07 コーヒータイム
『コーヒータイム毎年恒例! 第一回ビアガーデン祭り』
へそ曲がりの探偵で三十一歳絶賛彼女募集中の藤巻博昭が発案した訳ではない。
「長野駅の駅ビルや繁華街まで行く元気が無い」
ーーそう駄々をこねていた地元檀田区の区長・各組長が住民や敬老会の声を取り上げての結果がこれ。地区の老人福祉行政の一環と言うお題目付き。
お年寄りが地元で気軽にビアガーデンを楽しめる店はないか協力してくれる店はないかと探した末に、ここコーヒータイムの駐車場が選ばれたのである。
選ばれたと言っても、全国規模の郊外型飲食店や居酒屋に掛け合ってみたところ、当たり前の話片っ端から断られてしまい、どうせ夜は客もいなくて駐車場もガラガラだろうから、無理を聞いてくれるだろうと、コーヒータイムに白羽の矢が立ってしまったと表現する方がより適切。
結局はなし崩し的に、七月の第四土曜日の夜に一晩限定と言う、地区の大人限定イベントとして開催されたのであった。
ビールサーバー用のビールなどは区の方で酒屋から仕入れ、コーヒータイム側ではサーバーを使うだけ。生ビールについては売り上げの一部をマージンとして受け取るが、軽食などはコーヒータイムの丸儲け。
初夏も終わりいよいよ盛夏が始まった七月下旬、死ぬまでにもう一度くらいは、ビアガーデンを体験したいと言う地区のご老人方のために、木製部材が多用されて品のある店構えだったコーヒータイムの店の前に提灯電灯がズラリと吊るされ、パイプ椅子座り長テーブルを前にしたお爺様お婆様が、満面の笑みで冷えたジョッキグラス片手に歓談する光景が広がっていた。
そして更なるビッグウェーブがコーヒータイムを包む。
このビアガーデンは老人福祉を建て前としているが地元の成人なら有料で参加出来ると回覧が回ったため、物珍しがった若者や中年夫婦など近所の人も集まり始め、夜の八時を前にして駐車場の仮設ホールは満員御礼、店内のカウンターも満員御礼と……店始まって以来の大盛況となったのだ。
「何か、噂が入って来た時点でこうなる予感はしていました。もともと夜の娯楽が少ない田舎ですからね。大人だけの夏祭りみたいで楽しかったですよ」ーーコーヒータイムのマスター、江森洋介談
もちろん、ホール係や調理係は店側から人を出す取り決めになっており、これだけの人数をさばくのには姪っ子の江森美央だけでは全く足りず、美央が木内奈津子を呼んでこの時点でマスターを入れて計三名。
それでも全く人手が足りないと判断したマスターは、更に秘密兵器とでも言うべき四人の男女を招聘した。そう……「藤巻探偵事務所」に所属する藤巻博昭以下三名の社員である。
マスターが調理し、江森美央と木内奈津子がホール係として店内と外の特設会場をカバーする。
そして藤巻探偵事務所の調査員二人が洗い物とホール係補佐を行い、藤巻博昭は店外に設置された生ビールサーバーを前にひたすら生ビール作り。
意外な収穫だったのが探偵事務所の紅一点、事務員の池田祥子が「調理師免許」を所有していた事。から揚げ・焼きそば・もつ煮・枝豆・ソーセージ盛り合わせなどの定番軽食から、ビールでお腹が冷えた年配客が喜ぶだろうと、その場で「おやき」や「すいとん」などの裏メニューを電光石火の段取りと手際の良さで作り上げて行った腕前は、さすがのマスターも負けたと一言呟き、いつの間にかメインシェフが池田祥子に変わっていたのはもはや伝説へと昇華していた。
誰がどう見ても今時のアラサーではなく、この人もしかして若い頃ヤンチャしてたんじゃね? 的なレディース臭を漂わせながらも、黒縁眼鏡の奥の鋭い目付きとは裏腹に、品の良い言葉遣いと老人客に対しての優しさに満ちた配慮は、美央も奈津子があっという間に彼女に惚れ込んでしまい、リスペクトすべき人生の先輩と認識するに充分なほど。
そして、池田祥子が実は藤巻博昭と同じく地元生まれの地元育ちで、中学高校と藤巻の一個上の先輩であり、藤巻が頭の上がらない一人である事を知った美央と奈津子は完全に好奇心に支配され、池田祥子に食らいつく最大の理由となったのだが、藤巻の昔話はなかなかに引き出せなかったようだった。
ーー「良い女」とは、多くを語らないのである。 木内奈津子
結果として、区主催のビアガーデンイベントは大盛況の内に終わり、毎年恒例と銘打った第一回目の催しは、来年の第二回目に引き継がれる事で決定した。
区長や民生委員、集まったご近所さんやお年寄りのみなさんは、地元でビアガーデンを満喫出来る喜びに満ちながら笑顔で帰路に着き、コーヒータイムには祭りの後の寂しさに包まれながらも、いつも通りの落ち着いた時間が漂い始める。
「皆さん、まかないが出来ましたよう! とりあえず片付けは後回しにして一息ついてください」
マスターの依頼と許可を受けて、池田祥子は手際良く人数分のカツサンドを完成させ、遅い夕飯ではあるが今日頑張った裏方さんたちにも、ホッと一息つく時間が訪れた。
コーヒータイム駐車場のビアガーデン特設会場
長野特有のカラッとした暑さに包まれながらも、長野市の北側をぐるりと取り囲む山々から、上空で冷やされた涼しげな風が降りて来る心地良い夜。
雲一つ無い空は高解像度のプラネタリウムを見ているようでもあり、まかないのカツサンドが出来上がったよと呼ばれた藤巻博昭は、この時間を壊したくないと思ったのか、店内に戻ろうとはせずに持って来てくれないかと美央にお願いした。
よっこらせと、組み立てたパイプ椅子に身体を預けてホッと一息のタバコを咥える。
マルボロメンソールに火を付けて目を細めながら煙を肺に送り込み、疲労やストレスを煙に乗せて一気に吐き出すと、ちょうどトレーを持った美央が店から出て来た。
「お待たせしました、これが藤巻さんの分です。それとこれはマスターから、ありがとうございますって」
トレーの上には分厚いカツサンドと、マスターの粋な計らいで濃いめの水割りが入ったグラスが乗っており、藤巻は「やあ、これはありがたい」と言いながら先にグラスを手に取り、美央に軽く掲げながら早速黄金色に輝く魔法の水を喉に流し込む。
「うんっ!? これはジャックダニエルだね」
「あは、気付きましたね。マスターが一種類くらいならバーボンを店に置いても良いかもって」
「うん……美味い、美味いね」
慣れない立ち仕事で一人頑張っていた藤巻だが、この一杯でみるみる内に緊張が解けて行く。それは側から見詰める美央にも手に取るように分かる……身体に染み込んだバーボンが、藤巻に穏やかな笑顔を作らせているのだ。
「久しぶりの一杯ですね。最近……藤巻さんあまり店に来れなかったから」
「この時期は大変なんだよ。依頼件数も増えて忙しい事は忙しいんだが、もれなくえげつない話ばっかりで心が病みそうだよ」
「とりあえず、休める時はゆっくり休んで、英気を養ってくださいとか言えませんね」
「何か……美央ちゃん、偉い大人っぽい事言うねえ」
「べええ! もう大人ですよう」と、あっかんべえをする時点でなかなかに子供なのだが、この社交辞令的なちょっと距離を置いた会話には理由がある。
普段は毎日の様にコーヒータイムに頻繁に通い詰めていた藤巻が、仕事の忙しさでここ十日間ほど足が遠のいていた事も確かなのだが、美央には誰にも話せない個人的な理由が存在していた。
多分「それ」を話してくれないであろう藤巻に対して、どう会話を構築すれば真相を語ってくれるかなどの、交渉術の模索を手探りで行なっていたのである。
だが、そんな美央の拙い努力も藤巻には全てお見通し。
むしろ美央の言葉のトーンや距離感や社交辞令のよそよそしさが薮蛇となり、ボクシング用語で言うところのテレフォンパンチ……どこにどう打ち込むのが見え見えのパンチになっていたのは否めなかったのである。
「美央ちゃん、吉野真里さんの事で、何か気にしてるんだろ? 」
「あっ、いえ!……あのう……」
「吉野先生はあれから何も無いんだよね、大丈夫だよね? 」
「先生は全く問題無いです。以前の様に毎日ハツラツとして頑張ってますよ」
「それなら問題無いんだけど、美央ちゃんは俺の不審げな表情が気になると」
「……すみません、気になっちゃいました」
あはは、美央ちゃんに見透かされるようじゃ俺もまだまだだなと悪戯っぽく笑いながら、藤巻はグラスを降ろして二本目のマルボロメンソールに火を着ける。何事か自分の中で反芻しながらも、美央に当たらないように風下に向かって煙を吐き出し、藤巻だけが持つ真相を語り出した。
「美央ちゃん、吉野先生が鏡を持って来たあの日、少女の霊に再び遭遇した時の事を、こと細かに説明してくれたよね」
「私は厨房にいたけど、結構大きな声だったんで、まるまる聞こえてました」
「あはは、そうだね。それで先生が語った内容と、先生が感じた判断した内容……俺はそこに合点が行かなくてね」
ーー小さなテーブルを供養してもなお現れた少女の霊。同じリサイクルショップで購入しており、それもまた原因の一つだと言う結論に関しては異論は無い。合点が行かなかったのは吉野真里による少女の霊についての説明ーー
「しきりに少女の霊は、お母さんごめんなさいと言っていた。吉野先生はそれを、事故に遭って先立つ不幸を母親に謝っているようだったと説明していたね? 」
「はい、その姿を見て可哀想だと言う感情が湧いて、心霊体験の恐怖を打ち消したとも」
「ねえ美央ちゃん、大好きな親に対して先に死んだ事を詫びるなら、何で親に憑かないんだろ? 何で母親本人じゃなくて物に取り憑いたんだろう? 」
「……あっ!? 」
「不思議に感じるだろ? 俺はそれが気になってね、その日の内に仮説を立てて裏付け作業を始めたのさ」
名も知らぬ、顔も知らない少女の素性など、いくら警察でも調べ上げる事など出来ない。ましてや不倫暴きの探偵に出来る事などたかが知れているのだが、藤巻はここに着目したーー「小さなテーブルと鏡の出どころ」だ
「この界隈にリサイクルショップは一件しか無い。吉野先生は近所のリサイクルショップで購入したと言っているから、後輩のやってる“リサイクルの王様”で間違いはなかったよ」
「生前の持ち主、店に買い取りを頼んだ人……全部分かっちゃったんですか? 」
美央の質問に対し、藤巻はクソ下手くそなウィンクで返す。これから美央に語る内容があまり気持ちの良い内容では無いのか、藤巻自身も表情を作り強張っていた事が原因だ。
ーー個人……いや、故人の情報であっても、これはここだけの話にしてくれ。名前は橋詰魅音ちゃん五歳、今年の二月に亡くなっている。自宅は長野市の南の方にあって、既に不動産屋に売却された。売却の際に家財道具は別のリサイクルショップが出張買取をしていて、その依頼は母方の親族が出してるね。そして最初のリサイクルショップから俺の後輩の店に小さなテーブルと鏡が流れて来たので間違いないーー
「美央ちゃん、ここからが刺激の強い話になる。覚悟して聞いて欲しい」
「……はい、覚悟は出来てます」
その橋詰魅音ちゃんについての死因や親の状況がこれから語られるのであろうが、この流れから察しても決して笑顔でいられる内容である事は確か。美央は自分の心が揺れて感情的にならないようにと、腹の底にきゅっと力を入れた。
「橋詰魅音ちゃんの死因は衰弱死。……死亡当日も新しいアザが出来てて身体のあちこちに内出血は確認されたそうだが出血性ショック死ではなく、直接的な原因は飢餓状態で虐待を受け続けた事による心停止、つまり衰弱死だ」
自分の血の気が引く音が聞こえるかのように、顔面蒼白となって立ち尽くす美央。真里からは母と幼い娘の生死を越えた愛情のストーリーを聞かされていた手前、そのあまりの落差に愕然としてしまっている。
「当時全国ニュースでも取り上げられてるから、ネットで検索すれば記事は出て来るはず。橋詰魅音ちゃんは両親の虐待を受けて、その幼い命に幕を閉じた」
……真っ白に染まっていたオセロの盤が、あっという間に黒へと変わって行く……
真里から相談を受けた当時、美央の中で構築された状況のイメージが音を立てて崩れ、たった今藤巻から語られた事実が、真里の証言を線で繋いで行く。
……あれは母親が童話の読み聞かせをしてくれたテーブルなんかじゃなかった! 両親とテーブルを囲む事を拒否され、隔離された自分のエサが置かれるテーブルだった!? ……
……母親に髪をといて貰っていた鏡じゃない! 殴られてボコボコになった自分の顔を憐れむ鏡だった!? ……
そして美央の思考は行き着いた、何度も真里から聞かされた少女の言葉の本当の意味を。
……大好きなお母さん、先に旅立ってしまってゴメンねじゃなかった! お母さん許してくださいご飯をください。お父さん許してくださいもう殴らないでください……その“ごめんなさい”だったんだ……
「父親は虐待容疑を否認したまま刑事裁判待ちで、母親は旦那のDVから逃れるために従属していたのだと、やはり虐待容疑を否認。だけど当時……ネットで出回っていた虐待動画を確認したら、父親が暴行する姿を母親が笑いながら撮影してたよ」
この真相を美央に話してしまえば、少なからずハッピーエンドで終わらせていた話が一転して、後味の悪い記憶に変わってしまう。
ーー藤巻は自分の知識欲を満足させた結果、代価として美談を自らの手で悪夢に変えてしまった。美央にはそうなって欲しくなくて、今の今まで黙っていたのだ。
煙を吸い込もうとしないまま、長らく指の間に留めてあったタバコの長い灰が、ポトリと地面に落ちる。指に近付く熱さを感じて灰皿にそれを捨てた藤巻は、話はこれで終わりだと、バツが悪そうにグラスを煽り、バーボンの水割りをゴクリゴクリと喉を鳴らして一気に飲み干した。
「……ぐひっ……げひっ……」
横隔膜が痙攣を起こしたのか、美央の乙女らしくない嗚咽が辺りに響く。
横顔を向けたまま視線を合わせようとしない藤巻は、そりゃあそうなるわなと納得しながら、どうやって美央をなだめるか模索を始めていたのだが、美央から発せられた予想外の一言に鼻白んでしまった。
「……うっ、ぐすっ、ぐすっ!……藤巻ざんは……ひどいでず……」
涙声ではあるが、いきなり酷いと言われハッとなる藤巻。
パイプ椅子に座ったまま、慌てて美央の顔を見上げると、そこには肩をがくんがくんと揺らして涙と鼻水を盛大に垂らして泣きじゃくりながらも、怒りに支配されずに冷静さを保とうと必死に踏ん張る美央の姿がある。
「……藤巻ざんば、藤巻ざんば、ぞれを一人で抱え込んで苦じんでたのはひどいでず。相談じだの私、相談じだの私……私だって共有したがっだ……」
ふわっと……荒んでいた藤巻の心に、柑橘系の甘くて爽やかな香りを乗せた風が通り過ぎて行く。
虐待した両親に対しての怒りや悔しい気持ちと、橋詰魅音ちゃんに対しての同情や憐憫の想いが今の美央を泣かせているのだろうと藤巻は判断していた。
しかし、一人でそれを背負い続けていた藤巻に対して、まさかそれすらも思いやる言葉が出て来るとは……。
年頃は年頃の女の子なんだろうが、何か人に言えないマニアックな趣味を持つちょと痛い女の子ーーそう言う認識を改めるべきと思ったのか、「そうだな、悪かったな」と優しい声で詫びながら、ポケットからそっと取り出したハンカチを美央に渡した。
“藤巻さんが、藤巻さんが美央を泣かしてるっ!? ”
藤巻に余計な不幸が訪れたのはその時だった。
せっかく美央と普段通りの距離になったかなと思った矢先、コーヒータイムの店の入り口からこちらを覗き見ていた木内奈津子が、美央の異変を店内に向けて知らせたのだ。
「美央、美央! 藤巻さんに何されたの!? 」
「奈津子ちゃん、誤解だよ! 吉野先生の事話してたんだよ」
「ヒロくん! ヒロくん! 何で女の子泣かせてんの! ヒィヒィ泣かすなら先ずは私でしょ! 」
「祥子さん、俺社長! 俺社長だから呼び方おかしい! それに俺あんたと関係無いし! 」
あっ、マスターがピースサインしてる
あれはチャック・ノリスと同じく“二秒で殺す”のサインだ……
もう地区の役員も敬老会も地元の人々もいなくなったコーヒータイムに、今日一番の騒々しさが訪れている。
手で掴めそうな気すらしてくる雲一つない満天の星空の元で騒ぎまくる仲間たちはやがて、誰が言い出した訳でもなく「ご苦労さん会」に名目を変えて、苦くて冷え切った大人の醍醐味と一緒に、この思い出も楽しい記憶として胃に流し込んで行く。
藤巻がくれたハンカチを涙と鼻水でベッショベショにした美央もやがて笑顔に戻るのだが、美央と奈津子の二人だけ未成年扱いを受け、オレンジジュースを飲んでいた時だけは、ほんのちょっぴり不機嫌であった。
故人情報
終わり