時と同じ、不器用で、けれど必死な「問いかけ」が宿っているのが見えた。
――示してみせろ、と。
お前たちの信じる世界が、俺の絶望を打ち破れるものなのだと、証明してみせろと。
『彼を止めてあげたいんでしょう? そして……ノアちゃんが笑っていられるこの街を、愛しているんでしょう?』
脳裏に去来するのは、ノアと過ごした日々。
お茶を差し入れてくれた時の、あの小さな手の温もり。
正体を隠しながらも、いつだって自分たちを守るために必死にみんなの風を整えてくれていた、あのひたむきな背中。
そして――「神様」としてではなく、ただ一人の少女として背中を預け合おうと笑ってくれた、あの翡翠の瞳。
『……はい。そうです、アクアリア様』
『だったら、全部脱ぎ捨てちゃいなさいな。凍りついたお人形の鎧なんて、ぜんぶ溶かして……私の海に飛び込んできてちょうだい』
カチリ、と。
氷華の心の奥底に張り詰めていた、分厚い氷の防壁が――優しく、滑らかに融解した。
もう、完璧な生徒会長の仮面はいらない。
誰かの背中を真似る必要もない。
愛する者たちを、この手で包み込み、守り抜く。その温もりこそが、自分の力なのだから。
――黒剣が眉間を貫く寸前。
神薙氷華の双眸に、澄み渡る絶対零度の青銀の光が宿った。




