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65話 峡谷の魔獣


 荒野を抜け、一行は巨大な岩山が連なる『竜の喉笛』と呼ばれる峡谷へと足を踏み入れていた。


 両側に切り立った断崖絶壁が迫り、空が細い線のようにしか見えない。

 風が岩肌に当たり、ヒューヒューと不気味な音を立てている。


 ザインの操る『陸亀ランド・タートル』は、ゴツゴツとした岩場をものともせず、安定した足取りで進んでいく。

 だが、甲羅の上の空気は張り詰めていた。


「……嫌な気配がするな」


 カノアが剣の柄に手を置き、上空を睨んだ。

 『心眼エイドス』に映る峡谷の景色は、無数の「敵意」の赤色で埋め尽くされていた。


 崖の上、岩の隙間、そして空の彼方から、飢えた視線が降り注いでいる。


「ここは野生の魔獣の巣窟だ。……ヴィオラ様の息がかかっていない、原始的な暴力が支配する場所だ」


 ザインが立ち上がり、鞭をだらりと下げた。

 その言葉に、ルミナが不安そうに身を縮める。

 彼女の膝の上では、ヒルダが浅い呼吸を繰り返している。熱は下がらない。ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。


「ザイン、アンタの調教術でなんとかならないのか? 調教師なら魔獣は得意分野だろ?」


 カノアが尋ねる。

 これまでの旅で、ザインはハウンドや影狼といった魔獣を意のままに操ってきた。

 今回も「伏せろ」の一言で解決できるなら、それに越したことはない。


 だが、ザインは冷淡に首を横に振った。


「無理だな」


「なんでだよ。調教師だろ?」


「私の能力、『支配領域ドミネイター』が及ぶのは、魔力や呪いによって生み出された『人工的な魔獣』だけだ」


 ザインは説明した。

 彼が使役してきた獣たちは、すべてヴィオラの魔力から生まれたものや、魔石から召喚された存在、あるいは自身の影を触媒にした式神のようなものだった。


 それらは「コア」に術式が刻まれており、ザインはその術式をハッキングすることで支配していたのだ。


「だが、ここの獣どもは違う。……自然発生し、野生の本能のみで生きている純粋な生物だ。支配すべき術式が存在しない」


「つまり……言葉も理屈も通じない、ただの腹を空かせたケダモノってことか」


「そういうことだ。……来るぞ」


 ザインの警告と同時だった。

 頭上の岩陰から、甲高い鳴き声と共に黒い影が急降下してきた。


 ギャアァァァッ!!


 翼開長5メートルはあろうかという巨鳥だ。

 『岩砕きロック・バード』。

 岩をも砕く鋭いくちばしと、鋼鉄のような鉤爪を持つ空の捕食者。

 それが一羽ではない。十、二十……群れを成して襲いかかってくる。


「ルミナ! ヒルダさんを頼む!」


 カノアが叫び、迎撃に出る。

 先頭の一羽がカノアに爪を立てる。

 カノアは『心眼』で軌道を読み切り、最小限の動きで回避すると同時に、すれ違いざまに翼を斬り裂いた。


 ザシュッ!


 巨鳥がバランスを崩して墜落する。

 だが、数は多い。

 次々と降り注ぐ凶鳥の群れ。


「チッ、鬱陶しい羽虫どもが」


 ザインが舌打ちをする。

 彼は鞭を一閃させた。


 ヒュンッ!


 空気が爆ぜる音がした。

 漆黒の鞭が生き物のようにうねり、空中に奇妙な軌道を描く。


 バシッ、バシッ、バシッ!

 ただの一振りで、三羽のロック・バードが同時に叩き落とされた。


 首、翼の付け根、そして心臓。

 急所を正確に穿たれた鳥たちは、悲鳴を上げる間もなく絶命する。


「……すご」


 カノアは思わず目を見開いた。

 魔獣を使役するだけではない。この男自身の戦闘能力が、桁外れに高い。

 鞭という扱いの難しい武器を、まるで指先のように操っている。


「感心している暇はないぞ。……右だ」


 ザインの指摘通り、右舷の死角から新たな魔獣が迫っていた。

 今度は崖を登ってきた巨大なトカゲたちだ。


「分かってるよ!」


空間転移バウンダリー・ステップ』。

 カノアはナイフを投げ、転移した。

 トカゲの背後に回り込み、首を刎ねる。

 カノアが近接を、ザインが中距離を制圧する。

 言葉を交わさずとも、二人の呼吸は奇妙なほど噛み合っていた。


 だが、敵は空と陸だけではなかった。

 陸亀の足元。地中から、ズズズ……と巨大な振動が伝わってくる。


「……下か!」


 カノアが気づいた時には遅かった。

 砂煙を上げ、巨大な『砂虫サンド・ワーム』が飛び出したのだ。

 丸鋸のような歯が並ぶ口が、陸亀の腹部――そして、その上にいるルミナとヒルダを狙って迫り上がる。


「きゃぁッ!」


 ルミナが悲鳴を上げ、ヒルダに覆いかぶさる。

 カノアは距離がありすぎて間に合わない。

 ザインも、空の敵を相手にしていて体勢が悪い――はずだった。


「……邪魔だ」


 冷徹な声。

 ザインは、見てすらいなかった。

 背後の気配だけで、鞭を手首のスナップのみで真下へと弾いた。

 黒い閃光が走る。


 ズドォォンッ!


 鞭の先端が音速を超え、衝撃波となって砂虫の口内に突き刺さった。

 脳天を貫かれた砂虫は、断末魔の痙攣を起こし、力なく砂の上へと崩れ落ちた。

 ルミナの目の前、わずか数センチの距離で。


「あ……」


 ルミナが震える瞳でザインを見上げる。

 彼は何事もなかったかのように鞭を戻し、付着した体液を振り払った。


「……ボサッとするな。まだ来るぞ」


 冷たい言葉。

 だが、その背中は、確実にルミナたちを守る位置に立っていた。

 敵を利用するための道具と言いながら、その行動はあまりにも過保護だ。


(……やっぱり、この人は)


 カノアは確信した。

 この男は、根っからの悪党にはなりきれない。

 妹を奪われた過去が、そして目の前のルミナという少女の存在が、彼の冷徹な仮面にひびを入れている。


「背中は任せた、ザイン!」


 カノアはニヤリと笑い、前方の群れに突っ込んだ。


「……指図するな、小僧」


 ザインは憎まれ口を叩きながらも、カノアの死角を狙う魔獣を的確に撃ち落としていく。

 その鞭捌きには、もはや迷いも容赦もなかった。


          ◇


 数十分後。

 襲撃してきた魔獣たちは全滅し、峡谷には死屍累々の山が築かれていた。

 陸亀は、その屍を乗り越えて進んでいく。


「ふぅ……。結構な運動量だったな」


 カノアが剣の血を拭い、息をつく。

 ルミナは、ザインに駆け寄った。


「あの、ザインさん……助けてくれて、ありがとうございます」


「……自分の身を守っただけだ。お前たちが死ねば、私も困る」


 ザインは素っ気なく答えるが、ルミナが差し出した水筒を拒絶することはなかった。


 彼は一口飲み、ふとルミナの顔を見た。

 砂埃で汚れた頬。恐怖に震えながらも、気丈に振る舞う瞳。

 その姿に、かつての記憶が重なる。


 『お兄ちゃん、守ってくれてありがとう』


 そう言って笑った、妹の最後の笑顔。


「……汚れているぞ」


 ザインは無意識に手を伸ばし、ルミナの頬についた泥を親指で拭った。


「え?」


 ルミナが驚いて固まる。

 ザイン自身も、自分の行動にハッとしたように手を引っ込めた。


「……さ……さっさと休め」


 彼はバツが悪そうに顔を背け、フードを深く被り直した。

 その耳が、心なしか赤くなっているのを、カノアの『心眼』は見逃さなかった。


(……なんだよ。結構いいとこあるじゃん)


 カノアは口元を緩めた。

 敵と味方という境界線が、少しずつ曖昧になっていく。

 この旅の終わりがどうなるかは分からない。

 だが、少なくとも今この瞬間、彼らは背中を預け合える頼れる「仲間」だった。


「見えてきたぞ」


 ザインが前方を指差す。

 峡谷の奥、切り立った岩壁の切れ目に、幻想的な青い光が漏れ出しているのが見えた。


「あれが、『星降る泉』への入り口だ」


 ついに辿り着いた。

 ヒルダを救う希望の地。

 だが同時に、そこにはヴィオラが配置した最強の守護者が待ち構えているはずだ。


「行くぞ。……ここからが本番だ」


 ザインの声に緊張が走る。

 カノアたちも表情を引き締めた。

 最後の試練が、彼らを待ち受けている。


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