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64話 野営の灯火


 夜が深まるにつれ、荒野の気温は急速に下がっていった。


 昼間の熱気が嘘のように、冷たい風が吹き荒れる。

 ザインは『陸亀(ランド・タートル)』を巨大な岩陰に停めさせ、休憩を指示した。

 魔獣とはいえ、休息なしに走り続けることはできない。


「……夜営だ。火を起こせ」


 ザインは短く告げると、自分は少し離れた岩の上に座り込み、周囲の警戒を始めた。


 カノアは手早く枯れ木を集め、小さな焚き火を作った。

 パチパチと爆ぜる火の粉が、闇の中に儚い明かりを灯す。


「ヒルダさん、寒くない?」


 ルミナが、ヒルダの額に手を当てる。

 依然として高熱が続いている。だが、手足は氷のように冷たい。


 肉体を取り戻したことで、彼女は再び「寒さ」を感じるようになっていた。

 それが今は、命取りになりかねない。


「……大丈夫……よ。ありがとう……ルミナ」


 ヒルダは弱々しく微笑んだが、その唇は紫色に震えている。

 ルミナは自分のローブを脱ぎ、ヒルダにかけてあげようとした。


 だが、ルミナ自身も薄着だ。

 吹き付ける夜風に、彼女の小さな肩が小刻みに震えているのを、カノアの『心眼(エイドス)』は見逃さなかった。


「ルミナ、無理するな。お前が倒れたら元も子もないぞ」


 カノアが自分の上着を脱ごうとする。

 だが、それよりも早く、頭上から何かが降ってきた。


 バサッ。


 重厚な黒いコート。

 それが、ルミナの肩をすっぽりと覆った。


「え……?」


 ルミナが驚いて顔を上げる。

 岩の上に座っていたはずのザインが、いつの間にかすぐ側に立っていた。

 彼は自分のコートを脱ぎ捨て、シャツ一枚の姿で腕を組んでいる。


「……風邪を引かれては、足手まといが増えるだけだ」


 ザインは視線を合わせずに言った。

 その声は相変わらず冷淡だ。

 だが、投げ渡されたコートには、微かに体温が残っていた。


「あ、ありがとうございます……でも、ザインさんが寒く……」


「私には耐性がある。さっき氷魔法を使ったろう。そういうことだ。……さっさと着ろ」


 有無を言わせぬ口調。

 ルミナは戸惑いながらも、その大きなコートに袖を通した。

 ブカブカだ。まるで子供が大人の服を着ているようだ。


 その姿を見たザインの目が、一瞬だけ細められたのを、カノアは見た気がした。


(……あいつ、今……)


 一瞬だけ、ザインの魂の色が揺らいだ。

 氷のような冷徹さの中に、温かい色が混じったような。

 それは、懐かしさと、後悔がない交ぜになったような複雑な色。


「……ふん」


 ザインは鼻を鳴らし、踵を返して元の岩場へと戻っていった。


          ◇


 深夜。

 ルミナとヒルダが眠りについた頃、カノアは一人で焚き火の番をしていた。

 パチパチという音だけが響く静寂。

 ふと、気配を感じて顔を上げると、闇の中からザインが現れた。


 彼は無言で焚き火の対面に座り、またナイフで木片を削り始めた。


「……寝ないのか?」


 カノアが小声で尋ねる。


「交代の時間だ。お前が寝ろ。……魔獣が近づいたら教えてやる」


「へえ。敵に寝首をかかれる心配はしてないってわけか」


「今のボロボロのお前に何ができる。……殺す価値もない」


 ザインは手元の作業に没頭している。

 削り出されているのは、小さな鳥の彫刻のようだ。

 無骨な手から生み出されるそれは、驚くほど繊細で美しい曲線を描いている。


「……意外だな」


 カノアは呟いた。


「何がだ」


「アンタみたいな冷血漢が、女の子に優しくするなんてさ。……さっきのコート、助かったよ」


 ザインの手がピタリと止まる。


「……勘違いするな。管理だと言ったはずだ。道具の状態を最良に保つのは、使い手の義務だ」


「道具、ねぇ。……ルミナを見てる時のアンタの目、道具を見る目じゃなかったけどな」


 カノアの『心眼』は誤魔化せない。

 あの時、ザインの魂から滲み出ていたのは、明確な「情」だった。

 あるいは、誰か別の人間を重ねて見ているような、切ない視線。


「……口が過ぎるぞ、小僧」


 ザインがナイフをカノアに向けた。

 殺気はない。だが、これ以上踏み込めば本気で斬るという警告が含まれている。


「お前たちがどう思おうと勝手だが、私は私のためだけに動いている。……情けなどという不純物は、とっくに捨てた」


「あっそ。……ま、そういうことにしておくよ」


 カノアは両手を上げて降参のポーズをとった。

 深入りはしない。


 だが、一つだけ確信したことがある。

 この男は、ヴィオラのような完全な悪ではない。

 心の奥底に、捨てきれない「人間らしさ」を隠し持っている。


「……寝るよ。見張り、頼んだ」


 カノアは横になり、毛布にくるまった。

 背中に感じる焚き火の温かさと、一定のリズムで木を削る音。


 不思議と、安心感があった。

 数日前までは殺し合った仲だというのに、今は背中を預けて眠ることができる。

 運命とは、分からないものだ。


 ザインは、カノアの寝息が聞こえ始めると、ふと手元の木彫りを見つめた。

 翼を広げた小鳥。

 かつて、妹が好きだった歌い鳥の姿。


「……似ているな」


 誰にも聞こえない声で、ザインは呟いた。

 無防備に眠るルミナの寝顔と、記憶の中の妹の笑顔。

 守れなかった笑顔。

 奪われた声。


 ザインは木彫りを握りしめ、夜空を見上げた。

 星が瞬いている。

 その光は、冷たく凍りついた彼の心を、ほんの少しだけ溶かすように優しく降り注いでいた。


          ◇


 翌朝。

 カノアが目を覚ますと、すでにザインは出発の準備を整えていた。

 昨夜の感傷的な空気など微塵も感じさせない、いつもの冷徹な表情で。


「起きろ。日が昇るぞ」


 ザインがカノアの尻を蹴飛ばす。


「いて!……ったく……。おはようの挨拶くらいできないのかよ」


「甘えるな。……今日は峡谷に入る。魔獣の巣窟だ。昨日までのようにはいかんぞ」


 ザインは地図を広げ、ルートを指差した。

 山脈の裂け目。

 『星降る泉』への入り口となる、危険な隘路(あいろ)。


「ここを抜ければ、目的地はすぐそこだ。……気合を入れろ」


 カノアは顔を洗い、剣の点検をした。

 ヒルダの容態は安定しているが、予断は許さない。

 ルミナも、ザインのコートを丁寧に畳んで返そうとしたが、「持っておけ」と拒否され、大事そうに抱えている。


「よし、行くか」


 四人を乗せた陸亀が、再び歩き出す。

 朝日が彼らの背中を押し、長い影を荒野に落とす。

 目指す峡谷からは、不穏な魔獣の遠吠えが風に乗って聞こえてきた。


 ザインの実力が試される時が来る。

 そして、カノアたちとの「共闘」が、本当の意味で試される戦いが始まろうとしていた。


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