わたしの胸騒
願いが通じたのか、わたしとロキ殿下は二人きりの世界を構築するのに成功していた。
適度に踊り、疲れれば端に避けて飲み物や軽食を楽しみながらお喋りをする。わたし達のような男女は他にもちらほらいるようだった。
不特定多数との社交に熱心なのは、恋人のいない王侯貴族の子女だろう。そういった積極性がないのは、すでに決まった相手がいるか……あるいは、話しかけるなといった空気をいかにも醸し出しながら壁を向いてあっちに立っているヴェイセル先輩のような変わり者に違いない。
今のわたしは“カーレン”なので、先輩に声はかけないことにする。先輩も邪魔をされたくないだろう。
ここはあくまでも未婚の王侯貴族の見合いの場であるという認識からか、ロキ殿下もことさら彼に構おうとはしなかった。……それにしてもなんで来たんだろう、ヴェイセル先輩。
壁の華につとめているのはエルセ皇女も同様だ。近寄る貴公子達を冷めた目で追い払っている。今日はオフェリヤと一緒じゃないらしい。
エルセ皇女の傍には、彼女に似た小さな女の子がいる。きっと第二皇女様だろう。緊張しているのか、エルセ皇女の後ろに隠れてきょろきょろと周囲をうかがっていた。
「まあ、ロキ兄様! それにカーレン様も。ご機嫌麗しゅう」
「ご機嫌よう、オフェリヤ様」
貴公子達を引き連れた大輪の花がやってくる。オフェリヤだ。
エスコート役はルークス君だけど、オフェリヤ節はここでも健在らしい。ただ、さすがにユリウス殿下はいなかった。その程度の分別はユリウス殿下にもあるということだろう。
「人気者だな、オフェリヤ」
「皆様、わたくしとお話ししたいんですって。光栄ですわ」
当然、貴公子達をキープしているオフェリヤには嫉妬の視線が集まっている。それでもオフェリヤは欠片も気にした様子を見せていない。出自は隠されているとはいえ、さすがはエイル様のご息女といったところか。
「カーレン様のお召しになっているそのドレス、とても素敵ですわ。よくお似合いでしてよ」
「ありがとう存じます。ロキ殿下が用意してくださったんですよ」
「まあ! それならきっと、マダム・ペルティエの作品ですわね。ヘズガルズ王室御用達の仕立て屋は、帝国でも有名ですもの。わたくしも仕立ててほしいくらい」
にっこり微笑むオフェリヤとは対照的に、ルークス君以外の取り巻き達はロキ殿下に警戒するような眼差しを向けている。もっとも、彼らは互いが互いを牽制しているようなものなので、目下のところ一番の敵は何故かオフェリヤをエスコートしているルークス君だろう。
それに一切動じないルークス君の胆力には脱帽だ。彼らが水面下でオフェリヤのエスコートを買って出る権利を巡って争っている中、さっそうとオフェリヤの手を取ったであろうルークス君を思うとちょっと面白かった。いや、非公式とはいえ婚約者を見せつけられてもまだ諦めない取り巻き達の健気さを褒めるべきかな。
「せっかく皇帝陛下が催してくださった舞踏会ですもの。お互い楽しみましょうね、オフェリヤ様」
この人は貴方達の敵ではないと取り巻き達に示すため、ロキ殿下に寄り添って微笑む。
殿下もわたしの意図を汲み取ってくれたのか、わたしを抱き寄せてオフェリヤに別れを告げた。
オフェリヤもひらひらと手を振って別の場所に移動したため、取り巻き達は慌てて彼女の後を追っていった。次の曲が始まる。オフェリヤは取り巻きの中から踊る相手を選ぶらしい。
「すごいですね、オフェリヤ様。未婚のご令嬢に恨まれそう」
「それがそうでもないんだよ。あの子、取り巻きは顔や身分じゃ選ばないからな。外見と権力だけがとりえの高慢な男はお呼びじゃないらしい。今日も何人の貴公子を袖にして、その鼻っ柱をへし折ってきたんだか」
そういえば、取り巻きの面々にはいまいちぱっとしない男性もいた。ああ見えてオフェリヤは性格重視なんだろうか。
「オフェリヤがいれば自分の眼中にない男はそっちに夢中になってくれるし、本命の貴公子も狙われないからって、一部のご令嬢にはありがたがられてるぐらいだ。……もちろん、あの子の振る舞い自体が気に喰わない真面目なご令嬢も多いわけだが。上昇志向の強いご令嬢からは論外扱いされる男だって、誰にとっての眼中にないってこともないしな」
「より強く恨むとすれば、もてあそばれた貴公子のほうでしょうか?」
「あの子は皇帝陛下の腹心の愛娘で、皇太子のお気に入りだぜ? おまけに横で騎士団長の息子が睨みを利かせてるんだ。もしオフェリヤを害する気概のある男がいるならぜひ見てみたいな。そいつが道を踏み外す前に、喜んでその恋を応援してやるよ。だって面白いじゃないか」
ロキ殿下は心の底からそう思っているようだ。オフェリヤを取り巻くいびつな関係について、わたしが口を出すことではないだろう。ユリウス殿下とルークス君とオフェリヤが納得ずくなら、きっとそれでいいんだから。
ホールの中央に人だかりができている。ユリウス殿下が誰かと踊っているらしい。透き通るような水色の髪の、小柄でおとなしそうな女の子だ。
「彼女がミナギサの姫君だ。エルセとファーストダンスを踊ったきり、誰とも踊ってなかったはずだが……ようやく動き出したみたいだな、ユリウスの奴」
「やはり、ユリウス殿下としてはあの姫君を本命に据えるおつもりなのでしょうか」
「いや、一曲だけじゃまだわからない。選考を通った姫君は他にもいるからな。彼女達にも機会は与えられるべきだろう? ユリウスが踊り出したのは別の理由だ」
ロキ殿下は視線を上へと向ける。つられてわたしもそちらを見た。
ホールを見下ろせる階段の上に、人が二人立っている。階段の上には手すりのついた通路があって、別室に続くドアがあるから、きっとそこから来たのだろう。
深紅の髪の妖艶な男性と、桃色の髪の美しい女性。豪奢な正装は彼らの身分を如実に表す────ノルンヘイムの皇帝夫妻だ!
ホールを睥睨する皇帝陛下と不意に目が合った気がした。ほんの一瞬だけのことだ。けれどその暗い紫の目に射抜かれた時、嫌な汗が背中を伝った。これだけ離れているのに、すぐ傍で跪かせられているような威圧感。思わずロキ殿下の手を握ってしまう。
皇帝陛下はわたしのことなんてちっとも興味を持っていないようで、視線はすぐに外された。でも、もし本当に眼前に呼び出されていたら……。
「大丈夫か、カーレン」
「え……ええ。少し驚いただけです」
「恐ろしいだろう? 俺も苦手なんだよ、伯父上のこと。あの人は……なんて言うのかな。絶対の覇者、運命の勝者みたいな人だ。あの人が目的を持って何かするなら、それは必ずそういう風になる。少なくとも俺の知る伯父上はそんな人だ。だから、俺にとっては伯父上のやることなすこと全部が予定調和に見えてつまらないんだよな」
ロキ殿下は肩をすくめた。ロキ殿下にも相性の良し悪しという概念はあるらしい。皇帝陛下はロキ殿下の後見人でもあるから、絶対に逆らえないという状況が余計にもどかしいのかもしれない。
「審査員が増えたから、ユリウスも二次選考を始める気になったんだろう。結果は最初から決まっていて、あの二人に披露するためのパフォーマンスなだけなのかもしれないけどな。……伯父上と伯母上に監視されながらだと踊りづらいし、少し夜風に当たってこないか?」
「構いませんよ。ちょうど静かな場所に行きたいと思っていましたし」
連れ立ってホールを出た。テラスなり庭園なりに移動する二人連れは珍しくはなく、悪目立ちはしていない。
月光に照らされた庭園の散策をしていると、世界にわたし達二人しかいないような錯覚に陥る。わたしの歩みに歩調を合わせるロキ殿下は、その美貌を月光に照らされているせいかひどく神秘的に見えた。
けれど、穏やかな時間は長く続かない。近くから女性の悲鳴が聞こえた。殿下はとっさにわたしを庇い、周囲を見渡す。近くに怪しい影はない。
「少し見てくる。カーレンはどうする?」
「お邪魔でなければ、ついていって構いませんか?」
わたしをここで待たせておくか、傍でいつでも守れるようにするか。ロキ殿下が選んだのは後者だ。わたしに気を配りつつ、殿下は声のするほうを目指した。
薔薇の生垣の上で、黒髪の女の子がしりもちをついている。身なりからしてどこかのご令嬢だというのは間違いない。けれど、他に誰かいたような様子はなかった。
「大丈夫か?」
ロキ殿下が声をかけると、その令嬢は驚いたように目を見開いた。真っ赤な顔で「ご心配なく。蛇に驚いただけですもの」と言う彼女に、殿下は自然な様子で手を差し伸べる。
……何故だろう。胸がざわつく。倒れ込んでいる人を前にして、素通りするほうがおかしいのだと頭ではわかっているのに。
令嬢は殿下の手を取って立ち上がった。ドレスを含めた令嬢の重みで、生垣はその部分だけぐちゃぐちゃだ。布をふんだんに使ったドレスのおかげで彼女に怪我はないようだけど、ドレスは少し破れてしまっていた。
「どうしましょう。このようなあられもない姿では、とても会場に戻れませんわ」
「付き人はいないのか? なるべく人目につかない道を通って、部屋で着替えてくれば大丈夫さ。道はわかるか?」
令嬢は頬を染めたままふるふると首を横に振る。「付き人がいると監視されているようで息が詰まって、置いてきてしまいましたの」最初は、恥ずかしいところを見られた羞恥から顔が赤くなっていたのかと思ったけれど……本当に、そうなんだろうか。
すると殿下は彼女にご自分のテールコートを羽織らせて、「彼女を案内するから、カーレンも来てくれないか?」とわたしを振り返った。とっさのことに頷くしかできない。殿下を一人で彼女と行かせて、他人にあらぬ誤解をされたら誰にとっても不幸なことになる。
令嬢は、転んだときに足を痛めたと言って殿下にしなだれかかった。殿下は困ったようにわたしを見る。だからわたしは咳払いして二人の間に立って強引に彼女の手を取り、「行きましょう?」と微笑みかけた。
そのせいで令嬢は気分を害したらしい。わたしの手を振り払い、殿下の後を追って歩き始める。その歩調はしっかりしていて、とても足を怪我しているようには見えなかった。
殿下はヴァンペル城に詳しいらしい。迷いない足取りですいすい庭園を進んでいく。城内に戻って令嬢が自分の客室を伝えると、的確に人気のない通路を選んであっという間に送り届けた。
室内に使用人はいない。部屋付きの使用人も、彼女自身が連れて来たらしい使用人もだ。もしかしたら、この子を探して右往左往しているのかも。付き人を撒いてきたらしいし、ありえないことではなかった。
それじゃあわたし達はこれで、と部屋を出ようとする。大事ないようだし長居は不要だ。
「ねえ、お名前ぐらいは教えてくださらない?」
ご令嬢の目はまっすぐにロキ殿下を見ている。その瞳に宿る熱量を、殿下は察したようだった。
「名乗るほどの者でもないさ。それじゃあお大事に、レディ。あまり付き人達に心配をかけさせるなよ」
じゃあ戻ろうか。人当たりのいい笑みを浮かべたまま、殿下はわたしの手を引いた。伝わる温度にほっとする。
廊下を歩きながら、殿下はちらりとあの客室を振り返った。
「生垣の件を連絡してこないとな。悪気があったわけじゃないだろうが、下手人ぐらいは把握させたほうがいいだろう」
「どこのどなたかご存知なのですか?」
「いいや。だが、あてがわれた客室が割れたからな。城の人間に部屋を伝えれば、どこの誰かなんてすぐにわかるだろうさ」
確かに。
薔薇の生垣、無事に修繕されるといいんだけど。