修行の日々・2
風呂を上がった後で水を飲みに台所へ行くと、夜行がコーヒーを飲んでいた。
どうやら今日は時間があいているようだ。
大抵は俺のランニング(どちらかというと無限ダッシュに近い気もする)に付き合った後で慌ただしく仕事に出かけていくのだが、今日はジーンズにシャツという気軽な恰好をしている。
煙草を吸いに外へ出て行くから、ついて俺も外へ出る。
空は青空で、まだまだ暑くなりそうだ。
煙草を咥えている夜行の顔をちらりと見た後で、俺も煙草を咥える。
身体を動かした後で、こうやってのんびりするのも良いものだ。
俺が伸びをして暢気に欠伸をするのを見て、夜行が笑った気がした。
「何だよ?」
照れ臭くなって声を掛けると、夜行は苦笑を浮かべた。
「身体を動かして満足、じゃ困るぞ?」
「う。」
見透かされた俺は、呻いて黙る。
毎日の運動はあくまでも術式のための体力づくり。それは分かっているのだが、こうやってアスリート並みの身体づくりに専念していると、何だかそれだけで気持ちが足りてしまって先に進もうって気が失せて来ているのも確かだ。
けれど言われて見ればそれはそうで。
体を鍛えてアメコミのヒーローみたいな体格になったところで、ミサちゃんは褒めてくれるかもしれないけど、俺がしようと思っている事には何の関係も無い。
二本目の煙草を吸い終わるまで、俺も夜行も無言だった。
まだ吸うかどうするか、夜行を見るとこちらを見ていてドキリとする。
夜行が手を伸ばしてきて俺の右腕に降れる。
ゆっくりと撫で上げて何かを確かめるように。
俺としては結構な至近距離で身体を撫でられているので緊張しているのだが、夜行はそんな事を気にする風もなく腹も撫でた後、俺の指に自分の指を絡めてくる。
え。え。ちょっと!?
何してくれるんですか、夜行さん!?
自分の頭に血が上って来るのが分かるけど、夜行は深く指を絡めた後に撫でるように指先に向けて滑らせてから手を離してしまう。
それからにっこりと笑った。
俺の赤い顔を見ても動じる事もなく、物凄い近くで俺を見上げている。
ど、どうしよう。
キ、キスしてもいいのかなあ。
「今日は出来るかな。」
ええ!?なにを!?
動揺している俺に向かってまた笑いかけてくる。
ああ。頭が沸騰しそう。
「この間出来なかった術式をもう一度やってみよう。」
は。
血液が、すとんと落ちた。
俺が入った事のない部屋がこの家には存在している。
玄関から入って廊下を歩くと、左側にトイレと小さな洗面所。その隣が客室。客室の相向かいが俺の部屋で、その隣の角部屋が夜行の部屋。
リビングとキッチンは続いていて、リビングから縁側で中庭に降りられる。
キッチンの相向かいが廊下を挟んで巨大な風呂だ。
東の玄関から入って真っ直ぐ続く廊下に今の施設がつながっていて、廊下の先に扉がある。その先にミサちゃんの部屋があるんだけど、俺はあんまり行った事がない。
ミサちゃんの部屋に繋がる廊下には何枚もの扉があるけれど、俺はそこに一度も入った事はなかった。子供じゃあるまいし案内されない部屋を探訪する趣味もなかった。
その部屋の一つに夜行が俺を連れて入る。
大きな道場のような場所。
板張りの床に堅牢そうな柱が取り囲んだ部屋は、入ればすぐに分かるほど何重もの術で囲われていた。
「ここ、は。」
「見て分かる通り、修練場だ。」
見て分かるって言いますけど。
確かに剣道の道場みたいだけど、あからさまに雰囲気が違い過ぎるだろ?
俺が緊張をしているのを見て夜行が苦笑を浮かべる。
「冴羽さんは術式に敏感だな。」
「そ、そうか?」
肌に伝わって来るのは、悪意無き只の構築だけされた術の形。
壁や天井からだけではなく、足を置いている床からも伝わってくる。
重ね掛けをこんなにして大丈夫なのだろうかと心配になるくらいの数だ。素人の俺にその数を当てることは出来ない。
「じゃあ、これから始めよう。」
夜行が手に持っているのは、最初の日以来見なかった和綴じの本だ。
身体が出来上がるまでと、俺は手に取らせてもらえなかった。
白い指が紙を繰る。
前書きのすぐあと、一番初めに書かれている術式。
「やってみようか、冴羽さん。」
「ああ。…よろしくお願いします。」
俺が頭を下げると、恥ずかしがると思っていた夜行は静かに微笑み、こくりと頷いた。
一番初めに載っているからには簡単な術のはずだ。
なのに俺は直されてばかりで出来なかった。
夜行は壁に背中を預けてこっちを見ている。
まずは手助けなしでやってみろって事だろう。考えてみれば最初も本を手渡されただけで詳しい話はなかった。暫く俺が読み進んでから声を掛けてきたっけ。
そのあと夜行が教えてくれたのは。
足を肩幅に開き呼吸を止める。それから左の足を外側に持って行く。呼吸は止めたまま。ゆっくりと右足を体の方へ、すり足で近づける。
左手は身体に沿うようにそのまま。右手を足の爪先と同じ方向へ伸ばす。ゆっくりと鼻から息を吸う。今まで止めていたから苦しいけど急に吸ってはいけない。
身体の重心も左の方へ少しだけ傾ける。
右手の中指と薬指をつける。他の指を曲げた後、それを伸ばしながら二本を曲げる。手のひらを返し上へ向ける。その手の平に意識を集中しながら文言。
「真区真紅呼び寄せりて多祁理焔の沈むる先ここぞ。」
ちりっと手の平が痛んだ。何か小さい鋭い物に捻られているような感覚。
だけどその感覚は、ほんの少しの時間ですぐに消え失せた。
何も起こらない。
はあっと溜め息を吐いて俺は姿勢を戻す。
最初からやり直しだ。
夜行は姿勢を変えぬまま俺を見ている。
俺は足の裏が擦り切れるんじゃないかってくらいに同じことを何度も繰り返した。
修練場の中は陽が射さなくて薄暗く、時計もないからどれだけやっているか分からない。
だけど出来るまで続けるしかない。
俺は心の中で数えていた数を百回が過ぎてからカウントするのを諦めた。
千回でも一万回でも、出来るまでやる。
ああ。でも。
腕が上がりにくくなって来たなあ。
汗が床に落ちて水たまりを作り始めた頃、夜行が壁から離れた。
俺が動きを止めて夜行を見ると、彼は俺を見て小さく頷く。
「少し休もう…もうすぐミサも帰ってくる。」
「そ、そっか…。」
息が乱れていて、上手く喋れない。
「腹も減ったし、な。」
そう言って扉を開けて出て行く彼の後を、のろのろとついて行った。
リビングのソファに座って目を閉じる。
ああ。術式、半端ねえ。発動しないのに何だよ、この疲労感。
走ってる方が楽じゃないか。
台所に行った夜行が何か調理している音がする。
けれど、それを覗き込んでからかうとか行動を起こす気にはなれない。
手足を投げ出して寝てしまいたい。
疲れている今は、それが正直な感想だ。
でも。
心の中では違う事を思っている。
くやしい。
どう見ても簡単な術が出来ない。
俺にはやっぱり不思議な才能なんて無いんじゃないかって思ってしまう。
夜行にスカウトされていい気になっているだけの、ただの居候じゃないか。
台所から夜行が何かを持って出て来る。
俺の前と自分の前に皿を置くと、俺の顔を見て首を傾げた。
「何を思っている?」
「別に、なにも。」
「…そうか。良かったら食べてくれ。簡単なものだけど。」
皿には美味しそうなナポリタンが乗っていた。
好物です。
だるい手で口に運ぶと。
うまい。
料理も出来るなんて、最強ですな夜行さん。
もぐもぐと食べていると、リビングにひょっこりとミサちゃんが顔を出した。
「ただいま。おいしそうやね?うちの分はないの?」
「お帰りミサ。」
「お帰りミサちゃん。」
「ねえ。うちの分はないのん?」
ちょっと頬を膨らませているミサちゃんが、可愛すぎて萌える件。
夜行が台所を指でさす。
それだけで分かったように、ミサちゃんは嬉しそうに台所に向かった。
「ツーカーだな。」
俺が言うと、夜行が苦笑する。
「慣れ、だよ。」
俺も早く、そうなりたいなんて思ってしまった。




