4(最終話)
魔物は神殿本堂の扉の前に立った。
その場所は最も魔物を排する結界の強い場所だった。並みの魔物では本堂に入ることはおろか、神殿の結界すら破れない。けれど、それが全く通用しない魔物が、この世に一握り存在する。黒翼の魔物はその一握りの中に位置していた。
物々しい警備すらもかいくぐり、たいした力も使うことなく侵入を果たした黒翼の魔物は、門番をくびり殺した後ゆっくりと扉を開いた。
魔物の侵入に気付いた者はいない。しんとした広い本堂の中に扉を開く音だけが響いた。人の気配すら感じられないその奥に、ひとつ、天を仰ぎひざまずく小さな影があった。
天井の明かり取りから光が降り注いでいる。それはその下にいる一人の巫女を淡い光で染め上げていた。
祈りを捧げる巫女の後ろ姿に、魔物は確信する。
あれだ。
空気に溶け込むようにそこにいる巫女から人の気配はほとんど感じられないのに、清浄な力が彼女を取り巻き、確かにその存在を示していた。
力に溢れた輝くような命を持つ巫女だ。
魔物はそれを感じ取る。
数年前しがみついてきた少女は姫巫女となり、魔物を厭うようになったのだ。
そう思うと魔物はその小さな背中に憎しみさえ覚えた。
許しがたい。
その体を血で染めてやろう。至上の痛みを与え、彼女を生きたまま刻み、胸を突き刺し心臓をえぐり出し喰らってやろう。
そしてゴミクズのように犬にでも食らわすか。
それともおまえは俺の贄だという事を思い出させてやろうか。
ああそうだ、思い出させてやろう。おまえは俺の血肉となるのだ。無駄死になどさせてやらぬ。厭うた魔物に奪い尽くされ血となり肉となる屈辱を与え、俺の贄でしかないことを、この巫女に……。
怒りと興奮にとりつかれ、巫女をいたぶり殺す欲のままに動こうとしたときだった。
目の前の巫女が振り返った。
ただ、それだけだったというのに、黒翼の魔物はびくりとして体を強ばらせた。
その目から涙が溢れている。
おまえもまた、俺に怯えるのか。
先ほど殺した巫女の涙とよだれにまみれた醜い姿を思い出す。
おまえも醜く泣き叫ぶのか。
締め上げられ言葉すらまともにしゃべれなくなった神官を思い出す。
おまえもまた、醜く変わり果てたのか。
涙を流す巫女を見て、魔物は失望しかける。けれど、なぜ、同じように涙を流しているというのに、この少女の涙は美しいのか。
ゆっくりと視線をさまよわせた巫女が、魔物の姿をとらえる。だというのに、魔物はその間ぴくりとも動けなかった。
巫女が魔物の姿を認めた瞬間目を見開いた。魔物はその時、なぜ自らの体がこわばったのかも理解出来なかった。
巫女の視線が自身に釘付けになっているのを自覚しながら、強ばった体の動かし方を忘れたように、魔物は立ちすくんでいた。
ぞわぞわと体の芯が冷えるような感覚。それは、恐怖に似ていた。
魔物に対抗する力のない巫女相手に何をおびえるというのか。
「まも、の……?」
小さくつぶやく声がした。魔物の耳の奥に残るあの声とよく似た、その声。けれど幼さの抜けた、少し艶めいた声だ。
直後、姫巫女は驚いた顔でとっさに立ち上がった。その様子は逃げ惑う神官の姿を思い出させた。魔物の中に再び怒りがこみ上げる。
やはりおびえて逃げ惑うのか。どうあっても約定を違える気か。
許せぬ。
そう思った瞬間、姫巫女が思いがけない行動に出た。
「私のリベルタス……!」
五年前の面影を残したその女は、立ち上がるなり身を投げ出すかのように魔物に駆けよってきた。
切望するかのようなその表情、無防備に両手を広げ駆け寄ってくるその姿に、魔物は動くことが出来なかった。
神殿の巫女が魔物に対してなんの手段も講じないはずがない、そんなことを考えることすら出来ず、魔物は彼女を振り払うことも、よけることもせずに立ち尽くした。
そして、駆け寄ってきた巫女は魔物の胸元に飛び込むなり、その首にかきついた。
「迎えに来てくれたのですね……」
感極まったような巫女の声は、涙に震えていた。
魔物は状況が飲み込めず、腕の中に飛び込んできた柔らかく小さなぬくもりを確かめるようにそっと触れる。
おまえは、約定を違えたのではなかったのか。
その胸を貫こうとしていたはずの魔物の手は、今は力なく姫巫女の背中に回されている。
これは、自分の気をそらすためのそら言ではないかと魔物は頭の片隅で疑うが、首に腕を絡ませて離れまいとする姫巫女のぬくもりに、怒りも憎しみも疑惑も霧散してしまう。
「姫巫女様……!!」
突然神殿に声が響いた。息も絶え絶えに叫ばれたその声はようやくここまでたどり着いた老いた神官のものだった。
「門番が……!! 誰か!! 誰かはよう……!! 姫巫女様をお助けするのだ……!」
本堂の外がにわかに騒がしくなっていた。
「魔物よ! 贄は捧げたはず! なぜにここにおるのだ……!!」
「あの巫女の事か。あれは贄にあらず。約定は違えられた」
低い声であったが、その声は本堂の中においては十分すぎるほど大きく響いた。
魔物の腕の中で姫巫女が身じろぎ、その顔が険しくなった。
それに気付いた魔物の体がわずかに強ばる。魔物は怯えたのだ。彼女がその険しい表情を魔物に向け、その所行を非難するのではないかと。
なぜそう感じたのかは、魔物自身ですら分からなかった。簡単にくびり殺せるはずの巫女の思惑を、なぜ恐れるのか。
「贄でないというならば、なぜその巫女を殺す必要があった! 魔物よ、おまえはあの巫女を贄として受け取ったと言うことであろう!! 姫巫女様! お逃げ下さい! その魔物は贄の巫女を殺したのですぞ! あなた様が贄となる必要はございませぬ!」
老いた神官の恫喝は続く。
姫巫女の目はますます厳しさを増した。
だが、その険しい瞳は魔物に向けられることなく、老いた神官へと向けられていた。
「この方の贄はわたくし。亡くなった巫女にあらず! 巫女の死は約定を違えた神殿が生み出した不幸。魔物の仕業に非ず。初めからわたくしを差し出せばよい物を、いらぬ画策をした報いであろう!」
恫喝を返した姫巫女に、神官はひるむ。
「しかし、姫巫女様……」
「これ以上、手出しは無用! 約定は果たされる。さすればこの魔物とてお主らに手出しはすまい」
姫巫女が魔物を見上げた。
その瞳は愛しい物を見るかのように潤み、その表情は幸せそうに笑みさえ浮かんでいる。
「あなたの贄はわたくし。生かすも殺すもあなたののぞみのままに。どうぞ、私のリベルタス」。
巫女は魔物に体を寄せ恍惚の笑みを浮かべて魔物を見つめている。
ぞくぞくとした快感が魔物を満たした。
そうだ、この巫女は自分の物だ。何を怯えることがある。何を躊躇うことがある。この巫女がどのように感じようと、何を気にすることがある。
魔物はあざけるように笑った。
「町もろとも消してもそういえるか」
魔物は姫巫女の首に手をかける。
これは、俺の物だ。
力を込めれば簡単に殺せるのだと彼女の反応を伺う。答え次第ではひねり殺してやろうと思っていた。
けれど、そんな状況にあっても、姫巫女は愛おしむように魔物を見つめ、逃げようともしなければ、おびえもない。
魔物がのぞき込むように見つめる先で、姫巫女がわずかに愁いをたたえてうなずいた。
「あなたとの約定を違えようとした故の報いであれば、仕方ありません。わたくしもろとも消して下さいませ。あなたが与える運命であれば、わたくしはどのような物でも受け入れます」
そう言った姫巫女の瞳は、どこまでも真っ直ぐに魔物の瞳をとらえていた。
首に手をかける力を込めても尚、姫巫女は魔物をうっとりと見つめている。それはまるで信頼でもしているかのようであった。姫巫女は体を魔物に預ける。そして首を絞められる息苦しさに苦痛をにじませながら、姫巫女はその手を魔物の顔へと伸ばした。
「思い出の通り、美しい瞳……。わたくしの青空。わたくしのリベルタス……。やっと、あなたに触れられた……」
恍惚とした瞳がふっと閉じられる。そのまま気を失った姫巫女を魔物は抱き上げた。
五年前も感じた感覚が魔物の心を満たす。彼女がいるだけで感じる心地よさだった。
これが欲しかったのだと魔物は気付く。
死を前にしても微笑みを向けて来るこの少女が。自分のためだけに存在し、微笑むこの少女が欲しかった。この無条件に向けられる笑顔をもう一度見たかったのだ。
魔物は気を失った姫巫女を抱きかかえ、その小さく開いた唇に口付ける。
「姫巫女様……!!」
老いた神官が悲鳴を上げた。
「巫女に感謝するが良い。違えた約定は今、正しく果たされた」
魔物は姫巫女を抱きかかえ羽ばたく。
ガシャンと音がして、明かり取りの窓が破られた。重なった魔物と巫女の姿は、少女が切望した青く深い空の向こうへと吸い込まれていった。
神殿の内部は騒然としていた。
老いた神官の声を聞きつけて兵士達が集まってきている。
けれど、もう遅い。
がらんとした本堂に老いた神官だけが取り残されていた。
「魔物に、魅入られておいででしたか……」
神官は天を仰いだ。
魔物と姫巫女の姿は、もうどこにもない。
かわりに魔物の瞳の色によく似た空が、破られた窓の向こうに広がっていた。