1話 君は、世界で一番綺麗な色をしている
「カノア、お前の瞳はこの国の宝だ。いつかその目で、誰も見たことのない景色を見つけるんだぞ」
幼い頃、剣の師匠はいつも、大きな掌で僕の頭を撫でながらそう言った。
僕は自分の目が好きだった。鏡を覗き込むと、そこには『アレキサンドライト』と呼ばれる宝石のように、光の加減で緑にも赤にも変化する複雑な輝きを放つ瞳があった。
それを見るたびに、師匠の温かい言葉と、自分には輝かしい未来が待っているのだという予感を思い出すことができたからだ。
そう、あの日までは。
「あら、なんて綺麗な瞳。……私のコレクションにいただきましょう」
それが、カノアが光を失う前に聞いた、最後の言葉だった。
王都の薄暗い路地裏。視界いっぱいに広がる、宝石のような豪奢なドレスを纏った女――魔女ヴィオラ。
彼女が浮かべた、あまりにも歪んだ、それでいてぞっとするほど美しい笑み。
次の瞬間、焼け付くような激痛が少年の世界を塗りつぶした。
世界で一番美しいと謳われたカノアの『アレキサンドライトの瞳』は、魔女ヴィオラの指先ひとつで、その輝きごと「概念」として抉り取られたのだ。
物理的な眼球だけではない。「視る」という機能、その瞳が持っていた未来への可能性、師匠との思い出。そのすべてが、根こそぎ引き剥がされた。
代わりに眼窩に押し込まれたのは、魔女が使い潰した、どろりと腐りかけた視界の残滓。
痛み。絶望。そして、永遠の闇。
当時十二歳だったカノアの人生は、そこで終わった――はずだった。
「……ッ、ガ、アァァ……!」
闇の中で、カノアはのたうち回った。
眼窩の奥で、他人の腐った眼球が異物として脈打ち、脳を焼くような拒絶反応を引き起こす。
だが、脳は死ななかった。それどころか、極限状態の生存本能が未知の回路をこじ開けた。
物理的な光を失った代償として、脳裏に、今まで見えなかったものが焼き付いたのだ。
風の揺らぎ。
熱の奔流。
そして、生き物が放つ「魂」の色彩。
闇は、色鮮やかな情報の海へと書き換わった。
奪われた光よりも、もっと鮮烈で、残酷な「真実」を映す世界へ。
◇
それから、五年。
王国の辺境。王都から排出される汚水と廃棄物が流れ着く、巨大なゴミ集積所。
腐敗臭が鼻をつくその場所を、一人の青年が歩いていた。
十七歳になったカノアだ。
伸びた黒髪の下、目元を黒い布で覆っている。端から見ればただの盲人だ。だが、彼の足取りは驚くほど軽快だった。
まるでダンスでも踊るかのように、足元の瓦礫を一度も踏み外すことなく、迷路のようなゴミの山を進んでいく。
「……ハッ、笑わせるよな。目が見えてた時より、今の方がよっぽど『世界』がクリアに視えるなんてさ」
カノアの固有能力『心眼』。
三六〇度、全方位の空間情報が、脳内にリアルタイムで3Dマップとして投影されている。
足元を這い回るネズミの心音。遠くで崩れる廃材の振動。風に乗って運ばれてくる微量な魔力の粒子。
そして――
「おい、こいつまたここで残飯漁ってやがるぞ!」
「うわっ、こっち見た! やめろよ、目が腐る!」
「化け物が! さっさと街から出ていけよ!」
罵声。打撃音。そして、押し殺したような少女の嗚咽。
カノアは足を止めた。
三〇メートル先。瓦礫の陰。
男たちが三人、うずくまる「何か」を蹴りつけている。
カノアの『心眼』が、その光景を捉えた。
男たちの魂の色は、ドブのように濁った灰色だ。欲望と加虐心に塗れている。
王都から流れ着いた、人間の屑のような連中だ。
普段なら関わり合いにならない。自分の復讐のために力を温存し、無駄なトラブルは避けるのがカノアの流儀だ。
だが、彼が足を止めた理由はそれではない。
男たちの足元。
泥とボロ布にまみれ、必死に身を縮めているその少女から、信じられないほどの「光」が溢れていたからだ。
「……眩し」
思わず呟いてしまうほどだった。
彼女を覆う呪いのような黒いノイズ。
一般人の目には、ひび割れた肌を持つ醜い化け物に映るのだろう。
だが、カノアには視えている。
その黒い霧の奥底に、かつて彼が誇り、そして奪われたあの『アレキサンドライトの瞳』よりも気高く、虹色に揺らめく最高純度の魂の輪郭が。
(あんなに綺麗な色が、こんなゴミ捨て場に落ちてるわけ?)
カノアは腰に差した愛剣の柄に手を掛け、一歩踏み出した。
◇
「あーあ、気味の悪い肌しやがって。生きてるだけで迷惑なんだよ!」
男の一人が、錆びた鉄パイプを振り上げた。
少女は抵抗もせず、ただ震えながら目を閉じている。彼女の魂が、恐怖で小さく縮こまり、今にも消え入りそうに明滅していた。
鉄塊が彼女の頭蓋を砕こうとした、その瞬間。
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に、一本の黒いナイフが飛来した。
ナイフは鉄パイプを持った男の顔の横、数センチの地面に深々と突き刺さる。
「あ? なんだ!?」
男たちが振り返る。
そこには、目隠しをしたひょろ長い優男――カノアが立っていた。
「おいおい、寄ってたかって感心しないね。その子は俺の落とし物なんだけど?」
「あぁ? なんだテメェ、盲人か? 怪我したくなきゃ失せろ!」
男の一人がナイフを抜き、こちらへ向かってくる。
カノアはため息をついた。
「忠告はしたからなー」
彼は手の中にある、もう一本のナイフを軽く放り投げた。
標的は男ではない。男の背後にある、崩れかけた壁だ。
「はっ、どこ投げてんだ! やっぱり見えてねえじゃねえか!」
男が下卑た笑い声を上げ、剣を振り下ろす。
刃がカノアの肩を切り裂く――直前。
フッ。
カノアの姿が、掻き消えた。
「え?」
男が空を切った勢いでつんのめる。
次の瞬間、男の後頭部に衝撃が走った。
「ガハッ!?」
男が前のめりに倒れる。
その背後――先ほど投げたナイフが刺さった壁の前に、カノアは「立って」いた。
カノアの魔法、『空間転移』
自身の魔力が通った愛剣やナイフをマーカーにして、その座標へ瞬時に肉体を転送する。
「な、なんだコイツ!? 消えたぞ!?」
「魔法使いか!?」
残りの二人が慌てて構えるが、遅い。
カノアはすでに、彼らの「死角」を視ている。
(右の奴、腰が引けてる。左の奴、魔力の流れが単調)
彼は壁からナイフを引き抜くと、再び投げた。今度は二人の男の真ん中へ。
ナイフが地面に刺さる音と同時に、カノアは転移する。
男たちの間合いの内側へ。
ドガッ! バキッ!
右の男のアゴに掌底。左の男のみぞおちに膝蹴り。
攻撃魔法なんて必要ない。
どこに避ければいいか、どこが隙だらけか、カノアの『心眼』には答えが書いてあるようなものだからだ。
数秒後。三人の男たちは泡を吹いて気絶していた。
「……ふぅ。運動不足かな、キレが悪い」
カノアは肩を回しながら、うずくまる少女の方へ向き直った。
彼女は恐怖に引きつった顔で、彼を見上げている。
ボロボロの衣服。泥だらけの手足。そして、呪いによって爛れた顔。
「ひッ……!」
カノアが近づくと、彼女は悲鳴を上げて後ずさった。
両手で必死に自分の顔を隠す。
「み、見ないで……! お願い、私を見ないで……!」
「どうして?」
「私は化け物なの! 私を見ると、呪われるわ! みんなそう言って……ッ」
彼女の声は絶望に震えていた。
五年間、ずっとこうして拒絶され続けてきたのだろう。
カノアは彼女の前に膝をつき、顔を隠しているその泥だらけの手を、そっと掴んだ。
「い、いやぁ……ッ!」
「暴れないで。……大丈夫、俺は目が見えないんだ」
その言葉に、彼女の抵抗がふっと弱まる。
カノアは優しく、だが強引に彼女の手を顔から離させた。
「見えないからこそ、わかることがある」
カノアの『心眼』には映っている。
彼女の魂が奏でる、美しくも哀しい旋律が。
それは、魔女ヴィオラが持っているカノアの瞳なんかよりも、ずっと価値のある輝きだった。
「……名前は?」
「……ル、ルミナ……」
「そうか。ルミナか……いい名前だね」
カノアは彼女の頬――一般人なら触れるのも躊躇うような爛れた肌に、そっと指先で触れた。
「俺には視えるよ。君は、俺が今まで見た中で、一番綺麗な色をしている」
「――え?」
ルミナが息を呑む気配がした。
その瞬間、彼女の魂の色が、驚きと微かな希望で、爆発的に輝きを増した。
◇
同時刻。王都、魔女の城。
「ギャアアアアアアアッ!!」
絶叫が響き渡った。
豪奢な椅子に座り、優雅にワインを傾けていた絶世の美女――ヴィオラが、グラスを取り落として顔を押さえていた。
彼女の指の隙間、右目から、止めどなくどす黒い血が溢れ出している。
「な、なに……!? 私の『美』が……崩れる……ッ!?」
鏡に映った彼女の顔。
完璧な美貌に入った一本の亀裂。それは、世界の片隅で「真実の美」が肯定されたことによる、因果の反動だった。




