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「何、アドリアン兄上があの扮装をしてくださると言われたのか? でかしたぞ、リル!」
翌朝、私が登校して成果を報告すると、ジョルジュが躍りあがって喜んだ。
「これで勝ちは決まったようなものだ、例の部屋もおさえられたしな」
「ジョルジュが言ってた、最高の立地にある教室のこと?」
「ああ、ちょうどいいから皆で下見に行かないか?」
「行く行くっ」
皆がきゃあきゃあ言って賛同する。
得意顔のジョルジュが、さあ、こっちだ、と、クラスの皆を本校舎の二階へと案内した。玄関ホールの正面階段をのぼってすぐ右の好立地。一番客たちの通りでにぎわう一等地だ。
「すごい、さすがジョルジュ! よくこんなところ、おさえられたね」
「ふふふ、まかせておけ! だてに統括委員どもの弱みを握ったわけではない!」
ストーカーをやったのか。
優しい気持ちでそこは聞き流して、皆で扉を開けて入ってみる。
広い、板間の平面教室だ。
これなら隅を衝立でしきって厨房にしても、五、六人がけのティーテーブルが十個以上入る。喫茶として申し分のない広さだ。
しかも看板をさげると目立ちやすい中庭に面した窓や、客が入りやすい広い両開きの扉、優雅な雰囲気を醸しだす細かな木彫りの装飾がついた柱や腰板と、居心地の良い喫茶店の条件をすべてクリアしている。
さすがはアドリアンの追っかけで、学院内のあらゆる見学ポイントを極めまくっているジョルジュの推薦だ。
「しかもそれだけではないんだ、この部屋の売りは」
もったいぶって言ったジョルジュが、房飾りのついた緞帳がおろされた窓に近よる。
「ここの一番の売りは景色だ。当日、客たちの休憩場所に開放される中庭を見おろせるんだ。ここに代わる部屋は学院中探してもどこにもない」
「へー、そうなんだ」
「ジョルジュ、見せてよ!」
いいとも、と、ジョルジュが緞帳を開け放つ。歓声をあげて、窓の外をのぞきこんだ私は、次の瞬間、ぐらりと体が揺れるのを感じた。
中庭に噴水があった。
壺を抱えた女神像が清らかな水を広い大理石の池に注いでいる。その光る水面が眼下に広がって、こちらにゆらゆらと揺れる反射光を送ってきている。
水、だ。
大量の。
すっと視界が暗くなった。心臓がばくばくと脈打ちはじめる。息ができない。冷たい汗が噴きだす。助けを呼びたいのに声がでない。
はしゃいで窓にとりつく皆の後方で、私の体が揺れた。立っていられない。無防備に固い床めがけて倒れかかる。
「リル!」
頼もしい声がして、誰かが体を受けとめてくれる。
アドリアンだ。
彼が半分意識のない私の体を受けとめてくれていた。
そして彼は私の体を胸に抱きこむと、窓からの光景を遠ざけるように向きを変えた。腕をのばして、分厚い緞帳を音をたててしめる。
眼に水面の揺らめく光がうつらなくなって、やっと私の動悸がおちついた。
「大丈夫かい、リル」
心配そうにアドリアンが顔をのぞきこんでいる。その優しい瞳にほっとした。
どうしてあんなに怖かったのだろう。まだ体がふるえて声がでない。それに水面を見た一瞬、誰か小さな男の子の姿を思いだしかけたような。
「リル様?!」
「大丈夫ですの!」
異変に気づいた皆が振り返る。
するとアドリアンが私を抱いたまま立ちあがった。
「リルは大丈夫だけど、今日は念のためもう帰るよ。それと、このとおりリルは体が弱いんだ。学院祭当日は、客席にはださないで、厨房係にしてくれるかな」
「え、でも」
「これは担任の決定だよ」
強い口調で言ったアドリアンが、そっと私の耳元に唇をよせてささやく。
「だって僕以外の人の相手するの、やっぱり嫌だから。リル、言うことを聞いてくれるね?」
違う。
冗談めかしているけど、アドリアンの本当の目的は私に中庭を見せないことだ。正確には、あの、噴水周りに張られた水を。厨房は衝立で客席と区切るから中庭は見えない。
ぞくりとした。
(わ、たし、どうして水が怖いの?)
それは前の体の記憶?
(それに、どうしてアドリアンは私が水が怖いことを知っているの?)
さっきの動きはそのことを知っていないとできなかった。私本人ですら今日はじめて知ったことなのに、何故?
私はアドリアンを見つめた。
彼は優し気な笑みを浮かべて無邪気なふうをよそおっている。でも違う。この人は何かを知っている。そして隠している。〈リル〉の知らないことを。
問いたい。でも問えない。
どうしてか、すごく怖い。彼が真実を知っていながら話さない、その理由を知るのが。
私は口を動かすこともできず、アドリアンの胸にしがみつく。
そんな二人を離れた場所から見つめる眼がある。
一同の騒ぎを、廊下からうかがう大勢の気配。三期生の二組だけがおこなう〈喫茶合戦〉に乗り遅れた形になった、他の生徒たちだ。
学院祭の優勝組には、王がじきじきに褒章をくだす。
貴族社会で大きな意味を持つ催しだ。ここでの勝利はそのまま将来に響く。ただの子どものお遊びと割り切るわけにはいかない。
リーダー格の女生徒の一人が、悔しげに歯を噛みしめる。
「見てらっしゃい。勝ち誇っていられるのも今の内よ、お父様に頼んであるのだから。陛下のお耳にあなたの変なところ、たっぷり吹き込んでくださるように」
ちょうどその頃、同じ王都にある王宮では。
重臣の一人が世間話を装って、若き王の耳に学院祭の話題をだしていた。言葉巧みに、コスタス家の令嬢がもたらした騒ぎを伝える。
「ほう」
その言葉を聞いて、王は興味深そうに眼を光らせた。
「……コスタス侯爵には決して誰の眼にも触れさせず溺愛している妹がいるとは聞いていたが。そんな破天荒な娘なのか。おもしろい」
王の瞳に浮かんだ好奇の色に、重臣は失策をさとる。
王はまだ若い。そして妃はいない。
そこへコスタス家という妃すら輩出できる家の娘に注意をひく愚を犯してしまった。
王が笑う。
「学院祭の模擬店、とはな。コスタス家の家職は外交。他国の使節をもてなすことにより余に仕える家柄。お手並み、拝見といこうか……?」
王宮深くでかわされた会話を、私もアドリアンも知らない。
学院祭の勝負は思わぬところへ波紋をなげかけ、事態は急変しようとしていたーーーー。




