3話 鋼鉄の来訪者
夜が訪れていた。
カノアの『心眼』にとって、夜闇という概念は存在しない。
むしろ、太陽という支配的な光源が消えることで、世界は微細な魔力の燐光によって、より幻想的に、より鮮やかに彩られる。
ゴミ捨て場に堆積した廃棄物たちは、腐敗の熱を帯びて鈍いオレンジ色に明滅し、大気中を漂う微量な魔素は、星屑のような銀の粒子となって宙を舞っている。
汚水溜まりすらも、月光と魔力が混ざり合い、エメラルドグリーンの鏡面のように輝いている。
静寂の中、視覚情報を持たないカノアだけが、この汚濁の地を「光の海」として視ていた。
「……ねえ、カノア」
隠れ家のコンテナの中。
ルミナが、不安げな声音で呼びかけた。彼女の魂の色が、サファイアのような深い青色に揺らめいている。
彼女はマグカップを両手で包み込みながら、俯きがちに言葉を紡ぐ。
「本当に、私なんかがここにいていいの? あなたの……その、お荷物になるだけじゃ……」
「お荷物?」
カノアは手入れをしていた愛剣の刃を布で拭い、口元を緩めた。
「とんでもない。さっきも言っただろ? 君が近くにいるだけで、俺の視界は拡張される。君の魔力が俺の『心眼』と共鳴して、より遠く、より鮮明に世界が視えるようになるんだ」
それはお世辞ではなく事実だった。
ルミナの魂は、それほどまでに高純度の魔力を秘めている。
彼女がそばにいるだけで、カノアの索敵範囲は通常の倍以上に広がっていた。
「まるで高性能なランタンを手に入れた気分だよ」
「ラ、ランタン……」
ルミナが少し呆れたように息を吐く。その感情の動きに合わせて、彼女を覆う虹色の光が、暖かな桃色へと色相を変えた。
美しい、とカノアは思う。
感情、魔力、生命力。それらが複雑に織りなすオーロラのような輝き。
これほどの芸術品を、世間は「醜い」と蔑み、石を投げたのだ。人の目など、やはり当てにならない。
「それに――」
カノアが言葉を継ごうとした、その時だった。
ズゥゥゥゥゥゥゥン……。
大気が震えた。
いや、物理的な振動ではない。カノアの脳内に広がる3Dマップの端、その色彩が一瞬にして「警告色」の赤に染まったのだ。
重く、冷たく、そして圧倒的に硬質な「何か」が、こちらへ向かってきている。
それは、今まで相手にしてきたゴロツキやチンピラとは次元の違う、純粋な「暴力」の接近だった。
「……お客さんだ」
カノアは瞬時に立ち上がり、愛剣を構えた。
普段の飄々とした気配が消え、全身が研ぎ澄まされた刃のような緊張感を帯びる。
「え……?」
「下がってて、ルミナ。……悪い予感がする」
直後。
隠れ家の入り口――厚さ数センチの鉄の扉が、紙屑のようにひしゃげた。
ドゴォォォォォンッ!!
爆音と共に、鉄扉が弾き飛ばされ、部屋の奥の壁に突き刺さる。
舞い上がる粉塵。
その向こう側から、巨大な影が、重厚な金属音を響かせながら侵入してきた。
月明かりが、その異形を照らし出す。
全高二メートルを超える、豪奢なフルプレートアーマー。
関節部まで精緻な装飾が施されたその鎧は、まるで美術館に飾られる芸術品のように優美でありながら、同時に生物的な威圧感を放っていた。
「……おいおい、ずいぶんと行儀の悪いノックだな」
カノアは軽口を叩きながらも、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
『心眼』が、異常を訴えている。
目の前の鎧からは、肉体の「熱」も、筋肉の「躍動」も感じられない。
あるのは、冷え切った鋼鉄の虚無と――その中心、胸の奥底で揺らめく、青白く凍てついた「魂の炎」だけ。
(中身が……空っぽだ)
まるで、幽霊が鉄の殻を纏って歩いているような、不気味な光景。
ヴィオラの城の方角から放たれた、あの青白い光。
間違いない。これは魔女の刺客だ。
「……廃棄物一三号。対象を確認」
鎧の奥から響いたのは、金属的なノイズが混じった、しかし酷く艶のある女性の声だった。
感情の一切が削ぎ落とされた、冷徹な響き。
「排除する」
言葉と同時、鋼鉄の巨躯が消失した。
いや、速すぎるのだ。その巨体からは想像もつかない踏み込みで、瞬時にカノアの目の前へと肉薄していた。
巨大なガントレットが、カノアの頭蓋を握りつぶそうと迫る。
「ッ、速いな……!」
カノアは反射的に、手にしたナイフを背後の壁へと放り投げた。
ガントレットが鼻先をかすめる刹那、固有魔法が発動する。
――『空間転移』。
フッ、とカノアの姿がかき消える。
鋼鉄の拳は空を切り、衝撃波だけで床を粉砕した。
「……転移か。小賢しい」
鎧の怪物は、背後に転移したカノアの方へ、首も回さずに裏拳を放った。
視界がないはずの背後への精密な一撃。
だが、カノアはそれすらも『心眼』で予知していた。
彼はさらに別のナイフを天井へと投げ、垂直に転移して回避する。
(中身がないなら、動かしている動力源か、鎧の接合部を断てば止まるはずだ!)
カノアは天井付近の足場に着地し、即座に反撃に転じた。
愛剣に魔力を込め、落下に転移の加速を乗せた、必殺の唐竹割り。
狙うは、兜と胴体の隙間――首の関節。
「もらったッ!」
黒い刃が、吸い込まれるように鎧の隙間へと迫る。
確かな手応え。
斬れる。そう確信した瞬間だった。
ヒュンッ!
刃が、鎧をすり抜けた。
金属音も、肉を断つ感触もない。
カノアの愛剣は、まるで幻影を斬ったかのように、鎧の首元を無抵抗に通過し、空を切ったのだ。
「な……!?」
物理的な接合部が存在しない。
いや、そもそも斬るべき「実体」が、攻撃の瞬間だけ消えたのか?
「残念ね。そこに『私』はいないわ」
鎧の怪物が、ゆっくりとカノアを見上げる。
兜のスリットの奥で、青白い魂の炎が、嘲笑うように揺らめいた。
「物理攻撃無効……いや、物理透過か?」
カノアは舌打ちをして、再び距離を取った。
厄介極まりない。
こちらの攻撃は暖簾に腕押し。だというのに、相手の一撃は岩盤すら砕く質量兵器。
相性が最悪だ。
そして最悪なことに、鎧の怪物は標的をカノアから、無防備なルミナへと切り替えた。
カノアの攻撃が通じないと判断し、より弱く、より確実な獲物へ狙いを定めたのだ。
「次は、あの小娘ね」
「ッ、やめろ!」
カノアは叫び、なりふり構わず剣を投げた。
だが、間に合うか――?
鋼鉄の悪魔が、その質量を伴って、震えるルミナへと跳躍した。




