語られる神話
病室に差し込む青白い月明かりの下、大精霊様の声が僕の魂の深奥から静かに響き渡った。
『遥かなる昔――この地に溢れ出した濃密な瘴気を吸い上げ、循環させ、大地へと還すために、巨大な生命の柱として【世界樹】は出現いたしました』
大精霊様の言葉に呼応するように、僕の意識の裏側に、息を呑むほど壮大な太古の情景が広がっていく。
『その世界樹の循環を司る管理者として、まず私と、風・火・雷・水・土の五大精霊が生まれました。そして少し遅れて……世界の陰陽を保つため、光と闇の精霊が誕生したのです』
『……光と、闇……』
『ええ。生まれたばかりの二人は、まだ己の力も制御できないほど幼く、そしてとても気難しい性質を持っていました。その二人を、自分の妹や弟のように甲斐甲斐しく世話をし、その小さな体で率先して慈しみ育てたのが……他でもない、風の精霊である貴方だったのですよ、ノア』
ふっと、胸の奥が温かな熱を帯びた。
誰よりも優しく、誰からも好かれていた小さな風の少女。
他の精霊たちとは衝突ばかりしていた幼い光と闇の精霊も、風の少女にだけは心を開き、雛鳥のように懐いていたという。
『やがて世界樹の周囲には人々が集い、学園都市の原型が築かれました。探索者たちが世界樹に潜り、モンスターを討伐するようになったのです。……ご存知の通り、瘴気とは濃度が高まるとモンスターという実体を持った生命の形を成します。ゆえに、人々がモンスターを討伐することは、結果として精霊たちだけの手によるよりも遥かに効率的な瘴気の浄化をもたらしました』
人と世界樹が共存し、平和な循環が続いていた。
だが――大精霊様の声音が、痛切な影を帯びて低くなる。
『けれど、均衡は破られました。地下の最も深い領域に、人知を超えた巨大な瘴気だまりが生じ……それが、ひとつの凶悪極まりない化け物へと変貌を遂げてしまったのです』
『化け物……』
『その前兆は、奇しくも今と酷似していました。ダンジョン外へのモンスターの異常流出、瘴気による野生種の狂暴化……。当時の学園都市側でも、地下最奥からかつてない強烈な瘴気の噴出が観測されていたのでしょう。今回の異変の原因が地下最奥にあると睨まれているのも、過去に同じ前例があったからに他なりません』
息を呑む僕の隣で、イグニスが腕を組み、忌々しそうに焔を揺らした。
『あの戦いは、文字通りの地獄だったぜ。大精霊様の力をもってしても、完全に滅ぼすことは叶わなかった。俺たち五大精霊、そして光と闇……世界樹の全精霊が持てるすべての力を合わせ、やっとの思いで封じ込めるのが限界だったんだ』
『……そして、その代償はあまりにも大きかったわ』
アクアリアが、悲哀に満ちた声を重ねる。
封印の儀式は熾烈を極めた。
荒れ狂う瘴気の嵐の中、まず光の精霊が敵の猛撃を浴び、最奥区画の彼方へと吹き飛ばされて行方不明となった。
そして――封印の要となっていた闇の精霊ノワールが、底なしの瘴気の泥濘へと呑まれかけたその瞬間。
身を挺してノワールを突き飛ばし、代わりにその身を貫かれたのが、風の少女――ノアだったのだ。
『……風は、胸を穿たれ瀕死の重傷を負いました。私たちは辛うじて敵を封じることには成功したものの、風の傷はあまりにも深かった。肉体を保てなくなった風の魂と核を、私たちは最も魔力の満ちる世界樹の裂け目へと安置し、長い年月をかけて癒えるのを待つしかなかったのです……』
大精霊様が静かに告げる。
『ノワールは、貴方が致命傷を庇ったことで命を拾いました。けれど……瀕死の貴方を見届けた後、激しい自責の念に囚われたのか、彼はどこかへ姿を消してしまったのです。光も、ノワールも失われ、風は眠りについた……』
そして時は流れ――現代。
パーティの裏切りに遭い、死に瀕して世界樹の裂け目へと転落してきた僕――アルトの肉体と、何百年もの時を経てようやく傷を癒やしつつあった風の精霊の核が、極限状態で惹かれ合い、ひとつに融合した。
それが、今の『ノア』という存在の真実だった。
(……っ……)
大精霊様たちの言葉を聞くうちに、僕の脳裏に、分厚い氷が解けるようにして確かな記憶が蘇っていた。
いつも不機嫌そうに眉をひそめ、無口で、ぶっきらぼうだった少年。
すぐにカッとなってイグニスやフルグルと喧嘩ばかりして、そのたびに僕が間に入って叱りつけていた。
けれど――傷ついた小鳥を見つければ不器用な手つきで介抱し、僕が疲れて眠っていれば、起こさないようにそっと外套をかけてくれるような、誰よりも繊細で心優しい少年。
ノワール。
僕が育て、僕を慕い、そして僕が命を賭して守り抜いた、大切な大切な家族。
胸の奥から、言葉にならない熱い感情が込み上げてくる。
アルトとしての僕の理性が、そして魂の根底に宿る風の少女の心が、まったく同じひとつの想いに震えていた。
(そうか……。助けたいんだな、彼を)
僕の中のノアが、泣き叫ぶように彼を求めているのを確かに感じる。
そして、アルトとしての僕もまた、仲間を見捨てて逃げることなど、死んでもしたくはなかった。
「……あの子は、まだ生きてる」
僕はぎゅっとシーツを握りしめ、前を向いた。
「どういう理由かは分からないけれど、瘴気に呑まれてしまっている。でも……ゲート前で僕の姿を見た瞬間、あの子は苦しそうに顔を歪めて、攻撃をやめて消えたんだ。中身はまだ……ノワールの魂は、絶対に消えてない!」
僕の力強い言葉に、フルグルがバチッと雷光を弾けさせた。
『当たり前じゃん! ノアっちが助けに行くって言うなら、アタシはどこまでだってついてくよ! あの馬鹿のケツを引っ叩いて、正気に戻してやらなきゃ気が済まないかんね!』
『フン、まったくだ。いつまで瘴気に当てられて寝ぼけてやがるってんだよ。俺の焔で目を覚まさせてやるさ』
イグニスも不敵に笑い、テラも寡黙にだが、温かな波動で力強く背中を押してくれる。
精霊たちの温かい絆に胸を熱くする僕へ、大精霊様が厳粛な口調で続けた。
『ええ、必ず助け出しましょう。……ですがノア、残された時間はあまり多くありません』
『時間……?』
『瘴気の影響を過剰に受け、モンスターに近づいた今のノワールは……本来は見えないはずの精霊の姿が、人間にも目視できるほど物質化してしまっています。もし彼が再び現れ、都市や探索者たちに甚大な被害を出してしまえば……ギルドや人類側から【討伐すべき災害指定モンスター】として正式に認定されてしまうでしょう』
大精霊様の声音に、焦燥が滲む。
『そうなってしまえば……人類の総力を挙げた討伐作戦が始まります。そうなれば、我々の力をもってしても、彼を庇いきることはできなくなってしまう。……人類の手で彼が完全に消滅させられる前に、何としても迅速に彼を見つけ出し、瘴気を浄化して助け出さねばなりません』
「……っ」
タイムリミットが刻々と迫っている。
ノワールは今もどこかで、瘴気に精神を苛まれながら、独りで苦しんでいるのだ。
もう二度と、あの子の手を離しはしない。
「行こう、みんな」
僕は月を見上げ、静かに、けれど鋼のような確固たる決意を胸に刻み込んだ。
「僕たちの手で……必ず、ノワールを救い出すんだ」




