マッチ売りの少女
寒空の下、重たい籠を片手に薄暗い街の中にポツンと一人の少女がその身を震わせながら、小さな声で同じフレーズを繰り返し口にしていた。
「マッチ、マッチはいりませんか?」
誰一人として見向きもしない。
誰一人もその言葉に耳を貸さない。
誰一人その少女に近づかない。
見るからに貧乏そうなその少女には誰も近づきたがらなかった。ましてや売られているのはただのマッチではない。湿気たマッチだ。そんなもの、誰が必要としようか。
「マッチ、マッチいりませんか?」
誰も買わないと分かっていながらもその言葉を言い続けた。
――どうにかしてマッチを売らなくては。でなければまた父親に叩かれる。
誰も買わない。誰も近づこうともしない。一人だって少女を見ない。まるでその存在に気づいていないかのように。声が聞こえていないかのように。
否、見えているし聞こえている。ただ単純に、目を逸らしているだけなのだ。この少女とは関わるまい、と。
強く冷たい風が少女の変わった模様の、色とりどりのスカートをはためかせる。その細い体は体勢を崩し、盛大にこける。
籠から大量のマッチ箱が零れ落ちる。赤くなった指先でそれを懸命にかき集め、一つ一つ丁寧に籠に戻す。その光景を遠巻きに見る者は在れど、手を貸そうとする者はいなかった。
「マッチ、マッチいりませんか……。どなたか、買っていただけませんか……」
日も少しずつ落ち始め、少なかった人通りがさらに少なくなる。太陽の光を失ったその町は、本来の姿を取り戻す。
「寒い……」
少女は少しの間口を休め、一言だけそう呟いた。
体の先々が赤く悴み、いくら息で温めようとしてもまるで温まらなかった。
その夜はいつもの夜よりも寒かった。寒さになれていた少女でもさすがにこの寒さには耐えられなかった。
――寒い。
言葉にすることもいつの間にかできなくなっていた。未だ籠の中には大量のマッチが入っている。この日、マッチは一箱もまだ売れていなかった。
――まだ、帰れない。一箱でも売らなければ帰れない。でも寒い。どこか、なにか暖を取るものは……。
そう思った少女は手元に視線を落とす。この町には似つかない赤い箱が大量に入っている。
この赤い箱は、火を灯す道具。
知識はあった。使い方も知っていた。少女がとった行動は予想通りのものだった。
「一本ぐらい、いいよね……?」
誰に尋ねるでもなく、ぼそりと呟く。
籠をぶら下げていない方の手を、マッチの箱に伸ばす。
「あら、お嬢さん。ダメよ、大事な商品を使っちゃ。こわーいお父さんにまた叱られちゃうわよ?」
その声は、夜の闇に混じって聞こえてきた。
少女は身をビクリと震わせる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。許してください、何でも言うこと聞きますから、お酒も買ってきますから、だから殴らないで……」
乞うように少し口早に言う。
「私はそんなことしないわよ、お嬢さん。ただのお客さんよ、驚かせてごめんなさいね?」
いつの間にか、少女の目の前には一人の女性が立っていた。黒く艶やかな髪、肩のあたりで綺麗に切りそろえられている。
「お客、さん?」
少女は確かめるようにその言葉を呟く。
「そうよ、私はお客さん。質のいいマッチを買いに来たの」
「でも、どのマッチも湿気ていてほとんどが使い物にならないの。それでも売ってこいってお父さんが言うから売っているけれど。ごめんなさい、お客さんが言うような質のいいマッチなんてないわ。本当にごめんなさい」
少女はぺこりと頭を下げる。
「あなたは正直者ね。普通ならマッチを売るために嘘をつくところでしょうに。ふふっ、気に入ったわ。そのマッチを全部いただけるかしら」
女性の言葉に少女は目を丸くして驚いた。困惑した。
「本当に、全部買ってくれるんですか?」
「そうね……一つだけ条件を付けましょう。とっても簡単で、あなたにとっても悪い話じゃないものよ」
「条件?」
「ええ、そうよ。条件。そのマッチを全部買ってあげるから、私についてきなさい?」
「えっ?」
少女はまた困惑した。少女はその言葉に対する正しい反応の仕方を知らなかった。
一つだけ、確実に少女に分かっていることがあった。
「でも、そうしたらお父さんが一人になっちゃう……」
心の優しい少女は父の心配をした。家で酒ばかり飲んでいる父が一人で生きていけるはずがないのだ。
それに、この女性について行ったとして、もし父に見つかったら本当に何をされるか分からない。酒瓶で殴られるぐらいでは済まないだろう。
「あなた、そんな暴力を振るうようなやつをまだ父親と呼ぶのね。唯一の家族だものね、それに縋るしかないわよね。だって誰一人あなたに手を差し伸べようとはしないもの。みんなあなたの家庭状況を知っているから。関わりたくはないのよ」
その女性は全部知っていた。この少女がどういう家庭に生まれ、どういう環境で育ったのか。周りの人間にどういう目で見られているのか。
「……お客さんは、どうして私に手を差し伸べているの?」
「私が魔女だからよ。魔女は困っている人を助けるのが仕事なのよ?」
「魔女?」
魔女のことは少女も知っていた。魔術という奇跡の力で人々を助ける人。少女の中ではそういう認識だった。
「ええ。今、あなたの目の前には心の優しい魔女がいるわ。選択肢は二つ。家に戻って父親に殴られるか、私について来て幸せに暮らすか。選ぶのはあなたよ。私は口出しもしないし引き留めもしない。ただ道を与えただけ。さあ、選びなさい。あなたが通りたい道を」
「私の……通りたい道」
独りぼっちの少女は戸惑った。
自分に手を差し出してくれる存在がいたことに。自分というものが、あまりいいものではないということは周りの大人の目から感じ取っていた。普通の子どもじゃないのは分かっていた。父親は暇さえ酒を飲んでいるような人間だし、母親に至っては見たこともない。
そんな自分に手を差し出し、引っ張り上げようとする人がいるという事実に戸惑った。
心優しい少女は迷った。
いくらひどい父親でも、父親であることに変わりはない。男手一つで私を十二年間育ててくれた。今はきっと、疲れているだけなのだ。だから父には休んでもらわなければならない。その間は自分が頑張らなくてはならない。そう、考えた。
賢い少女は気がついていた。
彼女について行けば確実に今よりいい生活ができることに。別段、その女性が羽振りのよさそうな身なりをしているわけではない。しかし彼女について行けば人並み程度の生活が送ることができることには気がついていた。
「……ついていきます」
短く少女は答えた。女性は準備していたかのようににっこりと笑う。まるで答えなどとうの昔から知っていたかのように。
「ただ一つ、条件を変えてくれませんか」
その提案が予期せぬものだったのか、女性は聞き返した。
「条件を、変える?」
「マッチを買ってもらう必要はありません。その代わりに、お父さんにお金を仕送りしていただけないでしょうか?」
「……どこまでも優しい子ね、あなたは。いいわよ、その条件を呑んであげる。月に一度、あなたの父親に仕送りをするわ。それでいい?」
少女はこくりと頷く。
「決まりね。それじゃあ行きましょうか。……えっと、そういえばあなたの名前をまだ聞いていなかったわね。あなた、名前は?」
「アネ・マリー」
「それは、父親が名付けた名前かしら?」
小さく首を縦に振る。
「そう。ではあなたは今日からアンネと名乗りなさいな。アンネ・ワルプルギス、今日からそれがあなたの名前よ」
数年後、この町はその町を内包する国ごと滅んだ。
なぜそんなことが起きてしまったのか、それ知る者はもういない。