夏のそよ風
「ほらっ終わったぞ」
ふわっと膨らんだ髪を触りながら振り向きナツは「ありがとう」とトオルに言った。
しばらくこの個室で漫画やゲームをしながら過ごした。
夜中の1時だというのに眠気を感じない。
それよりもトオルはもしかすると離れ離れになるかもしれないナツと少しでも一緒にいたいと願うばかりだった。
まるで明日で世界が滅ぶかのような気持ちで、2人は2人だけの時間をこの小さな空間に残し、外にご飯を食べに出た。
ナツの「牛丼が食べてみたい」と一言にトオル達は安くて早い牛丼屋へ向かった。
席に座り、牛丼を2つ頼むとあっというまに2人の目の前に置かれた。
ナツは一口食べると「おいしい」とだけ言いもくもくと食べ続ける。
「今まで食べた事なかったのか?」
「うん、この食べ物の存在自体知らなかった」
「おいしいだろ?これで230円だぜ」
「日本はおいしい食べ物がたくさんあって、好き」
「アメリカにも美味いモノはあるだろ?」
「私にとってはない。飽きるものばかり・・・」
「どうして日本に来たんだ?」
「パソコンで白くて細長いものを見たの」
「白くて細長いもの?」
「日本人は夏になるとそれを食べるみたいなの、私はそれを食べたくて来た」
「もしかして、そうめんの事か?」
「そう、トオル・・・私それが食べたい」
「そういば僕も今年は食べてなかったな。よし、鈴本さんに言ってみんなで流しそうめんでもするか!」
ナツは箸を置き、トオルの顔をじっと見て言った。
「なら、私はここに残ることになるわね」
その時、トオルは固まった。
自分の事は自分で決める。それがトオルの答えだった。何事ももちろんナツと父親の事も・・・
でも、これが本当に正しい答えの導き方とは限らない。
時には周りの人間が他人の事を決めることもある。
ナツが問題なら、トオルは回答。
すでにナツの答えは出ていた。あとは、トオル自身がナツをどうしたいかだった。
アメリカに行かせるのか、それとも日本に残すのか。
ぼーっとするトオルにナツはそっと手を握り言った。
「私の好きな所があるの、それをトオルに見せたい」
2人はその場所へと歩いて行った。
長い道のりを歩き、道は次第に凸凹道の大きな木がある方へとなっていった。
「東京にこんな道なんてあったのか?」
「もうすぐよ」
しばらく進むと「着いた」とナツが言う。
そこは少し坂道を登った場所だった。
足元には雑草が生えており、人の気配がまったくない。
そこからは東京の輝く街並みが微かに見える。
「すげー綺麗だな!!」
「トオル知ってた?ここはみずき荘の近くなんだよ」
「えっ」
よくよく景色を見るとみずき荘の屋根が見える。
「私はここが好き、みずき荘の皆もだから日本を離れるたくない」
2人が立つ場所に下から上へ心地よいそよ風が吹く。
トオルはカラカラの喉を潤すために唾を飲み込みナツに向かってあることを言おうとした。
「ナツ・・・」
でも、すぐにその気持ちも飲み込み「なんでもない」と言いごまかした。
今はまだ言う時ではない。
トオルの中で生まれた感情をまたいつものようにかき消される。
この悔しさを拳に溜めて、強く握った。
ここから見る景色を最後に2人はみずき荘に戻り、明日を迎える。
朝7時ごろナツの父親が乗る黒い車がみずき荘の前で停まる。
外ではナツそしてその後ろにはトオル達もいた。
車から父親が出て来るとさっそうにナツの目の前に向かい言った。
「さぁ帰るぞ」
「私は帰らない」
ナツは感情を表に出さずに口だけを動かし言う。
「日本のどこがいい?料理の味は薄いし、くだらない物まで値段が高く、日本人には元気が感じられん。そんな日本のどこがいい?」
その質問にナツはこう答えた。
「私はこの日本にある小さな家にいる皆が好き、だから帰らない」
「まったく友達を大切にするとは、日本に来て大人しかった性格のお前は変わったな。いいか世の中大切なのは友達じゃないんだ。友など言葉だけの存在だ」
我慢できなくなったトオルはナツの前に出て言った。
「お、お父様!お言葉ですがそれは間違っています」
「トオル・・・」
「た、確かにお父様のようにご立派な方は友よりもビジネスの相手の方が大切です。でも、僕たちはまだ社会にも出ていないどうしようもない人間です。おそらくお父様の会社には雑用としても雇ってもらえないかもしれません。それでも、僕たちみずき荘の皆はお互いを助け合い、励まし合い、時に辛いことでもめることもあります。その輪の中にはいつもナツもいます。これはナツだけの判断ではありません!僕たちみずき荘の住人の答えです!だからナツの言葉を受け取ってください!」
トオルはナツの父親に深々と頭を下げて言った。
父親はじっとトオルの格好を見た。
トオルの後ろでは、鈴本とサルも頭を下げている。
管理人の2人もドアから心配そうに見ている。
しばらくして父親が口を開く。
「私はその動作を見るのが苦手だ。仕事上でも日本人に深々と頭を下げられると嫌でも同意したくなる。それは私の弱点でもあり、日本のいいところでもあり、そしてお前達の思いでもある」
トオルはそれを聞き、ゆっくりと頭を上げる。
「それじゃ、許してもらえるんですか?」
「今だけはな・・・」
トオルは笑ってもう一度深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございます」と
父親が乗る車が出るとトオルは肩の力を一気に抜いた。
「はぁー本当に疲れた~」
「なかなかかっこよかったぞ!」と鈴本達が近づいてくる。
「鈴本さん達も何か言って、助けてくれるかと思ったのに」
「勢いよく前に勝手に出たのはトオル君だろ」
照れるトオルの服をナツは軽く引っ張る。
「ん?どうした?」
「トオルかっこよかった」
その言葉を聞き、トオルの顔はさらに真っ赤になる。
「どうして赤くなるの?」
「べ、別になんでもねーよ。それより鈴本さんナツが流しそうめんしたいって!」
「おーそういえば食べてなかったな~よし朝早く起きたんだ!竹を使って本格的にやりますか!」
「本当ですか!?よかったなナツ!」
ナツの頬は少し上がり、笑っているように見えるが心の中ではきっとすごく嬉しいのだろう。
いつの間にかトオルとナツは、まるで友達同士のように話せる仲になっていた。
でも、トオルの気持ちはナツの心理まで知りたくなっていた。
トオルの抑えきれない気持ちは夏の気温のようにぐんぐん熱く上昇していく。