翠光の残影
ノアが掲げた手から、翡翠の魔力が静かに紡ぎ出された。
それは奇跡の光などではない。世界樹の理に基づいた、絶対的な大気の掌握だった。
「や、やめろ……! 私の……復讐を邪魔するなァッ!!」
狂乱した御子柴が短剣を握り直し、床を蹴ろうとする。
だが、その瞬間――地下空洞を満たしていた気圧が、異常な密度で急激に跳ね上がった。
ゴォッ……!
空洞のあらゆる気流が、ノアの掌の動き一つで背後の【瘴気核】へと収束していく。
風の精霊としての絶対権能による、「大気の完全遮断」――超高圧の真空隔壁の展開だった。
「な……息が……魔素が、吸えん……!?」
御子柴が胸を掻きむしり、その場に崩れ落ちる。
瘴気核が紫煙を噴き上げ暴走し続けるには、周囲の大気中に漂う魔素との循環・連鎖反応が不可欠だった。
ノアはその周囲の空間から空気も魔素も完全に削ぎ落とし、絶対の「真空の繭」で核を隔離したのだ。
燃料となる外気を絶たれた瘴気核は、急速に連鎖反応を失っていく。
ドクン、ドクンと脈打っていた黒い脈動が急激に減速し、内包していたエネルギーが逃げ場を失って自壊。パキパキと音を立てて冷え固まり、やがてただの沈黙した鉱石の塊となって床に転がった。
「ぐ、あ……ぁ……ッ!」
核との魔力リンクを強制切断された反動が、御子柴の肉体を直撃した。
無尽蔵に引き出していた力が一瞬で枯渇し、極度の魔力欠乏と神経への負荷によって、男は床に倒れ伏し、激しい痙攣ののちに意識を失った。
吹き荒れていた熱風が止み、地下空洞に静寂が戻る。
神秘の力ではなく、大気の循環を極限まで知り尽くした者による、あまりにも精密で絶対的な魔導の制圧。
その光景を、氷華は息を呑んで見つめていた。
吹き抜ける澄んだ気流が、氷華の濡れた頬を優しく撫でていく。
どこかで知っている。
この、大気の震えそのものを手足のように操る、完璧な風の制御。
かつて――死を覚悟した絶望の底で、自分を救い上げてくれたあの背中。
翠色の光を纏い、荒れ狂う瘴気を一筋の風で平伏させていた、あの圧倒的な存在。
あの時、自分たちを救った神話の風。
そして、目の前で静かに佇むノアの姿。
氷華の脳裏で、ふたつの存在が完全に重なり合った。
「……翠光……様……」
氷華の唇から、震えるような囁きが零れ落ちた。
ずっと追い求め、感謝を伝えたいと願い続けていた救世主。
その正体が、目の前でエプロンドレスの裾を揺らし、佇んでいる少女――ノアだった。
「ノアさん……あなたが……『翠光の仮面』だったのですね……」
その言葉に、クラリスも、クローディアも、鳴神先生も息を呑んだ。
薄々感じていた予感が、決定的な真実となって胸に落ちる。
背後の光翼がふわりと光の粒子となって消え、ノアはゆっくりと床に着地した。
その瞳には、先ほどの神託のような峻厳さはもうない。
ノアは傷だらけの仲間たちの姿を見渡し、胸を押さえて唇を震わせた。
「みんな……っ、怪我は……? 僕のせいで、こんな……っ」
駆け寄ろうとするノアの足元も、多属性の魔力を無理やり通した反動でおぼつかない。
氷華たちの腕や服には、先ほど暴走させられた風で切り裂かれた生々しい傷がある。結界の逆流による激痛に耐え、血を吐く思いで檻を壊してくれたのだ。
「謝らないでください、ノアさん……!」
氷華は自らの痛みを堪え、駆け寄ってノアの手を包み込んだ。
「無茶をしたのは私たち自身の意志です。今も、今までも……あなたが私たちを救ってくれたことに、変わりはありません」
「でも……」
「いいから黙ってな」
クローディアが肩で息をしながら、大剣の柄に寄りかかって不敵に笑う。
「アタシらが好きで突っ込んだんだ。お前が気にするこっちゃねえよ」
鳴神先生も静かに歩み寄り、気絶した御子柴を確実に拘束用の魔導手錠で縛り上げながら、ノアへと視線を向けた。
「よく耐えたな、ノア。お前が無事で何よりだ」
仲間の温かい言葉に、ノアは涙を拭った。
重苦しい緊張がようやく解けかけた――その時だった。
ズズズズズズズッ……!!
頭上から、空洞全体を激しく揺るがす轟音と地響きが降ってきた。
コンクリートの粉塵がパラパラと落ちてくる。
「っ……何事ですの!?」
クラリスが天井を見上げる。
ピッ、とマリンの端末が耳障りな警告音をけたたましく鳴り響かせた。
「みんな、大変……! 地上が……!」
マリンの青ざめた声が響く。
「地下の瘴気核は止まったけど……地上で陽動に使われてた【半モンスターの青年】が、暴走を止められてない! 学園の防衛隊とギルドの迎撃部隊が完全に包囲して……『危険魔獣の即時殲滅』の指令が出ちゃったよ……!!」
「なんですって……!?」
氷華が目を見張る。
「ノワールが……!?」
ノアの顔から血の気が引いた。
御子柴に利用され、操られ、今まさに地上で命を奪われようとしている黒き獣。
「僕、行かなきゃ……」
ノアは仲間たちの疲弊しきった姿を見て、咄嗟に後ずさった。
「みんなはここで休んでいて。これ以上、みんなを巻き込めない……!」
足に力を込め、一人で駆け出そうとするノア。
だが――その肩を、鳴神先生の手がトンと力強く引き止めた。
「待ちなさい、ノア」
「先生……! でも、みんなもうボロボロで――」
「バカ言んじゃないよ」
遮ったのはクローディアだった。彼女は大剣を構え直し、痛む体に活を入れるように乱暴に息を吐く。
「誰が一人で行かせるか。ここまで付き合っといて、最後の最後で仲間外れにすんな」
「そうですわ」
クラリスも煤けたローブを払い、杖を握り直す。
「わたくしたちの大切なお友達を……一人で行かせるわけにはいきませんわ」
氷華もまた、レイピアを手にノアの隣へと並び立った。
「一人で背負わないでください、ノアさん。私たちは、もう二度とあなたを一人にはさせません」
「みんな……」
ノアの翡翠の瞳が潤む。
鳴神先生が刀を腰に差し、旧資材区へと続く搬送リフトの非常レバーに手をかけた。
「御子柴の身柄は後続の部隊に引き渡す。行くぞお前たち――地上へ!」




