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2話 猫とパンと騎士の影

 

「君は、俺が今まで見た中で、一番綺麗な色をしている」


 その言葉が落ちた瞬間、世界が静止したようだった。


 ルミナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは悲鳴を上げ続けていた魂が、初めて「肯定」されたことによる浄化の涙だった。


「……う、そ……」

「嘘じゃないよ。俺の目は節穴じゃないんでね」


 カノアは軽口を叩きながら、彼女の手を引いて立ち上がらせた。


 ルミナは慌てて、剥がれ落ちそうになっていたフードを目深に被り直す。爛れた肌を隠すための、彼女なりの防壁なのだろう。


 周囲には、気絶した三人の男たちが転がっている。彼らが目を覚ます前にここを離れたほうがいい。


「立てる? ルミナ」


「……うん。あの、あなたは……?」


「俺はカノア。しがない盲目の剣士さ。……とりあえず、少し臭うけど俺の『城』へ招待するよ」


 カノアはニカっと笑ってみせると、腰に愛剣を差し直し、彼女の手を引いて歩き出した。


 ◇


 カノアの隠れ家は、ゴミ集積所の奥深く、廃棄された巨大な貨物コンテナの中にあった。


 中は意外と小綺麗にしてある。

 ベッド代わりの清潔な毛布、雨水を濾過する装置、そして数冊の点字本。


 カノアはルミナを椅子に座らせ、温かいハーブティー(これもゴミ山で見つけた自生種だ)を差し出した。


「落ち着いた?」


「……うん。ありがとう……カノア、さん」


「さん付けはいらないよ。俺たち、似た者同士だろ?」


 カノアは自分の目元の布を指差した。

 ルミナは湯気を立てるカップを両手で包み込みながら、フードの奥からおずおずと口を開いた。


「カノアは……目が見えないのに、どうしてあんなに強く……それに、どうして私のことが『綺麗』だなんて……」


 彼女の声は震えていた。

 無理もない。五年間、彼女はこの世の全ての呪詛を浴びせられてきたのだ。


「醜い」「化け物」「死ね」


 そんな言葉のナイフに刺され続けてきた彼女にとって、カノアの言葉はあまりに非現実的だったのだろう。


「俺は、ヴィオラに光を奪われた。代わりに、脳が勝手に進化しちまったのさ。『心眼エイドス』……魔力や魂の形を、色として視る力だ」


 カノアは彼女の方へ顔を向けた。

 彼の視界の中で、ルミナは依然として黒いノイズに覆われている。だが、その中心核にある魂は、先ほどよりも強く、優しく輝いている。


「だから、外見なんて関係ない。……ルミナ、君の魂は虹色だよ。泣きたくなるくらい透き通ってる」


「虹……色……」


「ああ。だから自信を持ちな。君を『醜い』なんて言う奴らは、目が腐ってるんだ。せっかく見えてる目があるってのに、俺から言わせてもらえばそいつらの方がよっぽど盲人だな」


 ルミナはカップを置き、両手で顔を覆って泣き出した。

 今度は悲しい涙じゃない。

 五年間、凍りついていた時間が溶け出すような、温かい涙だった。


「……私、歌姫だったの」


 しばらくして、彼女はぽつりと語り始めた。

 王国で一番の歌姫と呼ばれていたこと。

 その美貌をヴィオラに妬まれ、奪われたこと。


 代わりに呪いをかけられ、誰もが嫌悪する姿に変えられたこと。


「……声だけは残った。でも、こんな姿じゃ誰も歌なんて聴いてくれない。石を投げられて、逃げ回って……死のうと何度も思った」


 ルミナの声が震える。

 だが、彼女は顔を上げ、濡れた瞳でカノアを見つめた。


「でも、死ねなかった。……あのね、カノア。このゴミ捨て場で、一つだけ良いことがあったの」


「良いこと?」


「うん。……絶望して、もう死のうかって思ってた時にね、私の寝床の近くに、綺麗な布の上にパンと干し肉が置いてあったの。それも、毎日決まった時間に」


 カノアの指先が、ぴくりと跳ねた。


「最初は罠かと思った。でも、お腹が空きすぎてどうしようもなくて……食べちゃった。すごく美味しかった。誰かが私のために用意してくれたって思うだけで、涙が出るくらい暖かくて……それで、もう少しだけ生きてみようって思えたの」


 ルミナは遠い日を懐かしむように、目を細めた。

 カノアは気まずそうに頬をポリポリと掻き、そっぽを向く。


「……それ、多分、野良猫用だね」


「え?」


 きょとんとするルミナに、カノアは観念したように息を吐いた。


「俺が『拾い屋』やってた頃、あの辺に住み着いた猫が腹空かせてうるさかったからさ。毎日少しずつ、食い物を分けてやってたんだよ。ある日から急に皿が空になるのが早くなったとは思ってたけど……まさか君が食ってたとは」


 時が止まったような沈黙。

 ルミナは数秒ほど呆気にとられ――やがて、肩を震わせてプッと吹き出した。


「ふふっ、あはは! 私、猫のご飯を食べて生きてたんだ!」


「笑い事じゃないだろ。衛生的にどうなんだよ、それ」


「いいの。おかげで私は今、こうしてここにいるんだもの。……ありがとう、カノア。あの時のご飯、本当に世界で一番のご馳走だった」


 真っ直ぐに向けられた感謝の言葉。


 カノアは「よせよ」とぶっきらぼうに答えたが、その耳は微かに赤らんでいるようだった。


 視界のない世界で、彼女の魂の色がふわりと暖色に輝いたのが見えた。


(……あの時の気まぐれが、巡り巡って今、俺の隣にいるのか)


 奇妙な縁を感じずにはいられない。カノアが何気なく撒いた種が、ルミナという美しい花を枯らさずに生かしていたのだ。


「一緒に行かないか、ルミナ。君のその『綺麗な色』を、世界に見せつけてやろうぜ」


「……でも。……ううん。私でよければ……あなたの光に、なりたい。なってみたい」


 二人の手が重なった瞬間、カノアの『心眼』の解像度が跳ね上がった。


 互いが互いの欠落を埋め合わせるように、魂が共鳴したのだ。


 ◇


 同時刻。魔女の城、地下実験場。


 ヴィオラは、血走った目で目の前の「檻」を睨みつけていた。


 彼女の完璧な美貌は、苛立ちと拒絶反応の激痛で歪んでいる。先ほど鏡に入った亀裂は、魔法で修復したものの、心の奥底に粘りつくような不快感を残していた。


「……私の平穏を乱すなど、万死に値するわ。私の美を脅かす『ノイズ』は、徹底的に排除しなければ」


 彼女は扇子を一振りした。

 檻の錠が弾け飛び、重厚な金属音が響き渡る。


 暗闇から現れたのは、全高二メートルを超える巨大なフルプレートアーマーだった。


「行きなさい、廃棄物一三号。……あの汚らわしい娘を、ひねり潰してくるのよ」


 鎧の兜の奥で、青白い魂の炎が揺らめいた。

 鋼鉄の巨人は、言葉を発することなく、ただ静かに一礼した。

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