精霊の檻
「――なっ!?」
鳴神先生の刃が御子柴の喉元へ迫った、まさにその刹那。
コンクリートの床一面に、禍々しい黒と異様な黄金の光脈が、幾重もの幾何学模様を描いて爆発的に広がった。
「ぐ、ああっ……!?」
空気を裂くような絶叫が上がった。
踏み込んでいた鳴神先生の身体が、まるで不可視の巨岩に叩きつけられたかのように急制動をかけられ、その場に膝を折る。
「せ、先生……!? っ、ぐぅ……!?」
駆け寄ろうとした氷華が、胸元をかきむしるようにして倒れ込んだ。レイピアが乾いた音を立てて床を転がる。
それだけではない。クラリスの杖から炎がふっと掻き消え、クローディアは大剣を杖代わりに突いたまま苦悶の脂汗を流し、マリンも膝をついた。
「な、んだ……これ……! 体の中の魔力が……逆流して……!?」
「クソッ……力が入らねえ……ッ!」
「魔素反転結界……!? 馬鹿な、古代の伝承でしか出てこない術式、現代で組めるはずが……!」
鳴神先生が床に爪を立て、血の滲むような声を絞り出す。
この空間を満たす大気の魔素そのものが、通常の循環とは完全に反転させられていた。
魔力回路を広げて戦う優れた探索者であればあるほど、自らの魔力が体内を刃となって切り刻む凶悪な罠。
「フハハハハ……やはり、探索者などこの程度か」
御子柴はゆっくりと歩み出した。
その眼鏡の奥の瞳には、倒れ伏す歴戦の探索者たちへの侮蔑すら浮かんでいない。
ただの通過点――まるで路傍の石でも見るかのように、鳴神先生や氷華たちの横を通り過ぎていく。
その視線が、ただ一点――後方に立ち尽くす、エプロンドレスを揺らした少女へと真っ直ぐに注がれていた。
「……御子柴……貴様……」
鳴神先生が床を這いながら、必死に手を伸ばす。
御子柴は答えず、ノアの前でピタリと足を止めた。
「2年Dクラス支援科ノア……いや、違うな」
冷たい声が、静まり返った地下空洞に響き渡る。
「まさか、このような無力な小娘の姿に化けて学園都市に紛れ込んでいようとはな。……探したぞ」
「……え……?」
ノアが翡翠の瞳を微かに揺らす。
御子柴は懐から、禍々しい紋様の刻まれた黒い小瓶を取り出した。
「黒き獣――ノワールだけでは、深淵の怪物を現世へ完全に呼び戻すには器が足りなかった。だが……貴様を捕獲し、その魂魄を捧げれば話は別だ。二つの極大の核が揃い、深淵の門は完全に開く」
「な……にを……」
氷華が荒い息の下から、驚愕の声を絞り出す。
御子柴は怜悧な笑みを浮かべ、ノアを指差した。
「知れたこと。そいつは人間などではない。……世界樹の底より生まれし、風の精霊そのものだ」
――世界樹の、精霊。
その言葉に、苦痛に喘いでいたクラリスも、クローディアも、マリンも息を呑んだ。
おとぎ話の、太古の神話。人類がただの伝承としてしか語り継いでこなかった存在。
それが、自分たちの隣でいつも優しく笑っていた、この華奢な後輩の少女だというのか。
「さあ、深淵の怪物の器となるがいい――【精霊捕縛の檻】!」
御子柴が小瓶を掲げた瞬間、床の黄金の光脈が生き物のように跳ね上がり、幾重もの巨大な光の格子となってノアを取り囲んだ。
ノアの精霊としての波長だけに呼応し、その神気を内側へ押し込めて封殺する古代の檻。
「――っ!?」
逃げることも、風を放つこともできたはずだった。
けれど――ノアは動けなかった。
仲間たちの驚愕の視線。
隠し続けてきた秘密。
『人間』として過ごした温かな日常が、すべて自らの嘘の上に成り立っていたという冷酷な現実が、ノアの思考を真っ白に染め上げていた。
(ばれちゃった……)
(みんなを、騙してた……)
(人間じゃないって、知られちゃった……)
指先一つ動かせない絶望的な放心の中、黄金の檻がガシャンと音を立てて完全に閉じ、ノアの体を縛り上げる。
翡翠の双眸から完全に光が消え、ノアはその場に力なく膝をついた。
「「ノアさん!!」」
氷華とクラリスが叫ぶ。
だが、檻の中のノアはうつむいたまま、ピクリとも反応しない。
御子柴は冷ややかにそれを見下ろし、床に倒れ伏す鳴神たちへ振り返った。
「無駄だ。そいつに固執する理由など、貴様らには欠片もあるまい」
御子柴の声が、地下空洞に冷たく響く。
「そいつは己の正体を偽り、貴様らを騙し続けてのうのうと人間としての平穏を楽しんでいた化け物だ。神話の存在が、下等な人間たちと児戯のおままごとを演じていただけにすぎん。……裏切られていたのは貴様らの方だ」
御子柴は眼鏡を押し上げ、哀れむように言い放った。
「諦めろ。すべては混沌に還る定めだ。無駄な足掻きをやめ、運命に身を任せて静かに眠るがいい」
「……ふざ、けんじゃないよ……ッ!」
床に倒れたまま、血の滲むような声を絞り出したのは、クローディアだった。
全身を切り裂くような魔力逆流の痛みに耐えながら、奥歯を砕けんばかりに噛み締める。
「化け物……? おままごと、だと……? ふざけんなッ! あいつが……ノアがアタシらに向けてくれた笑顔が、嘘だったわけねえだろッ!!」
「そう、ですわ……!」
クラリスが震える手で杖を握り直し、涙の滲む瞳で檻の中のノアを見つめた。
「正体が精霊であろうと、何であろうと関係ありません! 一緒に笑い合って、一緒にお茶を飲んで、一緒にこの学園祭を守ろうとしてくれた……! ノアさんは、わたくしたちのかけがえのない仲間ですわ!!」
「ノアちゃん……!」
マリンが床に伏しながら、必死に手を伸ばす。
「あたしたち、騙されたなんてこれっぽっちも思ってないよ! ノアちゃんは、あたしたちの大切な友達なんだからッ!」
「……ノア」
鳴神先生の、低く、けれど芯の通った声が響いた。
痛みに歪む顔を上げ、先生は真っ直ぐに檻の中の少女を見据えていた。
「何者であろうと、私の生徒であることに変わりはない。……自分の居場所を、こんな奴の戯言で手放すんじゃない」
そして――。
「ノアさん!!」
氷華の、胸を裂くような叫びが届いた。
氷華は逆流する激痛を意志の力だけでねじ伏せ、床に両手をついて立ち上がろうとしていた。
「あなたが誰であろうと、私たちとの関係に変わりはありません! あなたがいたから、私たちは前を向けた! あなたの温かさは、絶対に偽物なんかじゃない!!」
氷華の瞳から溢れた涙が、コンクリートの床に落ちて弾ける。
「お願いです、ノアさん……! 顔を上げてください!!」
その叫びが。
その涙が。
暗闇に沈みかけていたノアの耳の奥へ、直接流れ込んできた。
恐れていた拒絶は、どこにもなかった。
騙していた自分を責める声など、一つもなかった。
化け物だと蔑むどころか、傷だらけの身体で、自分を『仲間』だと、『友達』だと叫び続けてくれている。
光を失っていたノアの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、床を濡らした。
けれど――。
ギチ、ギチギチギチッ!!
「……っ!? あ、ぐ……ぅ……!?」
黄金の檻から伸びた無数の光の楔が、ノアの首、腕、胴体へと深々と突き刺さった。
ノアの身体が不自然に硬直し、指先ひとつ動かせなくなる。
「……感動的な友情ごっこはそこまでだ」
御子柴が冷酷に小瓶を握り潰した。
パリン、と砕け散ると同時に、檻の幾何学模様がドス黒い紫煙を噴き上げ始める。
「この檻はただ閉じ込めるだけのものではない。捕らえた精霊の核に直接干渉し、その無尽蔵の力を『強制抽出・兵器化』するための古代の楔だ。……もはや貴様の意思など関係ない。その神の息吹、我が復讐の刃として使わせてもらう」
「やめろ、御子柴――ッ!!」
鳴神先生が叫ぶ。
「ガ、ハ……ッ、あ……ぁぁぁぁ……ッ!!」
ノアの喉から、裂けるような悲鳴が上がった。
心を取り戻し、仲間たちを助けたいと願う意思を完全に踏みにじるように、檻の楔がノアの体内に眠る風の精霊の力を強引に、乱暴に引きずり出していく。
光を宿しかけたノアの瞳が、激痛と強制支配の衝撃で再び白みかける。
涙を流し続ける少女の頭上から、制御を失った翡翠の大暴風が、狂乱の刃となって地下空洞全体へと吹き荒れた。
ドガガガガガガッ!!
「ぐあぁっ……!?」
「きゃああっ!!」
ただの余波ではない。
精霊が放つ、文字通り空間すら削り取る純粋な大気の暴力。
反転結界で魔力を封じられ、身動きの取れない鳴神先生たちへ、ノア自身から引きずり出された無慈悲な風刃が雨あられと襲いかかる。
床が粉砕され、鉄骨が飴細工のようにへし折れる。
クローディアが大剣を盾にして仲間を庇うが、その巨剣すら風刃に削られて火花を散らし、吹き飛ばされる。
「ノア……さん……っ!!」
叫ぶ氷華の服が切り裂かれ、鳴神先生が自らの身を挺して生徒たちを覆い隠す。
(だめ……っ! やめて……!!)
拘束され、激痛に焼かれながら、ノアは動かない唇の内で血を吐くように叫んでいた。
(止まって……! 僕の風……止まってよ……!!)
けれど、御子柴の術式に支配された力は止まらない。
むしろ、背後の巨大な【瘴気核】とノアの風が共鳴し、空気循環パイプを通じて地上へと破滅の風が逆流しようとしていた。
味方を自らの手で皆殺しにしてしまう――。
かつてない、絶体絶命の地獄が仲間たちを呑み込もうとしていた。




